冴島が実況見分の監視役の任命書を受け取ったのは、日課としている早朝の鍛練を終えた帰り道での事である。
 大役だぞ、と指令を持って来た上官や同じ場に居た同期は笑っていたが、自分にとっては厄介且つ面倒以外の何物でも無かった。同期が国内外へ遠征したり皇族の警護隊に抜擢されたりと華々しい活躍をする中で、取り柄と言えば図体と体力ぐらいのこのしがない一兵卒がやる事と言えば、帝國首都内の巡回や地震による倒壊家屋の修繕などの所謂警察や自警団などがやるような仕事である。そんな中で「大役」と言われたので少し期待してしまったのだが、蓋を開けて見れば帝國軍人らしからぬ任務だった。
 ここ最近、自分の周辺がどうにも騒がしい。
 3月2日。早朝の帝都巡回中に喫茶店で一休みしていたのだが、これが警察署の近所というのが運の尽きだった。警察と憲兵の見分けも付かない女給に囃し立てられて署を覗いて見れば、早朝から大勢の警官達が賑やかにしている。知人の警官を見付けたので話を聞くと、この付近にある帝國軍学校の敷地内にて学生達によるデモ活動が行われているのだと言う。マァ生意気な小僧共の戯れだと思って学校へ応援に駆け付けてみると殆どが鎮圧された後だった。負傷者はそれなりに居るようだがその他は小さなボヤがあった程度で建物の損傷も少なく、先日あった婦人運動や百姓の暴動と比べても可愛いものだと思った。
 取り敢えず校門を封鎖せねばと其方へ向かうと、門前に覚えのある姿を見つけた。
 男は冴島に気が付くなり軽快に手を振った。
「よう憲兵殿。餓鬼の躾でもしに来たのかい」
 草臥れた白いシャツの上に煤けた藍色の着物を羽織った男は懐から手帳を取り出した。
 付き合いの長い幼馴染だがその素性は帝都新聞社の記者だ。野次馬を自由にしてはならぬと軍人として毅然と応対するも、男の方は大して真剣では無いようで伸びきった無精髭を掻いて大きな欠伸をしていた。どうやら彼も自分同様偶然居合わせた人間らしい。
「次から次に色々と問題が起こる学校だな」
 負傷者を連れた警官が幾人か脇を通り過ぎて行くのを記者と一緒に見送っていると、突然その悲鳴が耳に入った。
 今にも腰を抜かしそうな教官が声を震わせて断片的な言葉を叫んでいる。興味津々に身を乗り出す記者を留めて何事かと問いかけてもどうにも要領を得ない。
 記者にはその場から動かないように指示して教官と共に医務室に向かい――冴島は発見してしまったのである。
 正直、あれ程の血を見たのは初めてだった。
 別の教官と彼が呼んで来たという警官が取り押さえていた犯人と思しき少年を改めて確保した。更に応援に駆け付けてくれた者達に犯人を引き渡した後は覚えている事の有様の全てを証言として書き記し、以降は日常に戻ろうと努めていた。
 それが、係官代行として裁判に出席してくれと手塚判事から依頼を受け、更には被告人のお目付け役に抜擢された。何が大役だ。何故俺が此処までせねばならんのだ。裁判を見るに渋谷の罪は明白で疑いの余地も無い。後は木槌を振り下ろすだけで全てが終わるのに何故こうも引っ張る。
 あの気味の悪い餓鬼の所為だ。
 青い髪に青い瞳。見てくれは異國人だが実に流暢に帝國の言葉を喋る。あの餓鬼が場を荒らしたおかげで審議は延期となり無駄な猶予が設けられた。あの人を小馬鹿にした態度を思い出す度に不愉快な気分になる。何が怪奇探偵だ。どうせいつものように『諸君には見えない闇の存在が悪さをしたのだ』とでも宣うのだろう。見えない物を見えると主張する姿は悪しき宗教の狂信者そのものである。これで探偵を名乗るとは本物の探偵もさぞ迷惑と思っているに違いない。
 餓鬼の主張に同調して再捜査を指示した青年判事に対しても遺憾である。表向きは憲兵主導の実況見分として指図を受けたものの、実質はただの子守だ。子供の怪奇探偵を帯同させる事に対して一度だけ抗議をしたが、青二才は「正式な捜査ですよ」としか言わない。
「まるでママゴトでは無いか」と噛みついても、
「少しの辛抱ですよ」と得意の笑顔で躱される。
 これでは埒が明かない。天下の帝國議会裁判所が実に嘆かわしい、貴様のような無能判事などさっさと罷免されてしまえと呪う事で己を保っていた。
 フン、何が穢れだ。何が怪奇だ。そんなものが実在するなら俺が叩き潰してやる――。

 冴島が物憂げな溜息を吐くのでニコが何気なく視線を遣ると、彼は唇に力を籠めて外方を向いた。
 取り換えられた白熱電球が嵐が過ぎ去ったばかりの医務室を淡く照らす中、二人の探偵による淡々としたやり取りが行われていた。
 小さい方の探偵が、冴島に電球と一緒に用意させた塩をそれぞれ部屋の四隅に小さく盛っている。
 冴島が場を徒に汚すなと叱咤すると、
「蹴散らすなよ」
 と言って譲らない。手帳から千切り取った白紙の上に山になるように盛っているようだ。
 もう一人の探偵は部屋をざっと見渡している。割れた電球の破片を靴で踏み締めて奥の倉庫へと繋がる扉を開けようとする彼に、冴島が慌てて声を掛けた。
「勝手な行動は許さんぞ」
「どうやら落とし物をしたようで」少年は苦笑して小さく頭を下げる。「憲兵殿は御存知でありましょうか。鈴が付いた古い御守りなのですが」
 彼の温良な物腰に冴島は戸惑いを隠せなかった。
