雨の気配を引き連れた黒雲が帝國の空を侵食していた。
 3月4日早朝、帝國議会裁判所前広場。キジバトの鳴き声が街路にこだまする。未だ目覚めぬ霧の帝都に響き渡るのは夜明けを告げる時計塔の鐘の音だ。からんからんという音が黒い空へ吸い込まれ、やがて消える。
 静寂を破るのは一台の胴の長い車である。
 未だ眠っている噴水の傍で朝の挨拶を交わしていた二人の婦人は、会話を止め、自動車の背を目で追った。
 車は巨大な円形の噴水をぐるりと半周し、建物の眼前に滑り込んだ。
「こんなに早くから何事かしら」
 朱色の車から運転手の案内の下に現れたのは、黒い外套と帽子に身を包んだ数名の男達。その男達を遠目で眺めていた婦人達の背後から、同種の車が三台続けて入ってくる。
「あなた号外を読んでいないの。例の事件の裁判が始まるのよ」
 声を潜めて耳打ちされ、ああ、と婦人は合点して頷き、建物の額に煌く白銀の天秤の紋章に視線を移した。
 これから噂話に展開しようというその時、すぐ傍でエヘンと咳払いが聞こえた。
 深緑色の軍服を纏った憲兵――いやに大柄な男である――が、婦人達を無言で見下ろしている。制帽の下から覗く鋭利な眼光に慄いた婦人は意図せずヒィと悲鳴をあげ、そそくさと裁判所前広場から退散した。
 数名の憲兵が駆け寄ってきて鉄の門扉を閉じた。いつもより増して物々しい空気である。
 市街は薄闇の中で目覚めつつあった。
 大きな革鞄を提げた少年が走り、その向かいを旧式の馬車がすれ違う。地面を小刻みに揺らすのは遥か遠くを走っている市電の車輪である。あと数時間もすればこの表通りは雑踏が支配するようになる。
「物騒になったものだわねぇ。――あら」
 婦人が立ち止まり、その友人も続けて足を止めた。振り返って視界を遮る霧の向こうをまじまじと眺める彼女に痺れを切らして何事かと尋ねてみれば、
「今の子供を見た?」
 問われた友人は首を振った。
「まるでびいどろのような、青い……。あらいけない、降ってきた」
 ぽつぽつと水滴が鼻先を濡らす。それを皮切りに雨音が町の音をかき消していく。
 遠くで、乾いた音がした――。

– – – – –

 ――遠くで、乾いた音がした。
 無意識から目覚めた少年が瞼を上げると、先ず目に留まったのは、白銀に煌く天秤の像だった。
「これより裁きの場に入る。天秤の名の下、何人たりとも虚言、及び沈黙は許されぬ。場を乱す者は誰であれ退廷を命ずるものと心得よ」
 しわがれた低い声が少年の視線を引き付ける。
 彼を取り囲む円卓の傍に総勢十三人の判事が立っていた。発言者はその中の一人、白髪の老人である。
 円卓に沿うような形の傍聴席があり、けして多くはないそれら全てが傍聴人で埋められている。少年の背後には二人の憲兵が控えており、行き場を失った仔犬の挙動を冷ややかに睨んでいた。
 ――何だ、これは?
