あれは穢れている。
 あの虚空を見つめる眼は人のものでは無い。
 あれ自身、鬼か或いは化生か。
 近寄らぬが身の為よ。

 西棟屋上の鉄柵に背中を預けて仰ぎ見る空は、冷え切った自分の意思に反し赤く滾っていた。夕焼けの間を駆け抜ける物悲しい風が帰宅の途に至る通学組の声を乗せて来る。
 渋谷は手に持っていた紙を怒りに任せて握り潰し、そのまま宙へと放り棄てた。それでも尚消化しきれない憤怒を拳に込めて鉄の柱へと叩き込む。
「そう拗ねるな」
 他者の存在に驚いて振り向くと、一人の年老いた男が皺だらけの紙を広げていた。紙の隙間から小さな何かが滑り落ち、チリンと金属の音を鳴らして地面に転がる。鈴の付いた御守りである。
 途端に気恥ずかしい気分になり渋谷は赤く腫れた拳を隠した。
 学科試験では首席候補の小林を破り、実技試験に於いても首位の座を守っていた松山と肩を並べる成果を残した。その刹那に染みた優越と達成感は成績書に並ぶ『可』の字によって打ち消された。可、可、可。優の字など何処にもありはしない。査定した教官に異議を唱えれば、返ってきたのは自惚れの烙印と黙殺を意味する拳であった。彼はご丁寧にその成績書に生活態度に難ありとの字を書き加えていた。
 鉄柵の間から米粒のような人影を眺めていると、背後から肩を優しく叩かれた。
「近頃、妙な名前で呼ばれているらしいな」
 渋谷は鬼頭教官の手をやんわりと振り払った。
「名乗った覚えは無いが、何やら先日俺は不可思議な事件を解決したらしい」
 眉を上げて首を傾げる彼に、渋谷は言葉を選びながら続ける。
「……前も言っただろう。時々飛ぶんだ。気が付いたら何かが起こっていて、何かが終わっている」
「怪奇だのう」と、鬼頭は渋谷の隣に並んで立ち、東の方角を見つめた。
 平静を装いつつ、いつ怒号と拳が飛んでくるかと身構えているも、今はただ優しい時が過ぎて行くだけである。ちらりと横目で教官の顔を窺うと、彼は顔を皺くちゃにして微笑んでいた。
 この帝國の膝元でその名を名乗るなど自殺行為に等しい。憲兵の前で態々挙手をして犯罪を自白するようなものだ。事実、渋谷がそうだという噂が流れてからは元より数の少なかった数名の友人が離れて行き、誰もが色眼鏡を通して見て来るようになった。この成績はその表れである。不服なのは一点のみ、何故己がそう呼ばれるに至ったのかまるで身に覚えがない。
 渋谷は冗談めかして拳を翳して見せた。
「どうだ、恐ろしいか」
 鼻で嗤われ、大きく分厚い手に髪を乱雑にかき乱される。
「貴様も何れ兵として戦場へ赴く時が来よう。怪奇だの何だのに慄いているようでは彼の地獄を生き抜くなど到底叶わんよ」
 豪傑の爽やかな笑いにつられてしまう。心地の良い老爺節が心に染みる。
 軍学校の教官は誰もが皆口を揃えて、男児は國が為戦場で散るが華と謳う。だがこの男――誰よりも厳しいこの鬼教官だけが、命を粗末にするなと口にする。男の役目は散るに非ず、仮に負け犬と呼ばれようとも貪欲に命を惜しんで生き抜き、先を築く礎となるべしと。言うなれば異端者。未だ社会を知らない学生達には評判である一方で、社会を知る者達にとっては鼻つまみ者である。
 この教官とは然程長い付き合いではないが、渋谷には不思議と親しみを抱ける相手だった。
「その名で呼ばれる者は皆、何かしら闇を見ると云う」
 東棟の屋上から鐘楼の音が聞こえてきた。ボーン、ボーンという響きが茜の空に響き、数羽の烏が飛び立つ。
「この陰りに満ちた逢魔が時、貴様は何を見る」
 強く冷たい風が渋谷の髪を乱した。
 鬼頭の眼は真っ直ぐ東棟の鐘を見据えている。
「偏屈で暴力的で、お人よしの爺さん……かな」
 頭に浮かんだ言葉を口にすると、そうかそうかという笑みと共に拳を突き出され、思わず身構えた。促されるままに手の平を広げると、先程紙くずと一緒に空へ放り投げた御守りを握らされた。
 拳の中で、チリン、と紐についた鈴が鳴る。軍学校入学前、遡れば物心がつく頃から所持している物で外見はだいぶ草臥れている。小林や松山からは何度か子供じみていると嗤われた事がある。渋谷はばつが悪そうに俯くとそれをズボンのポケットに仕舞った。
「時に貴様は柿が好きだったか」
「苦手だって何遍も言ってるだろう」
 外方を向いて答えると、鬼頭は白髪混じりの髪を乱暴に掻いた。
「そう言うな。あの震災以来、田舎の連中が何かと寄越してくるんだよ。……さあ戻るぞ。ここは冷える」
 もう一度東の方角へ視線を投げてから踵を返す師に続こうとして、渋谷は足を止めた。
 一際強い一陣の風が渋谷の脇を通り抜け、老爺の大きな背に襲い掛かった。彼は己の乱れる髪を気にも留めず屋上の扉へと歩を進めている。
 どす黒い風が教官の身体に纏わり付いていた。
 此方を振り向き不思議そうに瞬きをしている鬼頭の顔を、闇が覆ってゆく。
 渋谷は瞠目したまま立ち竦んでいた。
「何ぞ見えるか」
 彼は何処か悟ったような寂しそうな微笑を浮かべていた。
「お前はそれで良いのだ」
 渋谷が恐る恐る一歩鬼頭に近づくも、大きな手で制される。
「柿はまた今度にしよう。なに、逃げはせん」
 黒い風は鬼頭から離れ、吸い寄せられるように渋谷の足元へと這い寄ってきた。滲みよって来るそれから逃れるように後退し、鬼頭と距離を取る。
 かさこそかさこそ。
 人の声のような雑音が耳を支配する。
「腹が空いたら――」
 闇の向こう側から優しい声が聞こえてくる。

 腹が空いたらいつでも俺の部屋に来い。柿は箪笥の中の箱に詰めてある。
 俺が居る時には茶でも用意してやるぞ。

 悪夢のような一日から如何程の時が経ったのだろう。
 襤褸を着せられた渋谷は薄汚れた茣蓙の上で子供のように縮こまっていた。格子の手前には欠けた茶碗に半分の粟と具のない味噌汁が置いてあるが、いずれも熱を失っている。
 ――もっと話がしたかった。
 出逢ってから別れるまで何度彼と言葉を交わせたのだろう。時間は在った筈だ。誰もが抱いていたであろう尊敬の念とはまた違う、それ以上の情念を抱いている事に今更気が付くとは。朧にあった記憶と感情をはっきりと思い出した今の心には、後悔しか浮かんで来ない。何よりも腹立たしいのはそんな大事な人間の死を呆けたように忘れていた自分自身である。
 冷たい。悲しい。寂しい。
 大切な命がこの現世から消えてしまった事実がじわじわと身体から熱を奪ってゆく。
 会いたい。

 錠前が外され、格子が開く音が聞こえた。
 渋谷はそれを遠くの世界の物と感じていた。軍靴の音が近付いて来て自分の目前で止まる。来訪者は何か言っているようだがこの耳はそれを正確に捉える事が出来ない。
 肩を乱暴に蹴られた。尚も無視して膝に顔を埋めていると、大きな手で頭を鷲掴みにされた。
 あの大柄な憲兵の顰め面が視界の中央に入った。
 憲兵は渋谷の手と足の首に重たい錠を掛けると、鎖に引っかけていた紐を握った。宛ら犬である。言葉もなく手首に掛けられた紐を引かれ、渋谷の躰は意に反して立ち上がった。腹に碌なものを入れていないせいか身体に力が入らず、視界が陽炎のように揺らめく。時折憲兵が棒で叩いてきているようだが痛みは無い。只、歩くという本能に任せて憲兵の歩みを追う。
「怪奇とやらの所為にすれば煙に巻けると思ったか。何が記憶喪失だ。俺は騙されんぞ」
 歩みの遅い渋谷の腕を引っ張り、その鼻先に憲兵が険しい顔を近付けた。
「判事どもを欺けども、この俺がいる限り貴様の好き勝手にはさせん」
 ぼんやりと在らぬ方へ目を落す渋谷の胸倉を掴み上げる。熊に摘ままれた犬のように少年の体が宙に揺れるも、彼の眼は憲兵の向こう側に広がる虚を見詰めている。
 貴様、と罵声が憲兵の口を突いて出た刹那、太い腕が一回り細い男の手に掴まれていた。
 手の主は温和な表情で、小刻みに震える憲兵の手をねじ伏せるように操り渋谷を降ろさせた。彼はさり気なく渋谷との間に割って入り自分より頭一つ大きな憲兵に微笑みを投げる。
 憲兵は顔を更に歪ませて判事を見下ろした。
「判事如きが今度は何の謀りだ。この罪人を逃す手筈でも整える心算か」
「弁えなさい」 手塚判事が渋谷の肩に手を添える。「度が過ぎるようであれば相応の対処を致します」
 苦虫を噛み潰したように舌打ちをする憲兵を背に、手塚は気力を失った少年を優しく地に立たせ、その痩せた頬に手を添えて宙を揺蕩う彼の視線を自分の方へと引き寄せた。
「彼が待っています。参りましょう」
 朧に見えていた世界が次第に形を取り戻していく。
 ――彼?