 少なくとも押収品の中には無かったと小声で答える冴島に、相手は微笑んで小首を傾けるようにして礼をすると、奥の扉を開いて医務室に隣接する倉庫へと移動した。冴島が急いでその背中を追いかける。
 迷わない手つきで電灯の電源を入れてみるが、電球が割れているので部屋は仄暗いままだ。光源が医務室の白熱電球だけというのも心許無い。ぼんやりしている冴島を背後からニコが突いた。
 ニコに顎で指示されて冴島は不承不承ながらその場を離れた。
 薄闇の中、地面に膝を立てて辺りを見渡す渋谷の背後で、ニコが入り口の隅に塩を盛っていた。
「いつからそこに棲み付いている」
 ニコに問われて渋谷は嬉しそうに彼の背中を見た。
「さあ……気が付いたら史人の傍に居て、彼と共に生きて来た。彼は俺を知らないようだが、俺は彼をよく知っている。君が怪奇探偵だと言う事もね」
 彼もまた渋谷史人であり、一つの身体を二人で共有しているのだと認識している。先程まで活動していた渋谷は穢れに中てられて眠っている――気絶に近い――ようで、それが目覚める迄は今の彼が『渋谷史人』である。カラクリはよく分からないが、彼方の人格が目覚めている間は彼の目を通して見える世界をキネマのように眺めていて、彼が眠りにつくとこうして此方の意識が発現し、身体の自由を得られるのだと言う。
「まこと怪奇よの」
 奇怪な青い髪の少年が興味深そうに首を傾げている。渋谷は可笑しそうに笑った。
「君もね。――さあ時間が惜しい、手短に済ませてしまおう」
 優先して論ずるべきは渋谷史人の素性よりも事件の仔細である。空白の時間を知る彼は事件随一の目撃者であり真実に近い存在だ。ニコも渋谷もそれで同意して本題に戻ろうとした時、冴島が新しい懐中電灯と備品の白熱電球を持って戻って来た。両脇に盛られた塩に気付いて慌てて足を上げる。
 冴島に腰を軽く蹴られて渋谷はニコの隣へ避難した。
 医務室と同じ白い灯りが六畳程度の倉庫を照らす。壁や天井は医務室と同様の損傷があり、窮屈に並ぶ木製の棚も何処かしら一部が欠けている。備品の位置が当時のままだとすれば文字通り足の踏み場も無い。奥の方は木箱が天井の高さまで積まれているので人が通るのは不可能だ。
 大中小の男が狭苦しく肩を並べる中、まず中が中央で片膝をついて棚の下に手を差し込んだ。渋谷の手付きに迷いは無くある程度の目星をつけて探し物をしているようだ。数秒と経たないうちに彼は少しばかり埃を被った目当ての物を掴んで引っ張り出した。
「まるで其処に在ると知っている風だったな」
 冴島が訝しんで訊ねると、渋谷は煤けた灰色の御守りを握り締めて頷いた。手の内でチリンと鈴が嬉しそうに鳴いていた。
「落とすとしたら此処かなと思いました。俺が目覚めている間は確かに持っていたので」
 この渋谷が発現した時、被害者達は既に事切れていた。
 遺体を鎌で裂きその臓腑を貪っていた獣は渋谷の存在に気付くなり標的を新たに定めた。血に塗れた刃を振り翳して猛り狂う鎌鼬に渋谷は咄嗟に御守りを用いて応戦したが、数多の穢れを啜って肥大化した怪奇の脅威に対抗するにはあまりにも弱かった。タタリ場に渦巻く穢れを喰らって鎌鼬の動きは益々鋭くなって行く。
 一度は死を覚悟したと言う。だが寸前で救いの音が護ってくれた。
「あの鐘の音か?」
 冴島はタタリ場の穢れは見えていないが、鐘の音を聞いた途端に苦悶して消え失せた鎌鼬の姿は明瞭に目に焼き付いている。
 鐘は鈴と同じ役割を持つ、とニコが説明する。
「貴様も鐘を聞いて煩悩を祓う事くらいあるだろう」
 成程と冴島は大きく頷いた。
 兎角その後に渋谷は応援を呼ぼうとしたが、それよりもタタリ場を浄化するのが先決だと判断した。怪奇とは穢れに引き寄せられる物である。次に襲われたら自分も教官達と同じ末路を辿る事くらいは想像がつく。
 無残な姿となった教官達に合掌して祈りを捧げ、鈴を鳴らして闇を晴らして行く。幸いにも部屋の電灯は辛うじて生きていた。医務室に三つの遺体。それらは全て顔から足まで小刻みに裂かれて内臓が荒らされていた。
 タタリ場は祓えども場に染みついた強烈な血と肉の臭いは掃えない。胃を刺激する悪臭に咽返りながら渋谷は倉庫を覗いた。此方の電灯は破壊されているようで医務室の灯りが頼りである。狭苦しい場所に二つの骸が医務室と同じ状態で転がっている事が分かった。
 タタリ場はとりあえず祓った。後はこの事態を誰かに報せなければ。そう思って倉庫から離れようとした渋谷は視界に映った情報に妙な違和感を覚えてその場に留まった。
 違和感の正体を得ようと目を凝らして闇を探る。御守りを掴んで倉庫の奥の方へ翳し、赤い紐で結われた鈴を垂らすと、それは何かを恐れるようにカタカタチリチリと小刻みに震えた。
 そして――。
「気が付いたら独房だった」
 混乱する暇など無かった。面会した手塚判事から自分が教官殺しの犯人として逮捕され、これから裁きに掛けられる身である事を教えられた。少々博打だと思ったが己が怪奇に遭遇した旨を明かし、あの医務室で見た全てを証言して無罪を突き通すしか無いと思い裁判に臨んだが、ここで都合が悪い事にもう一人の史人が目覚めてしまった。立ったまま二人は表となる人格を交換した。
 ――何だ、これは?