 突如見知らぬ世界に放り込まれた異邦人の気分だった。声を挙げる事すら叶わない沈黙と、室内に存在する全ての人間の視線を全身で感じ、額にじわりと脂汗が浮かぶ。息苦しさを感じてシャツの襟を緩めようとして、己の手に掛けられた金属の輪の存在に気付いた。鎖の中央部には縄が縛り付けられており、その先は大柄な体躯の帝國陸軍憲兵が確りと握り締めている。ぽかんとして憲兵を見上げているとその隣に控えていた係官に小突かれた。
「帝國軍学校陸軍科二年、渋谷史人」
 自分の名を呼ばれ、少年は弾かれたように顔を上げた。
「その素性に虚偽は無いか」
 掠れた吐息が漏れる。唾を飲み込むと乾燥しきった喉の奥がピシリと痛んだ。
 白銀の天秤。円卓。十三の黒衣。如何に帝國広しと言えどこの存在を知らぬ者は誰一人として居ない。國が定める重罪を犯した者が行き着く処刑場で、ここに連れて来られるのは須らく処されるべき咎人である。今まさにその断頭台に自分が立っている。
 数多の感情が交錯し、渋谷は先ず初めに、これは夢だと思い込んでみた。目を強く瞑って数秒後に解放すれば、またいつもの古ぼけた寮に戻っている。汗臭い布団から這い出て、あの立て付けの悪い窓を開けて、い草の匂いが充満した部屋に朝の空気を取り込んで――。
 ぐん、と大きく身体が後ろに引き寄せられ、途端に渋谷の意識は手錠の縄を捉える憲兵に向かった。熊のような大男が眉間に皺を寄せて渋谷を見下ろしていた。
「冴島殿。どうか乱暴な行いはお控え下さい」
 やんわりと制したのは、温和な表情の年若い判事である。
 冴島と名を呼ばれた憲兵は忌々しげに渋谷を睨んでいたが、やがて小さく舌を打って瞑目した。
 胸を撫でおろし、渋谷もまた視線を若き判事へと移す。誰もが渋谷に対し否定的な表情を浮かべる中で彼だけが温かい笑みを携えていた。
 だがその口から発せられた言葉は再び渋谷を絶望へと叩き落す。
「3月2日、軍学校内部にて生じた紛争の最中、陸軍科教官5名を殺害。現場は陸軍科東棟地下1階医務室、及びそれに隣接する倉庫。凶器は倉庫に保管されていたサーベル刀で、遺体は全て外部を乱雑に切り刻まれておりました。死因は出血多量によるショック死。彼らの身体は一部の臓器――心臓が欠けており、それらは未だ発見されていません」
 若い判事は資料を手に、流れるように淡々と読み上げる。
 渋谷はその言葉の一つ一つを必死で追いかけ、全ての陳述を聞き終えても何度も脳内で反芻していた。
 3月2日、紛争、教官5名を殺害、心臓が欠けていた――。
 場の威圧と緊張で屈しそうになる中、渋谷は俯き、深い溜息と共に瞼を閉じた。
 少年が自己問答を繰り返す間、判事も傍聴人も沈黙を貫いていた。
(――紛争)
 その単語に焦点を当てた瞬間、脳裏に一人の老人の顔が浮かんだ。それを切っ掛けに、焦りと恐怖といった雑音に掻き消されようとしていた大事な記憶が溢れんばかりに蘇った。
 暗闇の中に浮かんだ白黒写真には馴染のカフェの内装が写っている。画は色彩を帯び、女給の溌溂な声や食器を弾く音が流れて来る。渋谷の意識はゆっくりとその世界へと吸い込まれて行った。

 冷気が肌を刺す2月の初め、渋谷は悪友に誘われ繁華街に出掛けていた。
 通学組には分からない悩みなのだろうが、休日の寮内は兎角つまらない。窓から見える光景が学校の演習場であっては心が休まらない。寮友と深夜まで騒いでいればたとえ休日であろうと寮長の鞭が飛ぶ。独り部屋にこもって読書をしていれば、やれ貴様の日頃の態度はなっていないだの、やれ帝國軍人たる者の心得だの、薄い扉の向こうから色気もくそもない男達の煩い声が聞こえてくるのだ。
「本当なのか、それは」