 視線がぶつかり合う。手塚はそれに安堵したのか柔和な微笑のまま小首を傾け、渋谷に先へ進むよう促した。
 慌てて渋谷の背に手を伸ばした憲兵は手塚の優雅で鋭い一瞥を受け、怯んだ。手錠の鎖に巻き付けた紐が外されていく様を悔しそうに見守る。
 手塚に背を撫でるように叩かれ、渋谷は恐る恐る歩を進めた。未だ手首には冷たい感触があるものの先刻まで身に纏わり付いていた重圧は少しばかり晴れていた。
 渋谷は暗鬼の視線を手塚に向ける。
 ――被告人渋谷史人に、死罪を。
 傍らでさも味方のような顔をしているが、彼は一度その木槌を振り下ろそうとした。温和な顔の下にはあの憲兵と似たような思惑があるのかもしれない。心中に暗雲が燻る。渋谷の視線に気付いているのかいないのか、若き判事は相も変わらず笑みを絶やさない。己の置かれている状況が未だ判然とせず、渋谷は手塚の微笑を受け止めきれずに目を泳がせた。
 窓も無い石造りの廊下が何処かあの校舎の仄暗い地下を彷彿とさせる。通路に人影は無いが、時折、部屋の中から話し声が聞こえて来る。久々に生活音を身近に感じた渋谷は少々戸惑っていた。
 やがて手塚が一室の前で足を留め、それにつられて渋谷も立ち止まった。
 扉が開かれた瞬間、内から流れて来た香りに不思議と懐かしいという感情が渋谷の内に湧いた。女が纏うような甘ったるい香水では無い、清涼感のある自然の花の匂いである。そんな優しい香りに包まれる部屋の中は嵐でも過ぎ去ったかのように乱雑であった。木製のテーブルを挟んでソファが向かい合っている事からここは応接間らしい事が察せられるが、敷物の紋様を覆うように其処彼処に書類が散乱しており、到底話が出来るような状態ではない。
 何より渋谷の目を奪ったのは、ソファに横たわり背凭れに足を放り投げて書類を読み耽る人物だった。
 渋谷が呆気に取られている間にも手塚は足元に散らばる書類を一枚一枚丁寧に拾い上げていた。部屋の有様を目にした憲兵が顔を真っ赤にして何やら喚くのを手で制し、外で待つように目配せをする。
 場をある程度片付けて多少見栄えが回復したところで、手塚は部屋の最奥にある隣室に繋がる扉に手を掛け、あッと渋谷が声を掛けるよりも先に奥の部屋へと消えてしまった。
 洒落の一つも感じられない無機質な部屋に紙を捲る音が響く。渋谷は縛られたようにその場から動けない。息を潜め、書類の向こうから時折覗くあの少年の顔を見つめる。記憶に鮮明に刻まれている、晴れた日の帝國の空よりも美しい青の髪。瞬きをする度に長い睫毛が上下し、その奥でびいどろのような青い瞳が文字を追って小刻みに動いている。その姿はけして行儀が良いとは言えないが、指先の動きや些細な仕草には気品が宿っていた。
「軍学校生徒連続負傷事件。お前が過去に関わったというのはこれか」
 凛とした声に、渋谷は弾かれたように居住まいを正す。
「ふん。野良探偵には丁度いい」
 それが独白ではなく自分に向けて投げられた言葉であると知るまで暫くの時間を要した。
「……野良探偵」
「連盟に登録せぬ者は皆そう呼ばれる。残念だがあの連中は野良に手を差し伸べるほど寛容では無いぞ。おかげで事が大きくならずに済んだのは幸いだがな」
「……事が大きく」
 少年は書類を下げ、侮蔑の視線で渋谷を射抜く。
「人の形をした蓄音機とは随分と洒落ている。壊れているようだがな」
 心の臓を刀剣で貫かれたような感覚がする。冷え切った蝋のような身体に再び熱が浸透して行き、額に滲んだ汗が頬を伝って顎から滴り落ちた。
「出身は」
「……物心がつく頃には孤児院で暮らしていた」
「旧志方邸孤児院か」
 少年の意図を把握しきれず、渋谷は睫毛を伏せる。
「鬼頭教官の死を殺人と断定した根拠は何だ」
 数秒も経たないうちに少年が話題を変える。
「よくは知らない。ただ周りはそう言っていた。それを究明する為のデモだった」
 教官に叱られているような気分で渋谷が回答した時。
 少年は猫のようにしなやかに身を起こし、手にしていた書類を拳ごとテーブルに叩きつけた。発砲音に似た乾いた音が冷たい部屋に響き渡り、やがて消える。渋谷の息を封じるには十分すぎるほどの音である。
「先日、議事堂前広場で大規模なデモがあった。以前より活動のあった婦人協会によるもので、活動家の数名は逮捕されたが、後にこれも署名活動によって釈放されたそうだ。この國に於ける婦人の扱いを少しでも向上せんとする革命家達の訴えを受け、政府でも法改正の動きが出て来ている」
 固唾を飲んでその先の言葉を待っていると、再び、美しくも鋭利な視線を向けられた。
「これが運動というものだよ少年。そこに正しいも間違いも無い、戦争と同じ己が信念のぶつけ合いよ。或る者は空腹を満たす為、或る者は我が子らの未来の為、或る者は低賃金労働を変える為。現状を変える為に革命家らは散りゆく覚悟で事を起こす」
 少年は腰を上げ、ゆっくりと渋谷の眼前まで歩いてきた。たった数歩の間でもその動きには気高い矜持が感じられる。華奢で、渋谷よりも頭二つほど小さな彼だが、あの憲兵よりも雄々しい力を全身に宿している。渋谷はこの小さな巨人に圧倒され呼吸を忘れていた。
「だがお前はどうだ」
 少年が一歩前に足を踏み出せば渋谷は本能で後退る。背中に扉の感触を覚えた。
 退路無き渋谷に尚も少年は歩を進める。
「俺は真実が知りたかった。鬼頭教官には恩を感じていた、敵を討ちたかったんだ」
 右肩に強い打撃を受け、全身が痺れた。
 何事かと状況を把握するよりも前に二度目の衝撃を腰に受ける。全身に響き渡る痛みに耐え切れずその場に崩れ落ちると、首筋に硬いものを感じた。
少年が杖の先を渋谷の首に宛てがっていた。それは渋谷の乾いた肌を伝い、喉元を撫で、クイと顎を持ち上げる。
「軽いな」少年は睫毛を伏せて薄く嗤っていた。「お前のあらゆる物に魂が感じられぬ。まことに生きているのかすら怪しいものだ」
 杖にそのまま後ろへ押しやられ、後頭部が扉に当たった。杖は尚も追随し渋谷の喉に食い込む。このままでは貫かれてしまうような気すらして渋谷は杖の先を握り締め、喉から離した。
 傍らで風を切る音がして思わず目を瞑る。少年の足に肩を踏み躙られ、渋谷は苦痛に顔を歪ませた。
「故人の名を出して尤もらしい事を叫んだとて、ひとたび帳を捲ればそこは空ろ。おおかた瑣末な事件をひとつ解決したところで調子付いたのだろう」
 違うと言い返そうとして言葉に詰まった。
 確かにあの騒動は、鬼頭教官の事故死が五名の教官による殺人だという噂を究明せんが為の物だった。自分もまた恩師の無念を晴らそうと覚悟を決めて運動に参加した、その筈だった。