 片割れの悲鳴が聞こえて来る。此方は『俺は無実だ』と何度も叫んでいるのに、どういう仕組みだか誰の耳にも届いてくれない。自分の身体だと言うのに自由に扱う事も叶わない。
 黙って聞いていた冴島が低く唸りながら渋谷の瞳を覗き込んだ。
「莫迦々々しい。怪奇の次は多重人格か」
 渋谷は左頬を抓まれたが眉根一つ動かさない。
 ニコは手帳に万年筆を走らせる。渋谷その壱と渋谷その弐の行動を照合してそこに更なる空白を発見した。壱は医務室に入った直後にタタリ場の穢れに中てられて気絶し、教官や小林達に発見された際に一旦意識を取り戻した。一方の弐は始業の鐘が鳴った後、倉庫の様子を確認している最中に記憶が途切れている。弐が何らかの理由で気絶したと仮定するなら、弐の気絶後から壱が目覚めるまでの間、どちらの渋谷も知らない若干の空白の時間が在る。
「その参が控えているとは言うまいな?」
「俺は会った事が無いな」
 壱は弐を認知していない。なら壱も弐も知らない参が存在しても不思議では無い。
 可能性は在るが、今ここで論じても時間の無駄だ。結構、とニコは渋谷の言葉を信じた。
「頑固な奴だ。其処まで言うなら、医者でも何でも呼んでその化けの皮を剥がしてやるぞ」
 冴島は頑なに渋谷が演技をしていると主張する。
 医者を呼んだところで与太話か或いは白痴と言われるのが関の山だとニコは言った。現代の帝國医学ではどうにもならない。精神科という分野が周知されるようになったのも近年の話だ。
 頬を抓まれても感情を見せない渋谷に冴島は一瞬狼狽えたものの負けじと睨み返している。ニコが呆れ顔で巨体を軽く肘で小突き、解放された渋谷に手帳を差し出した。
 白い紙の上を蛇のような字が散乱している。
 何だこの落書きはと二人の男に視線を向けられ、ニコは口をへの字に曲げながら次の空白のページを開き、黒い万年筆とインクが入った小瓶を渋谷に押し付けた。
「ここへ署名を」
 渋谷がびいどろの瞳を見詰め、その瞳に宿る意図を探りつつ言われた通りに署名する。
 返却された手帳をニコは物珍しそうに眺めていたが、やがて負傷事件の方へと話を進めた。
 あの時――と渋谷は瞑目して記憶を呼び覚ます。
 先輩や同級生達と共に地下へ続く階段を降りていた時、奥から冷たい風が流れて来た。不穏な空気を帯びた風に、内に居た渋谷はすぐさまこれが怪奇であると察知し、届きはしないと承知の上で表の人格に警告した。
 ――止まれ、これ以上進んではいけない。駄目だ!
 一瞬の空白の後、背中に地面の感触を覚えた。人格が交替したのだと知るまで少しの時間を要した。前方から迫り来る脅威から同級生達を庇おうと咄嗟に彼らを突き飛ばし、そして三人揃って階段を転げ落ち、渋谷だけが受け身を失敗し地面に頭をぶつけて気絶してしまったのだ。
 振り返って見ると、先程まで小林と松山が立っていた付近の石壁に刃物で抉ったような傷があった。
 目を丸くして傷と渋谷達を見比べる上級生達に「来るな」と一喝し、何事かと睨んで来る同級生二人に動くなと指示をする。誰もが渋谷の様子に戸惑っていた。思えば堂々と彼等の前に現れるのは初めてだった。
 制服を弄って御守りを出すと、紐から鈴を外して手の平に乗せる。電灯を点けると廊下の最奥が黒ずんでいる事が分かった。あれはタタリ場だ。かさかさ、かさかさ、と雑音が穢れと共に流れて来る。
 用具入れから箒を取り出して刀のように構えながら奥へ前進する。
 半開きになった医務室の扉がガタガタと震えている。あそこは無人の筈だ。
 その時、背後から怒号が飛んできた。聞き慣れない声に驚いて振り向くと、騒ぎを聞きつけてやって来たらしい教官が憤怒の顔で小林と松山を押し退け、此方に来ようとしていた。
 『何か』は渋谷の一瞬の油断を突いて再び闇の奥から衝撃を飛ばして来た。反射的に渋谷が鈴をチリンと鳴らすと、鈴から放たれた音の波紋が風の刃を打ち消した。教官の顔色が赤から青へと変わる。普段は厳格な教官が腰を抜かし子供のような高音で絶叫するので渋谷も小林達も彼を見やった。どうやら渋谷にも見えない幻を見て錯乱状態に陥っているようだ。
 ――おい、怪奇探偵ならさっさと化け物を退治してくれ。
 と小林が急かして来るので、
 ――悪いが俺は魔法使いでは無い。怪奇とは本来、その形を成すだけの穢れ、人の負の心が生み出した何らかの因縁が在る。根本を解明しなければあれを祓うだけの力を得られないんだ。
 冷静に言うと、小林は薄い微笑を浮かべて教官に視線を移した。
 ――怪奇とは人の障りより生まれるらしい。教官殿に何か心当たりは?
 教官は瞠目して慌てて小林から顔を逸らした。そして渋谷の手に縋り付くと早くあれを祓ってくれと喚いた。その顔には明らかに渋谷の知り得ぬ何かに対する恐怖があった。
「話によると貴様は負傷事件を解決したそうだが、その『何か』を祓ったのか」
 ニコに聞かれた渋谷は困ったように考え、首を横に振った。
「俺は降伏を行ったんだ」
 ごうぶく、と冴島が顔を曇らせるので、ニコが簡単に説明をした。
 陰陽師が悪霊に対して行う物とは異なるが、探偵達の間ではこう呼ばれている。要は力尽くで怪奇を祓う業である。手練れの探偵であっても困難であり、半端者が無理に行えば却って厄介な事になってしまうので、連盟はこれを禁止している。身の程知らずの野良が無茶をして逆に怪奇に喰われてしまうと言うような事件もたまに在るらしい。
「陰陽師では無いと言った癖に」
 自分達が窮地に陥った時にもその降伏とやらをすれば良かったのだ、と冴島が憤慨している。
「探偵は謎解きが仕事なものでね」