 繁華街で一番人気の喫茶店で羽休めをしていた時、唐突にその話は始まった。人目を気にして小さな円卓を三人で囲み肩を寄せ合う姿はさぞ異質に見えるだろう。
「その五人なのは間違いない。そうだな松山」
 三人の中で唯一ケーキを注文したのは仲間内でも遊び人として名高い小林である。彼は温くなった緑茶を飲み干すと指を鳴らして女給を手招きし、馴れ馴れしい口ぶりで皿を下げるように命じた。
 代わりの紅茶が出された後、少年達は再び円卓の中央に目を落とした。
 小林は喫茶店のチラシを広げて筆を走らせた。綴られた教官達の名前は渋谷もよく知る鬼教官だ。そして五つの名から少し離れた場所に、もう一人の男の名前を書いて、それをバツ印で潰す。
「前々から黒い噂があった連中で、亡くなった鬼頭教官はその尻尾を掴んでいたが為に口を封じられた。先日校舎裏の焼却炉でボヤがあっただろう、あれは鬼頭教官が持っていた証拠を隠滅する為の物だった可能性が高い。急いで鎮火に来た小間使いがその場から立ち去る連中を見ているんだ」
 松山が人目も憚らず大きなくしゃみをして巨体を揺らす。
 小林、松山の二人に視線を投げられ、渋谷は口にするべき言葉を模索した。
「俄かには信じ難い話だな」
「だからこそ真実を明らかにする必要がある。このまま殺人鬼を野放しには出来ん。既に三年連中はコトを起こそうとしているぜ。今に俺達も駆り立てられるだろうよ」
 駆り立てられる、という言葉に言い知れぬ恐怖を覚える。上級生のしごきは生易しいものでは無い。渋谷も寮生に度々小間使いの真似事を強要されていたし、断ろうものなら拳が飛んでくる。今では偉そうにしている小林や松山も上級生達と廊下ですれ違う際は必ず頭を下げるようにしている。
「渋谷、お前も鬼頭には恩があるんじゃないのか」
 話にある鬼頭教官とは、先日、軍学校敷地内で起こった事故で命を落とした渋谷の恩師である。夜半の見回りに出掛ける彼を寮長が見送ったのを最後に足取りを断ち、翌朝、教官らの捜索により東棟地下1階の倉庫にて事切れたところを発見された。調査によれば、手入れをしていた銃の暴発が死因で、銃口を自身の胸に向けたまま誤って引き金を引いてしまったとの見解だ。これを聞いた時、殺人の可能性を排除して事故として処理をするには早急では無かろうかと渋谷は疑問に思っていた。第一、あの厳格で慎重な鬼頭がそのような稚拙な過ちを犯すだろうか。
 教官でありながら学生寮の一室で生活し、よく寮生達を寮長の厳罰から庇っていた為、渋谷を筆頭とする寮生は誰もが鬼頭を支持していた。入寮したばかりの渋谷が寂しさを持て余し、東棟屋上にある鐘を面白半分に叩いてみた際には憤怒の表情で追い払われたものの、後になって部屋まで柿を持って来てくれた事は今でも鮮明に覚えている。指導の際は特に厳しく『鬼がしら』と呼ばれていた。それでも他には見られない魅力があり、特に彼と付き合いが長い上級生達に話を聞けば誰もが肯定的な感情を示すだろう。
 今、小林は、その鬼頭の事故が五人の教官による殺人であり、更には鬼頭の所持品――教官らが犯した何らかの犯罪に関わる証拠を隠滅したのだと言っている。
 それが真実であれば、鬼頭に世話になった者なら誰もが同じ感情を抱くだろう。
 渋谷円卓の下で拳を握り締めた。
「連中が殺人犯だという証拠は」
「証拠」 小林は鼻で嗤った。 「鬼頭の死から一体どれほど経っている? 真実など、連中の黒い噂と共にとうの昔に闇の底よ」
「それじゃあ今更俺達に何が出来るって言うんだ」
「貴様は何方側だ、渋谷。俺達はそれを聞いている。やるのか、やらんのか」
 ハッとして頭を上げると、友人達の険しい双眸に射抜かれた。