 だが今この時、瞑目し胸に手を当ててみても、そこに少年の言うような熱情は無かった。
 ――探偵と名乗るからには、この謎もちょいと解いちゃくれないかい。
 己が怪奇探偵と呼ばれるに至った、帝都新聞にも小さく掲載されたという軍学校生徒連続負傷事件。この事件を切欠に多くの友人を失い教官らの見る眼も厳しいものとなったが、その中で小林や松山は相変わらず以前のように気安く接してくれた。
 必要とされる喜び。
 己を動かしたのは怒りでも憎しみでもない、信念と呼ぶには不相応の稚拙な感情。恩師の死に託けて、この件で活躍し己を見下す連中を見返してやろうと勇んだ浅ましい声にも覚えがある。
 少年の青い眼球に映る愚かしい己の姿から目を逸らして渋谷は目頭を押さえた。
 びいどろの瞳は全てを見透かしている。
「今のお前に故人の死を悼む資格など在りはせぬ」
 杖が、顔を覆う渋谷の後頭部を弄ぶ。
 容赦なく降り注ぐ侮蔑の視線から逃れようと渋谷は頭を抱えて縮こまる。激情が込み上げてそれが目から溢れそうになった時、杖の動きが止まった。
 手塚判事が少年の杖の先を握り締めていた。
 少年は手塚を一瞥すると、小刻みに震えて嗚咽を漏らす渋谷の肩から足を離した。微動だにしない杖が解放されるまで待ち、ソファの背凭れに放り出された黒い外套を掴む。
 手塚が腰を下ろし、扉の前で蹲っている渋谷の肩に触れる。僅かに付着した泥を払い落として声を掛けようとすると、渋谷はその場に平伏した。
 膝を折って額を冷たい地面に擦り付けるさまに少年も判事も動きを止めた。
 二度と相見える事の叶わぬ恩師の姿に向けて、只管に。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 地面に何度も額を打ち付ける渋谷を少年が静かに見下ろしている。
 手塚が渋谷の両肩に手を添えて彼を立たせた。赤く腫れた目を恐る恐る上げると、己を見上げて来る少年の瞳が視界に入った。一瞬、遠くの景色を眺めるような寂しげな笑みを見せた彼であったが、すぐさま元の冷徹な表情に戻る。
「過去は変えられぬ」
 少年は渋谷の脇を通り抜け、扉を開いた。
「だがその声を聴く事が出来るのは、今を生きる者だけなのだ」
 外で待機していた憲兵が少年の存在に目を丸くしている間に、彼は薄闇の中へと消えて行った。
 部屋に取り残された渋谷はぼんやりと扉の向こう側を見つめる。涙で視界が歪んでいるが不思議と意識は鮮明だった。最後の一滴が頬を伝い落ちるのを拭っているとハンカチを差し出された。
「三日後に再審が行われる予定です」
 手塚は訝しげに部屋の中を覗いてくる憲兵に軽く微笑を投げて扉を閉めると、先程テーブルの上に置いた未だ熱の残るティーカップを手に取った。
「連盟が関与してくるようであればもう少し時間が稼げるかと思ったのですが、君は野良……失礼、正式な身分では無いとの事なので、支援の類は期待しない方が良いでしょう」
「そういえば先刻、そのおかげで事が大きくならずに済んだ、と」
 カップを渡され促されるままに飲んでみると、不思議な味がした。喉が潤いで満たされていく。
「怪奇――怪奇探偵という立場がこの國に於いて如何なる扱いを受けるか、君も知っているでしょう。特に連盟と帝國政府は仲が悪く、中立公平を謳う十三判事の中にも、政府の思想に傾倒し、怪奇探偵に対して偏見を持つ者も居るようです。この事件を切欠に政府が連盟側に何らかの圧を掛けるのではと懸念しているのですが、君が『自称探偵』なのであればまだ救いはあります」
「……良かった」
「然し非常に分が悪い。何もしないままでは先日の裁判の繰り返しです」
 安堵は一瞬で終わった。手塚は相変わらず紳士的な笑顔だがその眼は笑っていない。
「どうするかは君のご自由に」
 そう言って彼は渋谷の手から空になったティーカップを取り、代わりに小さな茶色の紙袋を持たせた。
 渋谷は紙袋と手塚を交互に見比べる。
 手塚は議会の人間であり、その時が来ればあの時のように容赦なく木槌を振るうのだろう。彼の笑顔は本意を隠しているように見える。
 ただ、自分の命は未だ三日残されているという事だけは分かる。
 ――過去は変えられぬ。
「行かなければ」
 ――だがその声を聴く事が出来るのは、今を生きる者だけなのだ。
 いずれ死ぬ運命ならば、せめてそれを手土産に恩師の元へ逝きたい。
 渋谷は紙袋を握り締めて手塚に深々と頭を下げると、勢いよく扉を開け放ち外へと飛び出した。
 丸い目を更に丸く見開き呆気に取られて少年の背中を見送る憲兵に、
「冴島殿」と手塚が声を掛ける。
「彼らの監視をお願いします」
 そして目を白黒とさせて慌てて渋谷を負う憲兵を見送り、部屋に散らばったままの資料を見渡した。

 光を目指して石造りの監獄を只管走る。息は瞬く間に切れ、己でも驚くほどの強烈な倦怠感が身体を支配する。手首には錠が掛けられたままなので上手く身体の均衡を保てない。時折黒い風に足を絡め取られ幾度となく地に手を突いたが渋谷はその度に立ち上がった。
 暗澹の果てに茜色の光が射す。それは久し振りに見る夕焼けだった。
 天秤の紋章が光る建物を背にぐるりと円形の噴水に沿って煉瓦道を走っていると、噴水の水辺に泊まっていた数多の白い鳩が一斉に飛び立ち、思わず足を止めた。
 白い羽根が舞い落ちるその先に、風に靡く青い髪を見つけた。
 少年が団子に結った髪を鍔の広い帽子に押し込んでいた。
「待ってくれ!」
 歩を止めた少年の外套が風に煽られて激しく揺れる。
「俺が医務室に入る少し前、不可思議な現象に遭った。これはその時に出来た傷だ」
 少年の背中に向けて右手の手の平を開いて見せる。
「白熱灯を破壊するほどの強風だった。事件に関わっているのかは定かじゃ無いが……、いや、何か必ず関係がある筈なんだ」
 数日間腹に何も入れていない渋谷の絶叫は、力なく震え、殆どが噴水の水音に掻き消されてしまっていた。
 聞こえなかったのだろうかと傷だらけの裸足で煉瓦道を踏み締めると、薄雲に垣間見える夕陽を仰ぎ見ていた少年が徐に渋谷の方へ顔を向けた。
 びいどろの瞳がきらりと輝いた。
 暫しの沈黙の間、渋谷はその瞳を真っ直ぐ見詰めていた。
「其れは人の眼では捉えられぬ、然れども人の心に巣食うもの」
 耳元で囁いているような明瞭な声。
 少年の瞳は手の傷ではなく、その向こうにある渋谷の瞳に向けられていた。