 それに、とニコが付け加える。怪奇探偵の行う浄化とは突き詰めると、怪奇に悩まされる人の庇護では無く穢れその物を救済する行為である。彼らは悲鳴を上げている。行き場のない負の心が怪奇となって表れる。それを力尽くで捻じ伏せても解決にはならない――少なくとも彼らや我々にとっては。探偵が真に怪奇を祓う力を得る為には渋谷の言う通り根本を解明せねばならない。
 その通りだと渋谷が首肯した。
「だから教官に探偵を呼ぶように頼んだ。俺みたいな野良じゃ駄目だと思ったから」
 降伏はほぼ成功した。けして手練れとは言えない渋谷だが助け船があったのだ。鐘の音――あれが毎度自分の窮地を救ってくれる。その時は鎌の手をした鼬の姿は見られず、この怪奇は現象の類なのだと思っていた。鐘の音で明らかに気配が揺らいだ所を鈴の音で浄化すると風はぴたりと止んだ。
 途端に体中が強烈な倦怠感に襲われたので、渋谷は震える教官に先程の旨を伝えた後、寮へ戻って仮眠を取る事にした。耳鳴りがする上に指先が痙攣して授業どころでは無かった。
 然し教官は探偵を呼んでは居なかった。渋谷がそれを知ったのは殺人が起きる少し前の事である。学校側はほんの暫くの間、東棟地下一階への立入を禁止しただけだ。
 呼ぶわけがないと冴島が言った。たとえ怪奇を目撃してしまったとしてもここは帝國軍学校である。自身が怪奇の存在を信じるか否か以前に外聞が許してくれない。
「つまり」と更に冴島が推理を述べる。「野良探偵が降伏をしたものの、怪奇は復活して五名の教官を殺害した。お前の中途半端な業の所為では無いか」
 渋谷は反論も無く目を伏せた。
 然しニコが揶揄うように、
「漸く我々の話に耳を傾ける気になったかね、憲兵殿?」
 と言うので、冴島は途端にムスッとした表情に戻り、煩いと吐き捨てて外方を向いた。
 負傷事件以後は地下一階が封鎖された事もあって敢えてその付近に近寄ろうとする者は居なかった。教官が連盟の探偵を呼んだものと思っていた渋谷は静観の姿勢を守っていたものの懸念は常にしていた。
 一度自分が目覚めている間に、大帝國図書館に足を運んで類似した現象の記録が残っていないか文献を漁った事がある。目を付けたのは近頃設立されたらしい民俗学の学会が刊行した雑誌で、帝國内外の歴史や風俗文化について調査資料が掲載されている中に一つ興味深い話を見付けた。東北の雪国で起きた現象で、覚えの無い内に刃物で裂かれたような傷が身体に刻まれていた、突風を受けたかと思ったら痛みも出血も無い不思議な切り傷があった……中には『鎌を持った鼬に襲われた』等の目撃証言まである。証言を基に描き起こされた画には『鎌鼬』と記されていた。
「確かに類似しているが、人を殺した例は無いようだぞ」
 ぶっきらぼうに外方を向いたまま冴島が口を挟んで来る。
「怪奇とは人の穢れから生まれる。化生の姿は象徴に過ぎぬ」
 ニコはそう言って万年筆の先を冴島の喉元に向ける。
「只の道具でも人の意志が宿れば凶器となり得るように、人の穢れが化生を怪奇たらしめるのだ」
 黒々としたインクが粒となって筆先から零れ、続けて冴島の顎から冷汗が滴り落ちた。
 一度降伏を行った鎌鼬が再び息を吹き返した、そこには必ず穢れが関わっている。因縁無くして怪奇は生まれない。では負傷事件と殺人事件の間に何の因縁が生じたのか。
 瞑目していた渋谷が地面に広がる小さな黒い点を見詰め、
「鬼頭教官」と小さく呟いた。
 ニコは頷いて冴島から万年筆を下ろした。
 彼はこの倉庫で、手入れをしていた銃の暴発によって事故死した。遺体は彼の家族の意向により内密に火葬された後に彼の故郷へと引き取られて行った。彼の寮室にあった私物もその時に家族の手に渡り、彼の痕跡は数日で学校の中から消え去ってしまった。小林と松山が言っていた焼却炉の小火は鬼頭教官の死から数日も経たないうちに発生した計算になる。
 暴発の衝撃により教官の心臓は大分損傷していたのだと言う。
「心臓だと? もしやその鬼頭とやらも鎌鼬に――、ム?」
 冴島が咄嗟に渋谷の肩を掴んだ。
 渋谷は瞼を重たそうに開き、冴島に手を借りてその場に腰を下ろした。棚を背にしてニコを見上げる。睫毛を震わせ、今にも落ちてしまいそうな意識を強引に握り締めている。どうやらもう片方が目覚めようとしているようだ。
「冴島殿の言う通り俺は未熟だ。あの時、教官に任せず俺が連盟に駆け込んで居れば……或いは俺にもっと力があれば、こんな事には」
「お前は出来る限りの事をした」
 相も変わらず冷徹な表情で、然し、眠りにつこうとする赤子を相手にするように優しい声で語り掛ける。渋谷の眉間に込められていた力がふっと抜けた。
 渋谷はニコに柔らかい微笑で応えると、そのまま蹲って意識を落とした。
 チリン、と彼の手から御守りが零れ落ちた。
 冴島が爪先で彼の肩を軽く蹴る。安らかな寝息を立てて眠る渋谷の睫毛は少しばかり涙で濡れていた。放置しておくわけにもいかないので冴島は御守りを懐に入れて彼を背負うと、大きな足音を響かせて倉庫を後にした。
 ニコもそれに続こうとして、部屋の最奥に積み上げられた木箱を横目で見やった。
「……あともう一人、居る……」
 探偵の瞳は闇に紛れる穢れの気配を捉えている。

– – – – –

 少年は黄昏時が好きだった。
 昼間はずっと独りでつまらない。夜は『お化け』が出るのではないかと気が気でない。特に夜中の大人も寝静まった頃に催した時は絶望である。同年代の子供達の中でも特に夜尿が酷いので、よく大人に連れられて近くの社で疳の虫を治すまじないを掛けて貰ったものだ。