 今度百貨店で開かれる陶芸家の個展。新聞の見出し。喫茶店を飛び交う他愛もない会話がどこか別の世界での出来事のように思えた。渋谷の意識は二つの壁に囲まれている。
 渋谷の瞳に小林の挑戦的な薄笑いが映った。
「なあ『怪奇探偵』さんよ。探偵と名乗るからには、この謎もちょいと解いちゃくれないかい」

「――被告人は『怪奇探偵』なのですよ」
 デモに至る前日譚を語っていた渋谷の言葉を、気の強そうな女性判事が高らかな声でそう遮った。歌手が観客に向かって歌うように得意げな顔をしている。
 渋谷の震える声に聞き入っていた聴衆の顔が一斉に強張った。
 怪奇探偵だって? と傍聴席の誰かが大きな声を張り上げた。室内に生じた波は大きな渦となって渋谷の耳を襲う。怪奇探偵、カイキタンテイ、まるで反響するように彼方此方で言葉が飛び跳ねている。
「よもや天下の軍学校でそれを名乗るとは、何たる恥晒し」
 憲兵の怒りに満ちた独白が渋谷の首筋を刺す。
 傍聴席から向けられる、好奇、侮蔑、驚愕。けして心地の良いものではない。渋谷は唇を噛んで小刻みに震える呼吸を必死に飲み込んだ。
 怪奇探偵、己が自らそう名乗った覚えはまるで無いが、自分が周囲からそう呼ばれているのは事実だ。洒落た職業であるように聞こえるが、現実は聴衆の反応にあるように誰もが嫌悪感を抱いて顔を顰める。出来れば知られたくなかったが、この場でそれは通用しない。
「怪奇探偵なんざ碌なモンじゃねぇ。犯人はそいつで決まりだ!」
 そうだそうだ、と野次が飛ぶ。
 渋谷はこれ以上の発言を抑制し、判事に発言を促されるまでただ沈黙を守った。
 女性判事がそんな渋谷を一瞥し、傍聴人によく聞こえるような大声で彼の素性を述べた。
「渋谷史人は孤児院出身。軍学校が独自で行っている孤児支援制度を利用して入学。生活態度を注意される事が多く、今回死亡した教官達とも何度か言い争う姿が目撃されていたのだとか」
 反論をしようと顔を上げて、判事と傍聴人達の視線に圧倒されて言葉を失う。
 脳内に浮かぶ言葉の破片を上手く組み立てる事が出来ず、感情が熱い涙となって目尻を濡らす。渋谷は俯いてその粒を振り落とした。
「被告人は教官達に良い扱いを受けていなかった。彼らを恨んでいても不思議ではないわ」
「それ以上はお控え下さい」
 女性の鋭利な声を、青年判事の優しい声が受け止める。
「勘違いなさらず、手塚判事。私は、そういった身分を理由に被告が日頃から良い思いをしていなかった事実を申し上げているだけです。渋谷少年には動機があるという事をお忘れなく」
 手塚と呼ばれた温和な青年判事は笑顔を崩さず、然し毅然とした態度で女性に視線を返す。
「それらの事実を殺人の動機に結び付けるのは些か早急では? 傍聴席の皆様方もどうかご静粛に」
 女性判事の煽りによって興奮していた聴衆が、穏やかな低い声に宥められて静かになる。
 女性は不愉快そうに尚も噛みつく姿勢でいたが、手塚判事の隣人が見かねて木槌に手を伸ばしている事に気が付き、咳払いをして押し黙った。行き場を失った彼女の怒りは被告へと向けられる。
「宜しいですかな」 また別の中年の判事が場に語り掛けた。
 紛争の発端となったのは陸軍科教官の事故死であり、これを学校側の殺人だと主張した学生らにより度々ボイコットが行われていた。
 そしてさる3月2日、学生により東棟裏庭に火が放たれる。これが学生運動の始まりである。
 校内にはほぼ全ての学校関係者が揃っており、その内数名の教官が消火活動に当たったが、そこを十数名の学徒により襲撃される。騒ぎを聞きつけた教官が救助として鎮圧に駆け付けるも、見計らったかのように増員が投入される。大勢の学生と数名の教官の戦いが始まる。