「人の心より出ずる其れを穢れと呼び、穢れは怪奇と化す。時に現象、時に化生として。この空蝉に於ける不可思議な現象は全てが怪奇なのだ。お前が遭ったというその不思議な風も然り。そしてその正体を知る事が出来るのは、それを喰らう事が出来る人間だけなのだ」
 それは即ち、
「怪奇探偵」
 もし自分にその資格があるのなら――いや、無くとも、自分は知らねばならない。探偵ではなくただの渋谷の内なる声が真実を求めている。この少年に全てを託して独房で裁きを待つよりも自らの目で真実を見定める事の方がずっと意義があると確信している。
 背後から怒声と共に荒々しい革靴の足音が聞こえて来た。
 少年は帽子を目深に被って踵を返し、鍔の下から夕陽を見上げた。
「此度の事件、怪奇が真実を隠している。僕はそれを喰らいに来た。全てを喰らい尽くす事が共に帝國を生きた輩へのせめてもの手向けとなろうよ」
 背後から憲兵に羽交い絞めにされ、手の錠に再び紐を巻き付けられる。乱暴な扱いの最中も渋谷は少年から目を逸らさない。
「お前、名は」
 再び強い風が二人の間を駆け抜けた。
 少年は目深に被った帽子の下で柔らかく微笑み、答えた。

「ニコ」

– – – – –

 三月八日 帝都新聞
 帝國軍学校殺人事件 再審決定
 犯人は怪奇探偵 連盟は一切の関与を否定
 審議延期に遺族の怒り止まず 帝國議会裁判所の是非を問う

 硝子戸を無骨に叩かれ、新聞を熱心に読み耽っていた初老の守衛が慌てて眼鏡をかけ直し窓を開けた。虫も眠る早朝は白い霧が発生し一寸先も見えないほど視界が悪い。白い世界の真ん中に聳える熊のような男に目を丸くした。深緑色の軍服と軍帽を纏った巨漢は白い世界に一際目立つ。
 憲兵は身分証を呈示し、守衛の手元に放置された帳簿に乱雑に名を記入した。
「一寸した見分だ。暫くの間、人払いをしてくれ。不審在らば帝國議会裁判所手塚判事まで」
 ぶっきらぼうに言い放ち、冴島は追求の視線から逃れるように踵を返した。少し離れた物陰に控えていた渋谷の腕を引き、人目を気にしつつ校門を超えて件の東棟を目指す。
 渋谷は黒帽を目深に被り、冴島に押し付けられた黒い肩掛けを首に巻いて肌の露出を抑えていた。
 自分は今この帝國に於いて最も見られてはならない存在である。本来ならば外の空気など吸えたものではない。本日は休校日だが、鐘が鳴る時間にもなれば勤務熱心な教官や暇を持て余した寮生の姿が見えて来るだろう。ここに殺人犯が居るとばれてしまっては騒ぎになるに違いない。
 冴島に首根を掴まれながら東棟へと急ぐ。その両手首は手錠の代わりに縄で確りと縛られていた。
 夕焼けの中あの不思議な少年の名を聞いた直後、空腹の直後に激しく動いた所為か自分は倒れてしまったそうだ。目覚めた時には独房に逆戻り、牢越しにこの憲兵としかめっ面を突き合わせながらも久方振りに物を口にした。その間、冴島は呪文のように何度も同じ事を繰り返し渋谷に言い聞かせていた。これは特例だ、あってはならない事だと。どうやらあの手塚判事が裏で色々と手回しをしてくれたらしい。ただでさえ審議延期について世間や記者から反発を受けているので、渋谷自身が実況見分の名目でこうして捜査を行っている事はごく一部の人間しか知らない。周囲に存在がばれるような事があればお目付け役の冴島にすぐさま独房へ戻される約束だ。
 穢れのない朝の空気を吸い込み、淀んだ体内を浄化する。
 移動しながらぼんやりと校庭を眺めていると、体術の実習訓練で鬼頭教官に投げ飛ばされた光景や、小林や松山と肩を並べて走った記憶が瞼の裏に蘇る。過去となってしまった日常に、込み上げて来るものに耐え切れず目許を拭っていると、視界に見覚えのある姿が過ぎった。
 ――ニコ。
 美しい髪を覆い隠す漆黒の帽子と外套といった姿は、洋書に登場する天使にも死神にも見える。
 ニコは東棟入り口前で立ち止まり、その遥か天辺を仰いで目を細めていた。
「またお前か! 親は一体何をやっておるのだ!」
「あれは人が鳴らすのか」
 冴島を無視し、その後ろに控えている渋谷に問いかける。
「いや。定刻に鳴る仕掛けになっている」
 近くに在る私塾や会社の要望もあって、毎日朝九時と夕刻五時に鳴る仕掛けだと伝える。
 ニコは真剣な相貌で物思いに耽る。その横顔に渋谷は思わず息を呑んだ。
 間近まで寄ると睫毛の一本まで見える。淡雪のような柔肌、整った鼻筋に薄紅色の唇は西洋の人形を彷彿とさせる。初めはこんな子供が怪奇探偵など世も末だと思っていたが、渋谷よりも頭二つほど小さな彼の顔立ちに子供特有の無邪気さは見られず、寧ろ他を圧倒する堂々とした出で立ちであった。
「オイッ、俺を無視するな!」
 憤怒の顔で詰め寄る冴島など眼中に無いのか、ニコは眉一つ動かさずに東棟昇降口へと踏み入った。風の音ひとつ聞こえない廊下を見渡し、あの日渋谷が辿ったように地下へと続く階段を降りて行く。
 渋谷は縄を引っ張って冴島に少年を追うよう示した。
 違和感を覚えたのは階段を降り切った直後のことである。ツンと不快な臭いが鼻を刺激した。廊下は綺麗に掃除されているものの、硝子が割れてマウントが剥き出しになった白熱灯があの事件が現実であった事を物語っている。
 冴島が壁に掛けられた非常用の懐中電灯を手に取り、闇に包まれた廊下を照らした。
 渋谷は目を細めて医務室に続く廊下を凝視した。闇から微かに流れて来る雑音には覚えがあった。穢れは血の臭いを引き連れて渋谷の身体に纏わりつく。それを払い落としている間にもニコは躊躇う様子もなく渦中へと歩を進めていた。医務室の入り口すら覆い隠す穢れは少年を包み込もうとするも、不思議と彼がそれに呑まれることは無かった。
 生温い臭気を極力吸わないよう口元を両手で覆い、渋谷もまた穢れの海へと飛び込んだ。医務室に近づくにつれて血の臭いは強烈となり、雑音が耳鳴りのようにこだまし、渋谷の五感を狂わせた。縄を引いていた冴島は苦しそうに咽る渋谷を不思議そうに眺めている。
 顔を上げると、闇の中でニコが真っ直ぐ此方を見て呆れたように眉を垂らしていた。情けないと知りつつも渋谷はニコに身を寄せる。不思議と彼が傍にいるだけで安心した。
「タタリ場だ。穢れにまみれた場所をそう云う」
 ニコが渋谷の髪にふっと息を吹き掛けると、それまで渋谷の背中に圧し掛かっていた黒い影が霧散した。吐き気や耳鳴りが漣のように静かに引いていく。戸惑いながら顔を上げると少年の意識は既に医務室のドアノブへと向いていた。
 怪奇。怪奇探偵とは何だ。