 それに何より、あの、世界がまるで別のように見える淡い夕陽の光が好きだった。
 彼は空が赤くなる頃に屋敷の庭に出ていつも一人遊びをしていた。昼間の木陰や屋敷の窓辺から眺めていた他の子供達の遊びを無人の夕影の中で再現する。漫画や道具の類は屋敷の子供達の手に在るので自分の身体や自然を使った遊びが主になる。流行りの歌を適当に鼻で歌いながらその辺の石で砂場に絵を描く。或いは指を彼是使って影絵を作る。或いは兵隊になった心算で棒切れを振って軍歌を口ずさむ。
 旧志方邸孤児院の夕暮れの庭園は少年にとって唯一の居所だった。
 ある日、少年は院長に叱咤されて沈んだ気分で遊んでいた。
 孤児院の庭園には美しい花を付ける桜が幾つか植えられており、時たま足を留めて眺めて行く通行人も居る。特に門扉の脇にある桜はこの辺一帯でも立派だと評判だ。隣にある桜が虫でも付いているのか枯れてしまっている所為で余計に片方が美しく映えていた。然し、院長達が大きな桜を褒め称え、大勢の子供達が頷く中で、少年だけが目を伏せて同調しなかった。これに院長が激怒した。あの桜はかつての屋敷の主人が皇族から譲り受けた物で、それを嫌悪するのは不敬だと言った。
 情緒が解るまで戻らなくて宜しいと屋敷を追い出されたものの、夕闇に身を揺らす桜の木は常より増して不気味で、少年は遠巻きに眺めつつ一人遊戯に耽っていた。
 ――何故お前は皆のように出来ないの。
 少年の眼に映る大人達はいつも無表情だ。そして時折その無表情から落胆した声が漏れ出るのだ。ただ周りと同じように頷けば良いだけなのに。少年よりも幼い子供すら知っているのに。
 然しどうしてもあの桜が恐ろしい。砂地に伸びる大きな影が恐ろしい。強い風を受けて花弁を散らし声をあげて身を揺らす、その狭間から滲み出る黒い煙がいつか自分を呑み込んでしまうのでは無いかと思ってしまう程に、恐ろしくて堪らない。
 少年は俯いて目尻に浮かんだ涙を振り落とした。
 ――それが出来たら褒めて貰えるんだ。
 ――それが出来たら仲間に入れて貰えるんだ。
 ――それが出来たら……。
 冷たい風が吹いて桜吹雪が舞った。少年は強く目を瞑って、風が過ぎ去るのと同時に瞼を上げた。
 桜の根元に白い何かが生えていた。
 風が消えたのにうねるように身を捩るので恐る恐る近付いて見ると、それが人の腕だと分かった。肘から先が地面から生えて少年を手招きしている。性別は分からないが恐らく自分と同じ年頃だと思われる幼く痩せ細った腕に、少年は酷く悲しみを覚えた。
 少年は指を伸ばした。辛く苦しい場所で独り寂しく手を振っている彼か或いは彼女をどうにか救ってやりたいと思った。
 そして互いの指先が触れ合った瞬間、腕が大きく伸びて少年の首を掴んだ。
 爪が剥がれた指が皮膚に食い込む。どす黒い煙が少年を包み込んで茜の陽射しを断つ。少年は混乱に陥って必死に腕を掻き毟るが鋼鉄のようにびくともしない。次第に薄れて行く意識の中に子供の泣き声がこだまする。独りにしないで、置いて行かないで、お母さん、お父さん、どうか赦して。
 ――チリン
 彼が屋敷に戻ったのは日が暮れた後だった。
 食堂から寝室へ移動する子供達を見送った院長が玄関口に佇む少年に気付いて、反省は済んだかと語り掛ける。あの桜はとても美しいでしょうと質問する。返事の内容如何によっては念の為にと用意していた夕食を引っ提げる心算で居た。
 少年は虚を見詰めたまま、はい、とても美しいですと答えた。
 右手にしっかりと御守りを握り締めて。

 渋谷は茣蓙に寝転がって灰色の天井を見上げていた。
 手塚判事の立ち合いの下で少年探偵から他の人格の存在を明かされた時、然程の衝撃は無かった。驚愕、納得、懐疑、あらゆる感情が溢れて思考が疲弊してしまったと言う方が正しいのだろう。
 決定的となったのは手帳に記された渋谷史人の署名だった。片や無骨で生真面目そうな角ばった字で、片やしなやかで毛筆のように細い文字。差異は歴然である。念の為、軍学校が保有している渋谷史人の提出物を取り寄せて手塚と数名の判事が夜半にかけて調べた結果、全く異なる二つの筆跡の存在が明らかにされた。試験や宿題の筆跡は大方が手塚も知る渋谷の物で、日誌など学業にあまり関わらない物の中には署名の主の字が散見された。渋谷にも見覚えがある字で、寝惚けていたから内容に覚えが無いしこんな女が書くような字になっているのだろうと特に気に掛けた事は無かった。
 妙な気分である。もう一人の自分に依れば今の自分が目覚めている時、彼は眠っているか時々此方の行動を覗き見ているらしい。今こうしている間にも観られていると思うと落ち着かない。自分が眠りに就いたらこの躰は乗っ取られてしまうのだろうか。
(いっそ、そうしてくれたら良い)
 自分の知らないうちに勝手に動き回り多くの友人を失うような振る舞いをしたものの、ニコや手塚からは怪奇探偵として、或いは重要な場面の目撃者として求められている。小林や松山が頼りにしていた『怪奇探偵』も結局のところ自分では無かった。肝心な場面は全て『彼』の力によって切り抜けられて来た。自分は彼の功績を我が物として、剰えその褌を借りて他人に認められようとしただけだ。こんな自分の姿を『彼』はどんな気分で見ていたのだろう。侮蔑か或いは憐憫か。せせら嗤っていたかも知れない。
 ――実に興味深い。また『彼』が目覚めたら改めて話を聞きたい。
 そう言うニコの瞳には『彼』しか見えていないようだった。当たり前だ。彼は聡明でニコと対等な会話が出来る上、降伏なるものを行える程度には怪奇探偵としての実力も有している。探偵と憲兵と判事が『渋谷史人』と云う怪奇探偵が為した事を語り合っているのを自分は離れた場所でぼんやりと聞いていた。