 南棟1階職員室にいた教官達が何事かと飛び出した所を、南棟に控えていた学生達により迎撃される。後の取り調べにより判明したのは、南棟の班は教官に対する鬱憤が溜まった人間が多く投入され、結果、大勢の教員と学生が病院に搬送される事態となり、双方最も被害が大きかったのだという。
 午前8時半。一人の教官による通報が警察署へ届く。
 件の五名の教官が朝礼会議を行う予定の西棟に潜伏していた学生達が、外部班の騒動を確認してから会議室前の廊下を包囲した。催涙弾を忍ばせ、騒ぎを聞きつけて出てくるであろう教官達を迎え撃つべく構えていたが、一向に出てくる気配は無し。教官五名の行動を予め調査していた学生らが不思議に思い突入してみるも其処はもぬけの殻であった。
 午前9時、東棟屋上の鐘が始業を告げるべく鳴り響く。
 会議室突入班は応援に駆け付けた教官達に取り押さえられ、小火班もまた殆どが鎮圧され、南棟迎撃班は相打ちという形となり、早くも事態は収拾を迎えようとしていた。
 午前9時半。校庭に居た小林少年が激しい負傷をした松山少年と合流し、教官二名に連れられて東棟地下医務室へと向かった。階段踊り場に差し掛かる頃には既に錆びた鉄のような臭いが鼻を突いていたのだと言う。電源を入れても明かりが点灯しないので廊下脇に設置されている非常用の懐中電灯を手に歩いてみれば、唯一明かりが漏れている医務室まで血痕が点々と続いているのが見えた。医務室の扉を開け放つと――そこには地獄絵図が広がっていた。
 部屋一面が血の海。水面の中央に佇むものが学生だと認識出来たのは、全身を濡らす血飛沫の中に学生服の校章のボタンがきらりと光ったからである。右手にサーベル刀を携えたそれは教官らが問いかけても人形のように微動だにしない。
 赤い海に沈むは三名の教官。最奥にある扉の向こう、倉庫にもまた二つの骸。肌という肌を切り刻まれ、ぽっかり穴の開いた胸には在るべき臓腑が消えていた。
「――それを、俺が」
 渋谷は目頭を押さえて唸った。
 判事らの説明から胸中で場面を構築してみるも、その光景に心当たりは全く無い。胃の奥底から込み上げて来るものがあり、口の中に唾液が充満して思わず嘔吐しそうになった。
 渋谷君、と手塚判事に呼ばれ、口の端から零れた唾液を拭ってハイと答える。
「これは学生運動関係者に行った聴収、及び現場調査から導き出した今回の事件の概要になります。この内容に意見はありませんか? 発言をお願いします」
 手塚の問いかけに渋谷が硬直していると、先程の女性判事が冷徹な声をあげた。
「貴方、凶器を所持していた所を取り押さえられているのよ。言い逃れが出来ると思っているの」
 だからこその円卓議会である。天秤の名の下に公正と平等を謳っているものの、実質、ここに放り込まれた罪人を待つのは死の判決のみである。
 渋谷は必死にその現実を拒絶しながら、己の犯したとされる罪の記憶を探った。
 紛争が始まったのは午前七時。その時自分はどこにいたのだろう。自分は何を――。この際自分にとって不利な記憶であっても構わない。何でもいいから思い出せ。
 沈黙の合間をこそこそと小声が這いずる。
 止め処なく汗が噴き出て顎から滴り落ちる。全身に力が入り毛が逆立った。
「……記憶にありません」
 震える声を絞り出すと、静寂に再び小波が起こった。
 渋谷は身を乗り出して縋るような目線を手塚判事へと送った。
「自分が犯した罪ならば正直に認めます。今更言い逃れなどしません。けれど本当に何も覚えていないんです。自分が教官殿を手に掛けた時の状況がどうしても出て来ない」