 自分はかつて何らかの怪奇にまつわる事件を解決し、怪奇探偵と呼ばれるようになった。だが怪奇や怪奇探偵の何たるか、その姿は未だ朧である。
 ――人の心より出ずる其れを人は穢れと呼び、穢れは怪奇と化す。
 右の手の平を広げて真一文字に抉られた皮膚を見る。
 あの時の風が『怪奇』或いはその片鱗なのだとしたら、正にあの時あの瞬間に医務室で何かが起こっていたのだろうか――。
 医務室の扉を開けると、最早壁と床の判別もつかない程のどす黒い闇が広がっていた。
「おい熊、部屋の明かりを付けろ」
 ニコの言葉を聞いて渋谷が冴島に視線を投げる。冴島は一度後ろを振り返り、呆けた顔で渋谷を見た。そして耳まで真っ赤にして地団駄を踏んだ。
「クソッ! 餓鬼がッ、怪奇探偵如きめがッ!」
「どうした、冬眠中か?」
 何事かを喚く冴島にニコが背中を向けたまま畳み掛ける。
 唇を噛んで背後から殴りかかろうとする冴島の前に渋谷が飛び出して、頼むと両手を合わせて拝んだ。言い方は悪いがニコの人選は間違っていない。冴島はこの中で唯一の『見えていない者』である。
 冴島は振りかざした拳を忌々しげに渋谷の頭頂部に叩き込むと、懐中電灯を翳して電源を探した。
 ひりひりする旋毛を摩りながら再びニコの方へ向き直った渋谷は、そこに彼の姿が見えない事に気が付いた。眼前には広漠たる穢れ。四方八方を見渡せども目に見える世界は黒く塗り潰されている。かさこそかさこそと不愉快な雑音が耳を犯し、途端に冷たくなった空気が静電気のように肌を刺した。
 戸惑い、視界に青色を探していた渋谷の動きが止まる。
 右の足首に感じる圧迫感。感触からしてそれは人間の手の形をしている。
 ――助けてくれ!
 雑音の中から耳元に落ちてきた男達の声には聞き覚えがあり、耳を塞ごうとした手は粘り気のある生温い何かを掴んでいる。それを目の近くまで持って来ると、鉄の臭いと共に粘膜が糸を引いて滴り落ちた。
 渋谷は息を呑んで微かに脈打つそれを床へ落とした。開いた両手が震える。指の隙間から臨むは五つの死体。血にまみれた彼らは皆一斉に渋谷を凝視している。その唇からは黒い血が溢れ出ていた。
 絶叫したその瞬間、脇から白い手が伸びて来て渋谷の腕を掴んだ。
「やめろ、は、離せッ!」
 強引に襟首を掴まれて必死に抵抗していると、パン、という音と共に頬に衝撃が走った。
 青い瞳の中に呆けた顔の自分が映っている。周辺を見渡すも死体など何処にも見当たらない。
「莫迦者、呑まれるな」
 そう言ってニコが懐から取り出したのは要の部分に鈴が付いた扇子である。閉じたままの扇子を横に構えて渋谷に向けて翳すと、凪の中、鈴が何かに弾かれたようにリンと鳴った。
 チリン、チリン、チリン。
 鈴の音が闇全体にこだまし、余韻は穢れを伴って宙へと消える。穢れが完全に晴れると、そこには天井からぶら下がる白熱灯に照らされる医務室が広がっていた。冴島が顰め面で此方を見ている。
 木造の部屋は一見廊下同様綺麗に片付けられているように見えるが、彼方此方の隙間に詰まる黒々としたものはおそらく拭いきれなかった血の残滓だろう。医療道具や医薬品が入っていたであろう戸棚は一つは硝子戸が粉砕され、二つ三つが倒れたままの状態で放置されていた。
 そして何より渋谷の視線を釘付けにしたのは四方八方の壁に刻み込まれた数多の傷である。それを指でなぞって思案するニコの横顔をぼんやりと眺めていると、瞳が此方に向いた。
 ニコが顎を動かして働けと言った。
 渋谷はぎこちなく目を逸らした。他人任せではいけないと知ってはいるが、渋谷には怪奇探偵としての記憶も自覚もない為に、何から手を付けるべきなのか初歩的な事すら分からない。すぐ傍には縄を握り締めて自分の行動の逐一を監視する熊もいる。
 冴島は手にしていた懐中電灯を壁に立て掛けた。
「逃げる算段が付かないならさっさと諦めてしまえば良いものを」
 そう言いながら自分の身体の半分ほどの位置にあるニコの頭を見下ろす。
 猫は威嚇する熊の眼前を優雅に横切り、医務室全体を見渡した。
「僕は探偵として仕事をしに来ただけだ。暴いた真実とやらが矢張りそこの渋谷何某が犯人であると語るのであれば、後は煮るなり焼くなり好きにすると良い。僕だって相応の罰は受けるさ」
 呆けた顔で猫と熊のやり取りを眺めていた渋谷が、その厳しい言葉を受けて我に返る。
「一体何処の物好きがこんな餓鬼を雇ったのだ」
 冴島はどうやらこれが単なる探偵ごっこなどでは無い、という事は学んだらしい。代わりに、審議を延期させ、被告人に実況見分をさせるような権限を持つ何者かが黒幕として存在していると睨んでいる。
 渋谷も冴島の睨みに同様の感想を抱いている。その黒幕とニコの狙いは渋谷の弁護では無く、あくまでも真実の追究である。一命を取り留めたものの安心は出来ない。このニコが傍にいる間に無実を証明出来なければ今度こそ死刑だ。どうにも不安が拭えないのは、やはり事件当時の記憶が曖昧であるが故に他ならない。それでも、その恐怖を悟られてはすぐさま冴島に足を取られてしまうと思い、渋谷は無理にでも険しい顔を作った。
「良いか、小僧」と冴島が縄を引いて渋谷を強引に引き寄せる。「紛争の最中にここへ立ち入ったのはこの渋谷だけなのだぞ。丁度この辺りに突っ立って居た所を取り押さえられた。これが犯人で無く何と言う」
 ニコに視線を向けられ、渋谷は自分の立ち位置を改めて確認した。正確な位置は記憶があまり定かでは無いのだが、少なくとも廊下や奥の倉庫では無かった筈だ。
「立ち入るくらいなら誰にでも出来る。西棟にいた筈の被害者達が東棟地下に行った事にも誰も気が付かなかったのだから。教官達がいつ会議室を抜け出したかにもよるが……」
 西棟から東棟に移動するにはどうしても南棟の眼前を横切らなければならないが、特に南棟の前では激しい争いが繰り広げられていたので、渋谷でさえ誰の眼にも止まらなかった。例えば教官達が医務室にいると知っていた何者かが先回りをして彼らを殺害した後、渋谷に罪を着せる事も可能ではある。
 ニコが一つの可能性を示唆した所で冴島が首を振った。
「だがこいつは武器を持っていた」
「そうであったとしても殺人を犯したとは限らない」
「屁理屈だ!」
「貴様の主張も同じだ。被告人の記憶が定かでは無い、この漠然とした中で真実を決めるのは愚かと云う物よ。諸君らの背を押しているのは偏見であり、それは常に人の目を曇らせ、真実の探求を阻むのだ」
 ――怪奇探偵なんざ碌なモンじゃねぇ。犯人はそいつで決まりだ!