 身を起こし、所在なさげにズボンの左のポケットを探る。紙袋が音を立てた。いつだったか手塚から貰った餞別である。紙袋の中には更に一回り小さな巾着が入っていた。
 紙袋を捨てて巾着の口を開いて見ると、淡い色で着色された金平糖が顔を覗かせた。帝都三番街の象徴と云われる帝國百貨店に店舗を構える高級菓子店の品である。近頃はキャラメルが流行りで地味な存在となりつつある金平糖だが、この店のは別格で根強い人気を誇ると耳にした事がある。
 一つ食んで舌の上で転がすと仄かな甘みがじんわりと広がった。時間を掛けて堪能し、二つ目を掴んで口に持って行こうとした時、渋谷の思考は蝋燭の灯火を吹き消したように停止した。
 指で挟んでいた金平糖がぽろりと零れ落ちた。
 呼吸が詰まる。冷たい床に転がる桜色の砂糖菓子を見詰める。口腔内に残っていた味を全て喉の奥へ押しやると、渋谷は金平糖を拾って埃を掃い、巾着の中に片付けた。
 巾着をポケットに仕舞おうとして、右側のポケットに別の感触を発見する。
 御守りだ。幼少の頃は寝る際にこれを握っていないと中々眠りに就けなかった。宵闇の中『お化け』を恐れて独り便所に向かう時にはよく鈴の音を鳴らして気を紛らわせていた。
 指で鈴を弾こうとして、指先が固まった。
 自分が触れて良い物など世界の何処にも無いように思えた。
 やがて消灯時間を迎えて監獄は闇に落ちる。渋谷も巾着と御守りをポケットに仕舞うと毛布を頭まで被って横になった。
 全てが寝静まった暗闇の中に、一つ、清浄の音が物悲しく鳴いた。

– – – – –

 三月九日 帝國議会裁判所大久間柳二郎判事提出
 一、被告人ニ複数ノ人格ヲ認メル。
 一、殺人現場ニテ発生シタ現象ヲ認メル。(帝國陸軍憲兵冴島五郎上等兵提出ノ報告書ニ依ル)
 一、然シ是ノ事件トノ関連ハ認メズ。
 一、怪奇探偵ノ行イハ帝國議会裁判所規律第四条三項ニ違反スル。

 書類に目を通したニコはその向こう側に佇んでいる渋谷と冴島に視線を移した。渋谷は己の手首に掛けられた手錠に目を落とし、冴島はばつが悪そうに目を泳がせている。
 3月9日早朝、帝國議会裁判所別館の応接間に四人の男と一人の少年が顔を揃えていた。
「三日の猶予が在った筈だが」
 ニコが書類をテーブルに放り投げると、提出者である初老の十三判事は眉一つ動かさずに答えた。
「実況見分は帝國軍主導に依る物として許可したが、貴君が捜査をほぼ仕切っていたと聞く。法廷乱入の件も含め、貴君には改めて処分を言い渡す。それでも介入するようならば貴君の行いを怪奇探偵連盟の意向と判断し、連盟に対しても規律違反として罰則を科すものとする」
 本来ならばこの実況見分は憲兵である冴島を指揮官とする物である。怪奇探偵のような第三者の捜査帯同は特例として判事の許可があれば可能で、ニコの介入は手塚判事から正式に許可された物である。然し捜査指揮権の掌握は規律違反に該当する、と云うのが大久間判事の主張だ。彼の主張は正しいがニコはその態度に不審を覚えた。
「捜査を指揮した覚えは無い。無礼についても先日正式に謝罪を行った。何を今更」
 ニコと大久間が感情の無い視線を交わす。
 審議延期の原因は既に世間に知られており、今朝がた遺族が法廷に乱入した怪奇探偵に対して罰則を科すようにと要望を提出して来た。怪奇探偵連盟は渋谷の犯行にもニコの所業にも関与を否定しているものの、怪奇探偵は野良だろうが何だろうがそれを名乗る限りは等しく怪奇探偵であるという世間の印象は揺るがない。これ以上目立つ行いをすれば世間に限らず連盟側からもニコに対して何らかの圧が来る可能性がある。
 ついでの土産として大久間は渋谷史人に対する死刑を嘆願する分厚い署名書をテーブルに投げた。
「多くの実績があるようだが所詮は子供。これに懲りたらもう少し常識を学ぶことだ」
 大久間の口角に若干の力が込められる。
 傍で聞いていた手塚が冴島を見た。
「捜査の最中に出現したと言う怪奇については」
「奇怪なつむじ風が発生したようだが、鼬については見間違いでもしたのだろう。そうだな冴島君」
 代わりに大久間が回答し、背後で控えていた冴島がハッと息を呑んだ。ニコと手塚の視線を受けてたじろいでいたが、顔を逸らして何も見えない振りをしながらぎこちなく頷く。
「じ、自分は何も見て居りません」
 ニコと手塚が目配せをする。大久間は満足げに深く頷いた。
「たとえ怪奇が実在したとして、それが殺人を犯したと誰が証明出来ようか。或いは化け物を容疑者として法廷に引っ張り出して来るか? 事件には犯人が必要なのだよ。人無くして罪は起きぬ。渋谷史人が犯人では無いと言うのであればそれに代わる人間を告発するが良い」
 然し、とニコがそれに反論しようとして、
「もう良い」
 と渋谷に遮られた。大久間も後ろを振り向いて渋谷を見やる。生気を失った隣人の青白い顔に冴島は心を貫かれた。
 誰もが注目する中で渋谷はテーブルに鎮座する署名の束を見詰めていた。
 あれだけ大勢の人間が自分の――この渋谷史人の死を望んでいる。可笑しくて思わず笑ってしまった。判事に憲兵、大層な身分の大人達が渋谷有罪を成立させようと必死になって居る。その双眼で確と怪奇を目撃したであろう憲兵も、昨日交わした会話などすっかり忘れてしまったように済ました顔で平然と嘘を吐く。滑稽で堪らない。
 渋谷は彼らの姿にかつて世話になった孤児院の院長を重ねていた。
 こんな時どう答えるのが正解か?