 見苦しい言い逃れだ、と傍聴席から野次が飛んだ。他の判事も困惑したように顔を見合わせている。
 聴衆達をやんわりと右手で制し、手塚判事が訊ねた。
「君は、会議室突入班の援護として会議室前の廊下で待機していた。その前でも後でも、どんな些細な事でも結構。君の身体が覚えている事の全てを聞かせて下さい」
 尚も戸惑い視線を泳がせる渋谷に、痺れを切らした別の判事が糾弾の姿勢に入ろうとして、手塚の顔色を窺った。手塚は渋谷少年を見つめながら物思いに耽っている。
 あの日、あの朝、何があったのか? 少年が己の錆び切った五感に問い質す。朝目覚めてから捕まるまで自分が見たもの、聞いたもの、嗅いだもの、触れたもの、味わったもの。
 歯をぎりぎりと鳴らし、髪を掻きむしる。湿った髪から手を離し、汗にまみれた手の平に視線を落とすと、親指の付け根から小指の付け根まで真一文字に走る切り傷が目に入った。
 チカチカと視界が明滅した。

「――い、おい、渋谷。大丈夫か、顔色が悪いぞ」
 突入時間まであと数分という頃、西棟廊下の片隅にしゃがみ込んでいた渋谷は小林に肩を揺すられて我を戻した。同時に、食道の底から込み上げて来る熱いものに我慢出来ず立ち上がる。何事かと呆気に取られる小林を尻目に西棟校舎の入り口から外に出て、木陰に入り、熱いモノを一気に解放した。大丈夫かと背中を摩る小林を睨むが、迫り来る第二波にやられてしまう。
 前夜のことである。
 明日に備えいざ眠ろうと布団に入りかけた時、コツンと窓を打ち鳴らす音がした。何事かと窓を開けてきょろきょろと辺りを見廻す渋谷の額に小石が飛んでくる。草陰から石を投げているのは小林と松山である。寝巻に外套を羽織って彼らの元に駆け付けると、宿直教官の巡回の範囲外である寮の裏の獣道へと誘われた。勿体ぶった小林がこれよと取り出したのは、親父殿から拝借したという上等の酒だった。
 後の事は思い出したくもない。
「突入まで少し時間がある。医務室に行って来い」
「馬鹿言え、誰かに見つかったらどうす――うッ!」
 手で口を覆い第三波を抑え、渋谷はよろよろと腰を上げた。酒の臭いを漂わせて集合時間に一人遅刻した際に上級生数名から殴り飛ばされた頬が今も痛む。
 南棟で繰り広げられている抗争の目の前をすり抜け、東棟1階へと転がり込む。人の気配は無し。校庭の騒動とは打って変わって不気味な程にしんと静まり返っていた。然程の猶予は無い。床板が鳴らないよう忍び歩きで階段を降り、人影の有無を確認して地下1階の廊下へと足を踏み入れる。虚ろな空間はいつにも増して寒々としていた。
 刹那、前方から鋭い風が渋谷の脇を駆け抜けて行った。
 天井にぶら下がる白熱灯が一つ二つと火花を散らして消える。眼前から迫り来る悪寒に全身を支配され、渋谷はその場から動けなくなった。背後を振り向くと先程まで電灯に照らされていた廊下が暗闇に食われていた。
 全身の毛が逆立ち、チリチリと肌が痛む。
(何だ、この気配は)
 闇の深淵に蠢く何かを全身で感じ取る。この時吐き気はすっかり治まっていたが、手の平に微かな痛みを覚えていた。暗闇でよく見えないが液体が流れている。舌で舐め取ると錆びた鉄のような味がした。
 いつ切ったのだろうと首を傾げ、兎にも角にもと壁伝いに歩を進めていると、曲がり角を曲がった先で一室から明かりが漏れているのが見えた。目的の医務室である。ぽた、ぽたと血が零れ落ちていく様を感じて慌てて服の袖で拭い、胃薬の代わりに包帯でも一つ借りようと薄明りに近づいて行った。
 部屋の明かりが次第に大きくなっていく。やがてそれが自分の視界を覆いつくすまでになった時――。

 ――貴様、そこを動くな!