 傍聴席で上がった声、女性判事の煽り。中立を重んずる帝國議会裁判所だが、あの時は確かに強烈な『流れ』があった。その流れを作ってしまう程にこの職業は蔑視されているのだ。
 冴島は大仰に肩を竦めた。
「フン、どうせお前が言いたいのはこうだろう。『人の眼には見えぬバケモノが次々に教官らを殺したのだ』と。ならそのバケモノがやったという証拠は! この渋谷が本当に記憶を失っているという証拠は! それを証明出来ない以上は目が曇っているのはお前も同じだぞ!」
「お、俺は本当に記憶が……」
 険しい顔で凄まれ、渋谷は二の句が告げられない。
 黙って冴島の主張を聞いていたニコが深く頷いて彼の顔を仰ぎ見た。
「目が眩んでいるのはお互い様か。ならばここで一度、帳を下ろしてみようではないか」
 二人に向けて人差し指を立て、長い睫毛を伏せて見せる。
 渋谷は戸惑いながらもニコに倣って目を閉じた。
 何をやっておるのだと口を尖らせて仏頂面をしていた冴島も、瞼を閉じるニコと渋谷に見えない視線を向けられて、エヘンと咳き込んで瞳を閉じた。
 静かな暗闇の中で、チリン、と清浄の音が鳴り響いた。
 深呼吸をしてその音を聞いていた渋谷はこの状況に既視感を覚えていた。記憶には無いが、今までに何度もこうして誰かが鳴らす鈴の音を聞いていたような気がする。身動きが取れない暗闇――おそらくは眠っているのだろう――その中で聞いた金色の子守歌は、闇に惑う心にいつも寄り添ってくれていた。
 渋谷が再び目を開けた時、瞑目しながら扇子を掲げるニコが見えた。風一つ通らない薄暗い部屋の中、扇子の先で鈴がゆらゆらと振子のように揺れている。
 冴島がその異常な鈴の動きに気が付いて薄気味悪そうに顔を顰めた。
 鈴の音が漣のように部屋中に反響する。最後の音が完全に静けさに呑まれていくのを待つと、ニコは扇子を懐に戻して、代わりに鎖の付いた懐中時計を取り出した。
「医務室に向かった時間を覚えているか?」
 渋谷は少し考えて首を振った。
「正確な事は分からないが……大体8時半頃だったと思う」
「その根拠は」
 苛ついた様子で冴島が訊ねる。
「突入時間です。もうじきと言う時に具合を悪くして」
 フム、とニコは顎を撫でて思案を巡らす。
「渋谷は西棟を離れ真っ直ぐ東棟地下医務室へ向かい、そこに入った辺りで記憶が途切れている。第一発見者の証言によれば医務室で彼を取り押さえたのがおよそ9時半頃。西棟から医務室に移動する時間を約十分と考えても、渋谷は1時間程度記憶を失っている計算になる」
「五人を殺すには十分だ」
 少なくとも俺なら出来るぞと冴島が自慢気に言ってのける。
「こいつが貴様と肩を並べるような手練れに見えるか」
 ニコと冴島に睨まれ、渋谷は虎に睨まれた兎のように縮こまって首を振った。冴島が試しに拳を突き出してみるが、渋谷は避け切れずに真正面からそれを受けてしまい、その場に崩れ落ちた。渋谷の鼻から溢れる血を冴島が呆れたように拭うのを見てニコも溜息を吐いていた。
「それに、他にもやる事は在る」
 ニコはそう言って壁の傷を指し示した。
「これと同じように死体の外部にも無数の傷があった。そして被害者達の胸から抉り取られていた心臓は未だ発見されていない。何処かに処分しに行ったと考えるのが普通だ」
 教官五名を殺害後、壁と死体を切り刻み、心臓を抉って何処かに処分する。余程の手練れで無ければ1時間では足りない。
「普通の人間なら不可能だろう、だが犯人は五人もの人間を殺した狂人だ。火事場の莫迦力と言っては少々語弊があるが、狂気のあまり常軌を逸した力を発揮したのやも知れんぞ」
 ニコは冴島の言葉に思い当たる節でもあるのか、成程、と口角を上げた。
 冴島の主張はこうである。此度の殺人は、医務室で偶然彼らと居合わせた犯人の手により突発的に行われた。殺害後、心臓を抉って何処かへ捨てに行き、現場に戻って来て死体や壁を傷つけている所を発見者達に取り押さえられた。行動の全ては狂気に依るものであり、そこに明確な理由など在りはしない。
 無茶苦茶だ、と渋谷は思いながら、一つ疑問が浮かんだ。
「心臓は一体何処へ消えたんだ」
 調査に依ると少なくとも東棟周辺では発見されていない。東棟裏庭で起こしたボヤに混入させるという手があるが、事件が起こった頃はボヤ班と教官達が衝突していた。更に渋谷は多量の返り血を浴びていたので、その中で人の目をかいくぐって臓腑を処理するなど不可能である。
「廊下にも血痕があったという話だが、犯人が一旦医務室の外に出た証拠では」
「あれは渋谷少年のものだ。ここへ来る途中で手を負傷している」
 ニコの言葉を受け、冴島が訝しげに睨んで来るので渋谷は掌を翳して見せた。確かに、手を切った際に血が滴り落ちて慌てて拭った覚えがある。
 ニコは上着のポケットから小さな手帳を取り出し、そこに挟んであった紙切れを冴島に渡した。廊下の俯瞰図であり、血痕を意味する印が道の途中から点々と医務室に続いていた。これ以外に血痕の痕跡は見当たらず、廊下の血痕は五つもの心臓を所持した状態で移動した痕跡では無く、渋谷の物であるとの結論で冴島も納得した。同時に、先程ニコが提示した可能性――第三者が教官を殺害し渋谷にその罪を被せて逃走したという可能性も消滅した。心臓を所持しておらずとも返り血を浴びた状態で廊下に出ればそれなりの痕跡が残る筈だ。
「そうすると、やはり犯人はこいつしか居ないぞ」
 犯人が教官を殺害した後に医務室を出ていないのであれば、必然的に部屋に残っていた唯一の生存者である渋谷が犯人となってしまう。
 そこで最初の疑問に戻る。心臓は一体何処へ消えたのか?