「どうしても俺が犯人でなくちゃならないんだろう。皆の気が晴れるなら……もうそれで良いよ」
 自嘲し、抑揚のない声で言葉を紡いでいる。
 大人達が雁首揃えて大仰に話をしているが、要するに皆、これ以上に行動を起こしたくないのだ。たった一人のたった一言で全てが終わるなら楽で良い。生まれて初めて誰かから求められているような気分になり、妙に心地が良かった。
 初めは真実を明かしたい一心だった。怪奇探偵など関係無く己の為すべき事をしようと思った、そうすれば誰かに――鬼頭教官に褒めて貰えると思った。その情熱は今も変わらずに在るが、それ以上に自分を呑み込もうとする感情がある。恐怖でも悲嘆でも無い、諦観である。強烈な虚無感が生への執着心を掻き消している。世上を敵に回してまで抵抗する程の価値が果たして己に在るだろうか。自分が死んだ所で悲しんでくれる人間など存在しない。この渋谷史人を褒めてくれる人間はもう何処にも居ないのだ。
「その沼はさぞ気持ちが良いのだろうな」
 びくっと身体が引き攣る。空虚に落ちようとしていた意識を鷲掴みにされて現実へと引き戻される。
 恐る恐るニコを見る。その空色の瞳に滾る炎を見る。それは力強くも優しい熱を帯びていた。
「人は己が見たくない物を嘘で隠そうとする。だが真実は……過去は揺るぎない物だ。たとえ数百の署名だろうと憲兵だろうと、過去を捻じ曲げる事は出来ない」
 凛とした声が渋谷の心に入り込もうとする穢れを浄化する。
「渋谷史人は怪奇探偵である前に一人の人間だ。そもそも我々が此れまでに解明した事も、本来ならばあの裁判で徹底的に論じていなければならなかった筈だ。喰い荒らされた心臓、壁の傷、そして渋谷史人の人格。あの裁判で貴公らは一体何を明かし、一体何に己の命である木槌を振り下ろそうとしたのだ。その胸に未だ信念と言う物が残っているのであれば、偏見や思想に惑わされず、最後まで真実を求めたまえ」
 大久間は忌々しそうにニコを見下ろしていた。表に出さないように意識しているようだが侮蔑と嫌悪の本音が顔の隅々から滲み出ている。
「小僧如きの言葉に揺らぐ法廷では無い」
「この署名も同じく。何の力も持ちません」
 発言者である手塚を大久間が驚いたように睨み付ける。手塚は同僚に軽く微笑み掛けてその脇を通り過ぎ、力無く俯く渋谷の肩に手を置いた。
 そして渋谷の隣で我を消そうと目を閉じていた冴島に視線を向ける。
「『自分は何も見て居りません』、その言葉に偽りは御座いませんね」
 冴島は落ち着かない様子で首や頬に残る傷跡を隠しながら手塚の視線から逃れようとしていた。手塚の顔からは微笑が消え、鋭い三白眼が冴島の瞳を射抜いている。その恐ろしい視線をまともに受けてしまった冴島は背筋が凍り付き、全身がぶるぶると震えた。
 大久間が何か口を挟もうとして、手塚に眼光を向けられ言葉と一緒に息を呑む。
「……憲兵という立場として、怪奇の存在を認めるわけには行かんのだ」
 冴島は渋谷を横目で眺めながら昨日の出来事を想起していた。冴島自身、あの出来事が夢であればと願っているが、身体に残された傷痕と脳内にこびり付いた鼬の絶叫が一縷の願いを撥ね退ける。
 穢れだとかタタリ場だとか小難しい話は良く分からない。ただ一つだけ薄らと思う事がある。この少年は殺人を犯していない。憲兵である冴島がその目で見た物の全てを偽り無く語るだけで渋谷は限りなく無罪に近くなる。だが冴島にはどうしても真実を語る事が出来ない。積み上げて来た物が一瞬で崩れてしまいそうな恐怖がある。真実とやらに己の全て犠牲にしてでも求める価値が在るとは思えないし、渋谷など所詮は只の他人だ。ならば、世上が作り出したより強力な流れに乗ってしまうのが一番気楽で良い。
「それが……貴方が求める『まことの軍人』なのですね」
 冴島にだけ聞こえるようにそう言うと、手塚は渋谷の肩に手を置いたまま踵を返してニコを見た。
 冴島は拳を握り締めて悔しそうに視線を足元へ落とした。
「ニコ殿には通告通り、規律違反により罰金百圓、及び一ヶ月の停職処分を科します」
 手塚の冷徹な言葉に、大久間は得意げな顔でニコを見下ろした。然し、
「再審までまだ時間が在ります。本日も引き続き捜査をお願い致します」
 続けられた言葉に狼狽した。当初思い描いていた筋書きと大きく異なる。
 青年判事が大久間の視界から渋谷を隠そうと前に立ちはだかるので、これも大久間は不愉快に思った。此方は青二才の何倍も木槌を振るって来た古参だ。良くも悪くも物怖じと云う言葉を知らないこの若造を時々憎たらしく思う事がある。
 まさに被告人の罪を確定しようと判事達が木槌を手にしていた時、大久間の視界には手塚の姿があった。渋谷史人の助けを乞う絶叫が響く中で耳を澄まして何かを待っているようだった。彼は少年の――怪奇探偵の乱入を予見していたのでは無かろうか? 或いはこの二人が裏で手を組んでいるのでは?
 議会に於いて再捜査が必要になった時、その責任者は十三人の中の一人が選出される。今回は手塚判事が担当になった。選出された判事は指揮官の任命権を持ち、また、捜査中に発生した障害の補償を行わなければならない。加えて、他の判事達と意見を交換しながら再審の準備を行う責務が発生する。
 今回のこの抜擢が自分にとって汚点となるような予感がして、大久間は少しばかり焦っていた。
「手塚判事は余程怪奇探偵の無実を信じているらしい」
 自分の息子と同じ年頃だというのも気に喰わない。若造の分際で悟ったような顔も煩わしい。
「ニコ殿の仰る通り、此方にいらっしゃるのは渋谷史人と言う一人の少年です。怪奇が関わっていようと無かろうと私達は真実を見極めなければならない。我が帝國議会裁判所はけして処刑場などでは無い、真実を明らかに出来る最後の砦なのです。違いますか?」
 綺麗事を並べるのは若造の特権か、と大久間は鼻で嗤った。
「無駄な足掻きだ。よもやこの与太話を信じているのでは無かろうな」
「無駄かどうかは後に判断する事です。私は真実を明らかにしたいだけ。今の状態では、少なくとも私は己の木槌を振るう事は出来ません」
 熟年判事と青年判事の視線がぶつかり合って火の粉を散らす。