「えッ?」
 背後から誰かに羽交い絞めにされ、渋谷は手に持っていた武器を取り落とした。
 渋谷が身を捩って自分を拘束する者が何者かを確認するよりも前に、懐から伸びた手に頭を鷲掴みにされ、角ばった拳が腹部に叩き込まれる。電撃を食らったような痺れと衝動に耐え切れずに躰が崩れ落ちた。追撃を受け二人掛かりで地面に押さえつけられた渋谷は、自分の顔が数センチ程の水たまりに沈んでいる事に気が付いた。
 恐る恐る瞼を開く。そして視界を埋め尽くす赤に、瞠目した。

「今のは自白と受け取って良いのかしら」
 鬼の首を取ったと確信した女性判事の迷いのない質問に、渋谷は顔を覆って首を振った。
「違う……違うんだ。本当に何も覚えていないんだ……。医務室に到着した頃から、記憶がすっぽりと抜け落ちていて……気が付いたら血の海にいて、羽交い絞めにされて……」
 言い逃れはやめろ、見苦しいぞ、罪人め、お前が犯人だ!
 聴衆席は最早秩序を無くし、思い思いの言葉が飛び交っていた。これまでに無い騒ぎに判事達も些か焦り、カン、カン、と木槌を鳴らすが、今度ばかりは容易く止みそうに無い。
「これ以上の議論は無意味では」
 老人判事に責められるように問われ、手塚は困ったように天井を仰いだ。そしてちらりと首を傾けて背後の傍聴席を一瞥してから、真っ青になって震える渋谷を見つめる。
 丁寧な態度と和やかな微笑に気を取られていたが、よくよく見れば尖った氷のような目つきをしている。その視線をまともに受けた渋谷は恐怖に震え上がった。
「謎は多く残るが、それらの全てを解いたところでこの現状を覆すだけの力など無かろう。この少年は某教官の事故死を五名の教官による殺害と妄信し、その敵討ちの為、学生運動に参加していた仲間を出し抜いて一人医務室へと向かい、彼らを次々に殺害した。所々記憶が抜け落ちていると主張しているが、それもどこまで真実なのやら。虚言とも取れるし、或いは殺人を犯したショックで喪失したとも考えられる」
 睫毛を伏せて同僚の考えに耳を傾けていた手塚判事も小さく首肯していた。先程までの温厚な表情とは打って変わったその怜悧な表情に渋谷は絶望に支配された。
「俺は何もやっていないんです。信じて下さい!」
 誰もがその訴えから視線を逸らしている。
 渋谷は判事を一人一人見つめて必死に首を振る。一縷の望みも絶たれた状況だが、それでも尚少年は無罪を訴えんと聴衆や判事達に縋り付いていた。
「当裁判に於ける判決を申し渡す――」
「聞いて下さい! 俺はやっていない! 俺は」
 まるで人形劇を見ているかのようだった。
 十三人が無機質な表情で木槌を手に取り、宙に構える。渋谷がそれを止めさせようと身を乗り出して憲兵達に押さえつけられる。少年の最後の足掻きを聴衆達は黙って観覧していた。
 駄目だ、十三の木槌が鳴れば、俺はもう――。
「被告人渋谷史人に、死罪を――」
 渋谷は目を閉じた。

 パン、パン、パン。

 静けさを打ち破るのは大きな拍手。
 木槌の代わりに鳴り響く破裂音。誰もがその音の根源を探した。
 冴島に身動きを封じられていた渋谷もまた、力を振り絞って頭から大きな手を振り払い、顔を上げて辺りを見渡した。
「グラン・ギニョル!」
 少年と思しきその若い声は、傍聴席の中から挙がっていた。
 ぐるぐると動く人々の頭の群れからひょっこりと姿を現したのは、誰が見ても場違いな小柄な少年である。黒い外套に鍔の広い黒帽子を目深に被っているその出で立ちは、けして派手では無いが絢爛な香りを漂わせている。
 立ち上がった少年は外套を靡かせ、階段をコツコツと降りて来る。そのまま円卓まで立ち入って来ようとするので、ぽかんとしていた冴島が慌てて彼の前に飛び出した。