 見落としは無いかと床板や壁を探る渋谷と冴島にニコが薄笑いを向ける。
「心当たりは無きにしも非ず」
 二人の男は一緒に顔を上げ、部屋とニコを見比べる。隠し扉や床下に収納庫でもあるのだろうかとニコの挙動を見守っていると、少年は口を開けてその中に何かを放り込む仕草をした。
 足の爪先から旋毛までなぞるように冷気が駆け抜け、全身が震えた。
 冴島も同じように悍ましい光景を想像したらしく、込み上げて来るものを堪えて咳き込んでいた。
 もしも欠落した記憶の中で自分がその凶行に及んだのであれば。
 粘り気のある生暖かい肉を噛み砕き、生臭い液体と共に飲み込む。一つ、二つ、三つ……。少年の豊かな想像力は幻の感覚を再現してしまう。渋谷の我慢は限界を迎えた。冴島の手をすり抜け、部屋を飛び出して廊下の片隅に胃液を撒き散らす。溢れる涙と涎を服の袖で頻りに拭っていると冴島に肩を掴まれ強引に医務室へと引き戻された。
 犯人は狂人であると主張した冴島はニコの言う犯人像と自分の意見が合致したものの、不服そうに顔を顰めていた。状況はやはり渋谷少年が犯人だと語っているように見える。然し、目の前で小刻みに震える顔面蒼白の軟弱者とニコの推理にあるような狂気の業がどうにも繋がらない。
「この男に鬼でも宿ったか、或いは――」
 ニコは目を細めた。
 部屋に暗雲が立ち込める。壁の切り傷から、床板の隙間から、拭いきれなかった血から、黒い煙が薄っすらと立ち上る。パチパチと建物が軋む音が彼方此方で発生した。
 その音は冴島の耳にも届いていた。
 空虚から滲み出て来る黒い霧が渋谷の身体に纏わり付いた。闇が、少年の視界に映る景色の全てを奪って行く。渋谷の眼には一筋の光も射さない。小刻みに震える己の手首を無心で摩っていた。
 ――あれ自身、鬼か或いは化生か。
 己も知らぬ内なる鬼が。
 ――気が付いたら何かが起こっていて、何かが終わっている。
 人の命を奪い、その肉を貪ったのだとしたら。
「オイッ!」と冴島が声を荒げて渋谷の襟首を掴んだ。「真実を吐いたらどうだ! 心臓は本当に貴様の腹の中へ消えたのか! ええッ!」
 白熱灯がキイキイと小さな悲鳴を上げながら揺れていた。
 渋谷はぼんやりと鼻先まで迫る冴島の顔を見上げていた。
「渋谷史人は以前にも記憶を無くしている」
 ニコが渋谷の表情を見守りながら淡々と語る。
「軍学校生徒連続負傷事件――渋谷が怪奇探偵として知られるようになった事件だが、自身に事件に関わった記憶はまるで無い。二つの事件、二つの記憶喪失。この二つの事件には必ず共通点が隠されている」
 ニコの言葉になど耳を貸さず只管揺さぶってくる冴島の目の前で、渋谷は脳内に響くニコの言葉を咀嚼し、今自分が何を語るべきなのかを模索した。

 恩師が未だ健在であった去年の冬。その年は秋に差し掛かる頃に大地震が発生し、帝國全土が混迷を極めていた。軍学校は直撃こそ免れたものの校舎が倒壊するなど多数の被害があり、学生達は学業の傍ら復興作業に従事していた。暫く麻痺状態にあった内閣政府が態勢を整え復興を軍の主導にするまでは、渋谷も度々鬼頭に指示されて学校内外の奉仕活動に参加していた。
 寮生の中には家族を亡くした者や火災で家を失った者もおり、遠方に住む親や親戚に呼ばれるなどして寮を離れる者が多かった。渋谷にはそれだけ心配する者もしてくれる者もいない。孤児院は倒壊の被害が比較的少ないようで、渋谷が外出のついでに立ち寄った時には被災者の為に開放されていた。かつて世話になった院長や職員達が幼い子供達と庭で遊んでいるのを遠目に見て、震災を切欠にあそこの世話になる子供が増えるのだろうと考えていると、自然と足が遠退いてしまった。今の自分には少なくとも寮という場所が在るのだから徒に面倒を掛けてはならないと考えた。
 その時期の寮はとても静かだった。いつも学生相手に威張り散らしている教官も直ぐに鞭を振るってくる寮長も居ない。渋谷以外で残っているのは実家や自身に影響の少なかった余裕のある学生で、その時ばかりは街に広がる陰鬱な空気よりも友人達との些細な会話が心の慰みになった。夜な夜な誰かの部屋に菓子を持って集まっては、何処かで死んだ学生の幽霊が出没しただとか、今回の地震で破損した教室から白骨死体が見つかっただとか、埋蔵金が発掘されただとか、ごく他愛もない噂話で盛り上がっている所を鬼頭教官に見つかって殴られる、というのがこの頃の常であった。
「昨日でもう六人目らしいぜ」
 早朝、着替えの最中に話を切り出したのは同室の上級生だった。東棟で早朝の清掃活動をしていた学生がいつの間にか足の脛を切っていたのだと言う。それまでの被害者も東棟で清掃活動をしている最中に被害に遭っているそうだ。始めは彼らの怪我を自身の怠慢だとして取り合わなかった教師陣だったが、鬼頭教官が生徒達の傷を見た所、あと少し深ければ痕として残っていた、或いは命に関わっていた、看過出来ない物だと判断し、昨日になって漸く清掃活動の中止命令が出た。
「お前どうせ暇だろう。付き合え」
 物好きな上級生が渋谷と数名の同級生を引っ張り、それを見付けた通学組の小林や松山が加わり、始業の鐘が鳴るまで東棟で時間を潰す事になった。
 震災で潰れた馴染みの喫茶店の看板女給が何某に嫁入りをした、帝國劇場の新人の女優が可愛い、などと色話で盛り上がっていると、コラ何をしていると遠目から教官に叱られた。上級生が手を振って適当に誤魔化している隣で小林が渋谷の肩に手を置いた。
「そろそろ尻尾を見せるんじゃないかと睨んでいるんだがな」
 キョトンとしているのは渋谷だけである。何の話か小林に訊ねようとして、教官をあしらった上級生に遮られた。こう明るくては雰囲気が出ないと文句を垂れて、下級生三人――渋谷と小林と松山の背中を小突く。三人は小突かれるままに薄暗い地下へ続く階段に足を掛けた。
 その時、チリン、と何処かで鈴の鳴る音がした。不思議そうに辺りを見渡す渋谷だが、上級生達の野卑な笑い声と共に突き飛ばされる。
 階段を見下ろすと其処には闇が広がっていた。
 やれ小林も口だけか。おい松山お前が先導だぞ。渋谷は晩飯抜きだ。
 闇が声を呑み込んで行く。上級生に背を押されても足は階段に張り付いて動かない。奥から流れて来る冷たい風が渋谷に警告をしていた。
 止まれ。これ以上進んではいけない。
「……駄目だ」
 その言葉が喉を突いて出た瞬間。

 チリン

「――気が付いたら自分の部屋で横になっていた」
 始業の時間はとっくに過ぎており、渋谷は慌てて教材一式を持って教室へ向かった。その時既に自分は隔たれた世界へと足を踏み入れていたのだった――。
 冴島が舌打ちをして渋谷を掴み上げる手を緩めた。渋谷がその件に関わっていたと聞かされた冴島も当時の新聞記事に目を通している。『学生数名負傷、軍学校にて怪奇事件発生か』という小さな見出しで掲載されていたが、事件がどのように解決したのかは不明である。
 ニコは顎に手を当て、虚空を見つめる渋谷を見上げている。
 報道されなかった真実。然し教官や学生達は事件を解決へと導いた渋谷を怪奇探偵と呼び、蔑視した。
「他に覚えている事は」
 ニコの問いに渋谷は黙って首を振った。肌が覚えている全てを語り尽くした。
 肩に重圧を感じる。次第に濃くなっていく黒い霧は錆びた鉄の臭いがした。呼吸をする度に身体から力が抜けて行く。静寂の中で糸のように張り詰める高音が耳鳴りだと知るまで暫しの時間を要した。
 冴島が閃いたように手を打って渋谷の肩を掴んだ。
「その事件も貴様の仕業だったのだ。記憶喪失の鍵は犯罪だ。貴様は罪を犯す時に記憶を失うのだ」
「違うな」ニコが少し離れた場所で口を挟む。「少なくとも負傷事件の際は大勢の目撃者がいる。罪を犯したのであればその場で即刻捕まるだろう。その時何があったのかは改めて学生達に聞き込みをするとして、二つの事件に共通点は確かに在るようだ。……東棟、そして切り傷……」
 乾燥した空気が肌を刺して来る。
「負傷事件にて渋谷少年が怪奇探偵として事件を解決したのであれば、殺人事件でも渋谷は同様の事を行ったのでは無かろうか」
 ニコは渋谷の瞳に映る己を見詰めながら、天井に向けて指を立てた。華奢な指先は真っ直ぐ白熱灯を指していた。
「渋谷の内に眠るは鬼に非ず。彼が記憶を失っていたその時――」
 黒い霧が――『穢れ』が、碗に水を注ぐように天井まで嵩を増やして行き、光を喰い尽くして行く。
「彼のもう一つの人格――怪奇探偵が目覚めていたのだよ」
 渋谷の視界が完全に闇に覆われ、震える手で掴んでいた意識を手放す、その刹那。
 チリン、と何処かで優しい音色が聞こえた。

 白熱灯が一際大きな音を立てて破裂した。
 冴島が何事かと咄嗟に天井を仰いで、降り注ぐ硝子の破片を浴びてしまう。電灯を失い、闇に包まれた部屋の中で何が起こっているのか解らずにいると、破片の一つが冴島の頬の皮膚を切り裂いた。己の身を護ろうと腕を翳すにも遅く、冴島は顔面に走る痛みに顔を顰める。
 その瞬間、懐から伸びて来た手に胴体を突き飛ばされた。
 壁に身体を打ち付けて地面に伏した冴島の前に誰かが立っていた。足音からそれが渋谷だと分かった。
 闇を睨みつけた冴島は、ふと、地面を突いた掌に感じる異変に気付いた。先程破裂した硝子の破片が幾つか皮膚に食い込んでいる。一つ一つは小さなものだがその全身が鋭利に尖っており、それらは魂を宿した動物のようにカタカタと小刻みに痙攣していた。
 部屋全体が震えている。四方八方の壁からパチパチと悲鳴が上がる。
 微かな刺激を覚えて冴島が右腕に手をやると、上着の裾が真一文字に切れていた。更に裾の下に覗く二の腕も裾と同じ直線の傷が深々と刻まれている。それに気を取られて俯く冴島の襟足が瞬時に刈られ、彼が恐る恐る項に手をやると生暖かい液体が指先を濡らした。
 思考が停止して恐れ戦く冴島の鼻先を何かが横切った。うわあ、と野太く弱々しい悲鳴と共に巨体が尻餅をつく。
 黒い何かが風を切って闇を縦横無尽に駆け回っている。
「憲兵、灯りだ!」
 少年の凛とした声が怯える巨体を張り飛ばした。憲兵と呼ばれた冴島は八の字に曲げていた眉に力を籠めて、荒ぶる呼吸を押し殺して立ち上がった。
 ひゅんひゅんと壁から壁へ天井から床へ飛び移っていたそれは、闇をまさぐって壁に立て掛けていた懐中電灯に指を伸ばす冴島を標的に定め、その後頭部に襲い掛かった。
 懐中電灯を掴んだ冴島は脇から体当たりを受けて地面に転がった。その頬に血飛沫が掛かる。冴島が決死の想いで点けた電灯は縄から滴り落ちる血を照らした。縛られたままの手が鮮血で染まっていた。その主は闇の奥深くで蠢く何かをじっと見定めている。
 冴島は渋谷の視線の先に電灯を向けた。
「あれぞ此度の事件に蠢く真実、このタタリ場が生み出した怪奇――」
 天井の片隅に張り付いている黒々とした生物はその牙を青い瞳に向けた。
 逆立つ毛並み。体躯よりも長い尻尾。刃物の如き鋭い牙と鎌の形をした両腕を剥き出しにして、それは壁を蹴った。弾丸はニコの耳を裂いて壁を穿つ。ぽとりと地面に落ちた黒帽の上に一房の青い毛が舞った。団子に結っていた髪が解けて、後からやって来た強い風を受けて大きく広がった。
 闇を這いずり回っていた怪奇は再び地を蹴ってニコに襲い掛かった。
 あっと冴島が声を挙げる。彼が身を乗り出すよりも先に傍らの渋谷が動いていた。鎌の先はニコの肉を抉るよりも先に渋谷の手によって阻まれた。
 一陣の風の如く空を駆け、触れる物の全てを切り裂く。
 人の穢れを喰らうその怪奇の名は、
「――鎌鼬」
 鷲掴みにした化生の名を渋谷が口にした瞬間、部屋中が左右に大きく揺れた。足を掬われた冴島が再び尻餅を突いた。懐中電灯が地面に落ちた衝撃で破損してしまう。半分壊れた電灯がチカチカと苦しそうに息づく中、部屋は奇妙な水縹色の灯に照らされていた。
 突如現れた幾多の青い炎が狂ったように部屋中を飛び交っていた。
「そして鬼火が六つ」
 廊下から外に転がり出ようとする冴島の頭を炎が掠める。眼前に迫る炎を見た瞬間、冴島は瞠目して絶叫した。両目が抉られ穴という穴から黒々とした血を垂れ流した男の生首である。青い炎に包まれた生首は今際の悲鳴とも嘲笑とも分からない金切り声をあげて宙を転げ回っている。
 渋谷の手の内でもがいていた鎌鼬がその指に牙を立てて束縛から逃れ、這いつくばる冴島の背中に鎌を向けた。
「何だ、何なのだあれは!」
 言葉が終わらないうちに容赦なく襲い掛かって来る鎌鼬に、冴島は咄嗟に被っていた軍帽で応戦した。
「オイッ! ぼさっとしておらずに早く除霊でも何でもしろ!」
「勘違いされては困る。我々は陰陽師ではない」
 冷静かつ冷徹な声で言い返され、冴島は言葉に詰まった。
 帽子が真っ二つに裂かれて刃先が懐に迫る。三日月形の刃が胸を抉ろうとしている。冴島が覚悟を決めて眼を閉じた瞬間、渋谷がその尻尾を掴んで宙に引き摺り出した。渋谷の手は先程鎌鼬から抵抗を受けて血に塗れていた。彼は暴れる鎌鼬を地面に押し付けると、
「タタリ場を祓ってくれ!」とニコに向けて叫んだ。
 鬼気迫る表情にもニコは動じない。彼はポケットから懐中時計を取り出すとその針に目を落とした。
 長針が真っ直ぐ上を示したその時、闇に鐘の音が響き渡った。
 毎朝九時に鳴る始業の鐘である。
 地上から降り注ぐ音を受けた鎌鼬は渋谷の手の内でギィィと咆哮した。そして渋谷の手を鎌で裂いて払い除け、地面で一頻りのた打ち回ると、最後の鐘の音と共に黒い雲霧と化して宙に消えた。それにつられて、自由に暴れていた鬼火達も力を失い、空気に溶け込むようにして消失した。
 静寂が訪れた。
 何事も無かったかのような沈黙の中、白熱灯を吊るしていた針金が宙を漂っていた。
 ぽかんと口を開けていた冴島が二つに裂かれた軍帽を取り落として、腰を抜かした。夢でも見たのかと頬を叩いてみれば生温い液体が手の平にべっとりと付着して、情けない悲鳴を上げる。
 ニコは胸に忍ばせていた扇子を一瞥した。親骨には傷が入り、中骨の数本が折れていた。
 怪奇の出現によって先程祓った筈の医務室は再びタタリ場と化してしまっていた。ニコが損傷した扇子の要から鈴を外し、それを手の平に乗せて闇に翳すと、鈴がコロコロとその身を小さく揺すった。
 清浄の音がタタリ場を浄化する。
 一通りの作業を終えて動かなくなった鈴を懐に仕舞っていると、ニコは己に差し出される黒帽の存在に気が付いた。黒帽を取るとその下の手の平にはニコが髪を結っていた麻紐がある。ニコはそれを受け取って髪を簡素に結い、黒帽を深く被って青色を隠した。
 渋谷は鎌鼬の攻撃によって緩んだ手首の縄を強引に外し、壊れかけた懐中電灯を天井の針金で固定した。
 少し前と何も変わらない相貌。だがその瞳には先程とは異なる何かが宿っている。
 服の裾で手の止血を試みる少年にニコがハンカチを差し出した。
「話を聞かせて貰おうか」
 怪奇探偵はくすりと微笑んだ。


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