「こら! ここは子供の遊び場ではないぞ、何処から入った!」
 優に己の二倍はあるであろう体躯の冴島を前にしても、少年が怯む気配は無い。冴島がその華奢な肩を掴んだ刹那、帽子の下でキラリと眼光が煌いた。奇妙な威圧感に圧された冴島は思わず手を離した。
 少年は手に長い杖を持ち、それをぷらぷらと揺らして弄んでいた。ぐるりと円卓に視線を沿わせ、最後にその中心、渋谷へと留める。
 渋谷の眼もまた少年の瞳に釘付けだった。
 ――青い。まるでびいどろのような……。
「憲兵、何をしている。早くつまみ出せ」
 少年は長い睫毛を伏せて、発言者である老爺に向き直った。明らかに動揺する彼に杖の先を向ける。
「いや滑稽、実に傑作。貴君らの頭には早く議会を終わらせる事しか無いのかね」
 杖の先でつんつんと判事の頭をつつく真似をして見せる。
 何と無礼な、と判事は顔を真っ赤にさせたものの、図星を突かれてぐうの音も出なかった。事実、被告が記憶の欠如を主張して頑なに罪を否定している以外は全てが出揃っているのだ。この円卓は限りなく黒に近い被告の無駄な足掻きに付き合えるような易い場ではない。
 沈黙を守っていた手塚判事が微かな笑みを浮かべて少年に訊ねた。
「この判決が不服のようで」
「判決を撤回し、しかと真実を追究するよう再調査を要求する」
「と、申されますと」
「真実は未だ闇の中だ。貴公らが論じていない事は山ほどある、それが判然としているというのに、このたった数時間で結論を出すとは何をそんなに急く事があろうか。おおかた『怪奇探偵』の名を聞いて早々に決着を着けたいのだろうが、これの何処が公明正大か。この帝國議会裁判所は中立を信念とすると聞いていたのだがね」
 少年は杖を下げ、両手を後ろに回して小首を傾げる。
 ――一体何なんだ、こいつは。
 渋谷は己が置かれている状況を把握できずに、ただ少年の背中を眺めていた。おそらくその場にいる誰もがそうしていただろう。先程まで威勢のあった憲兵すらも呆然としている。
 唯一、これはけして子供の茶番などではないという事だけは誰もが悟っていた。
「これ以上何を論ぜよと」
 手塚の問いに少年はトンと杖で地面を鳴らした。
「一つ」 少年は手塚に杖を向ける。「会議室にいる筈だった教官らは何故医務室にいたのか」
「一つ」 少年は聴衆へ杖を向ける。「学生達は何故教官らを殺人鬼だと言い始めたのか」
「一つ」 少年は憲兵へ杖を向ける。「抉られた臓腑は一体何処へ消えたのか」
「一つ」 最後に少年は渋谷へと杖を向ける。「被告は何故記憶を失っているのか」
 暫くの沈黙の後、少年は杖を下げて踵を返した。
「これらを語らずして何がまことか。被告が見た最後と最初の記憶、そこに生じた空白の時間にこそ真実は在る」
 しん、と法廷に緊張の沈黙が落ちる。
 誰もが固唾を飲んで場を見守る中、震える唇を開けたのは渋谷であった。
「それなら一体誰が教官を」
 自分よりも遥かに小さな子供の背中に問いかける。最早己の記憶よりも、この少年の言葉の方が信用出来るような気がしてならなかった。
「それを此れから解いてゆくのだよ」
 少年は軽快な革靴の音を鳴らして天秤の像の目前まで身を寄せると、身に絡みついた外套を大きく振り払って大衆を見渡し、ドンと足元に杖を立てた。
 黒い帽子を外し、団子に結った髪がぽとりと垂れ落ちる。
 美しい。
 まるでびいどのろのような。
 青い。
 光の粒を散らしたような澄み切った青の瞳と髪が、灰色の世界で一際美しさを誇っていた。
 彼は帽子を胸に当てると、不敵な笑みを渋谷に投げた。

「喰らってみせようぞ、この怪奇」


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