 帝國議会裁判所は他の裁判所と異なり、特例を除いて基本は十三人の判事の意見が一致しない限りは判決が下る事が無い。その為に厳格且つ慎重な捜査と公正な判断が求められる。
 署名が功を奏したのか憔悴しきった様子のひ弱な被告人はさておき、今の手塚の様子では明日の審議も自分の望むように行かないかも知れない。大久間は顔を顰めた。――手塚。憎たらしい名だ。その頑固さは味方に引き込めば心強い物だが、敵に回すと非常に厄介だ。簡単には折れないだろう。
 不意に大久間から不機嫌な表情で睨まれ、冴島は苦渋の面持ちで瞑目した。
 今日も長い1日が始まる。またあの化け物に遭遇するかも知れないという恐怖よりも、先の見通しが極めて不明瞭で落ち着かない。慎重に身の振り方を見極めなければならない。自分と共に田舎を離れて今は寮から女学校に通っている一番末の可愛い妹が、自分への入隊祝いにと贈ってくれた染物の手拭がポケットの中でくしゃくしゃに丸まっていた。それを乱暴に広げて顔中から滲み出る脂汗を拭う。自分が今ここで軍を追い出されたら彼女の学費が払えなくなる。それに何より己が『まことの軍人』の境地に至る迄は何があっても立ち止まっては居られない。
 大久間判事の思惑は冴島には分からない。だが、この1日をどう振舞うべきかは彼の表情を見ていると選択肢は一つしか無いと思った。
 判事、世論、流れは止められない。己は最良の選択をしているのだと言いたげに冴島が渋谷に視線を送ると、彼はニコを見詰めたまま言葉を殺して微動だにして居ない。以前のように無実を主張して癇癪を起されるよりもずっと良いと思う一方で、未だ成人に満たない青少年の感情が削られて行く様を目の当たりにして、冴島五郎という一人の人間の心が刺激された。
 こんな不愉快な顔はもう二度と視界に入れたくない。兎角、あと一日。再審が終わればもう渋谷を見る事も無くなる。この日さえ恙無く過ごす事が出来たならば。
「再審は明日の午後一番に行われます。其れまでに確固たる捜査を行うよう、私の方から改めて捜査を依頼します。冴島殿、渋谷君、そしてニコ殿」
 渋谷の肩を掴む手塚判事の指先に力が込められた。
 壁に掛けられた振り子時計がカチカチと音を刻んでいる。
 顔に威圧と憤怒を帯びた大久間が、自分よりも少しばかり長身の手塚を見上げる。近くに居た冴島は冷汗を拭う事すら出来ずに只管動じなかった。ここで額の脂汗でも拭えば怒号が飛んでくるような気配だ。
 今まさに罰則を科せられた子供に――一か月の停職処分を通達された怪奇探偵に――再び捜査に参加するように言っている。
「看過出来んぞ」
 手塚は頭を傾けて署名の束を示すと眼光はそのままに微笑んだ。
「お互い様ですよ」
 渋谷史人を頑なに怪奇探偵と呼び、わざわざ署名を書類に纏めて持参した。そもそも今回の捜査も手塚が手回しをして正式な物として行っていたのを今日になって突然阻止をしに来た事にも、何らかの意図が隠されているのだろう。冴島に圧力を掛けている人物も自ずと見えて来る。
「奴は停職中だ。この指名は無効だ。そもそも怪奇探偵が捜査に関わるなど!」
 手塚に退く気配は皆無である。
「停職中であろうと子供であろうと、判事が指名した者は正式に捜査への参加を許可されます。その代わりあくまでも憲兵殿の主導ですので。あまり調子に乗らないように」
 手塚はにっこりとニコに微笑み、ニコは苦笑して手を軽く揚げた。
 大久間は鼻息を荒げてぶつぶつと文句を吐いて居た。
「この小僧は一体どんな賄賂を使ったのか。或いは判事が弱みでも握られたか……、まあ良い。あとたった一日で真実とやらが明らかになるのであれば好きにすれば良い。たとえ怪奇とやらが実在した処でそれを裁く法などこの國には無い。時間の無駄だと思うがね」
 手塚判事から目を逸らし、目を伏せる渋谷の顔をまじまじと見詰める。恐らく今まで相手にして来たどんな罪人よりも弱い。軽く押せばそのまま倒れてしまいそうなのに中々しぶとい。何より、心の何処かで見縊っていた青年判事の眼前で言葉に詰まるなど恥辱以外の何物でも無い。
 傍で己を押し殺す冴島に物言わぬ恫喝をすると、書類や署名をそのままに部屋を後にしようと扉に手を掛けた。
 その背中に「待て」と無礼な声を投げ付けられる。
「この報告書、撤回する気は無いのだな」
 尊大な態度で生意気な事を言うので、大久間は薄笑いを浮かべて「無い」と少年に言い放った。そして意地と矜持を込めた指で扉を勢いよく閉じた。
 手塚は渋谷の肩から手を離し、眉を八の字に曲げて溜息を吐いた。
 これから大久間はこの一連の流れを自分に同情を集めるように誇張して吹聴しに周るのだろう。年長の判事の言葉には重みは在るが、彼が少々高圧的で強引な手段を用いる事を快く思わない判事も居る。手塚もその一人である。大抵の同僚ならば手塚同様耳を貸さないのだろうが、中には真に受けて手塚に抗議をしに来るような判事らしからぬ者も居るので気が抜けない。
 ボーン、ボーン、と振子時計から午前九時を報せる音が聞こえた。
 引き寄せられるように渋谷がぼんやりと自分の直ぐ背後の掛け時計を見やった。硝子戸の中で左右に揺れる鋼色の振子には奇妙な鳥の横顔の絵が薄く彫刻されている。嘴は鋭く、後頭部だけが赤く塗られている――何の鳥だろう。
 ボーン、ボーン、低音が心の臓を震わせる。冷えた身体に血の巡りを感じる。学校の鐘楼の音に少し似ており、コラッと懐かしい声すら聞こえて来た。白んで行く意識の中に笑顔の老人を見付ける。時計仕掛けの鐘楼に悪戯を嗾けようとする悪餓鬼の頭に拳骨を落とし、仕方の無い奴だと呆れたように笑う。そして踵を返す。最後の九つ目の音と共に大きな背中が白い世界の向こうへ遠退いて行く。
 渋谷は思わず手を伸ばした。
「仕事が出来てしまったようなので、私はこれで――」
 手塚はその先を停めた。
 誰の心がそうさせるのか。掛け時計を眺めていた渋谷が判事の法服の裾を掴んでいた。ニコ、冴島、手塚、誰もが彼の震える指先を凝視していた。
 名前を呼ばれ、渋谷は声の主に視線を移した。神妙な顔をする手塚にきょとんと眼を丸くする。
 幼い。人混みの中で親を見失わないように確りと服の裾を掴む子供の顔だった。
 手塚は何かを言おうと唇を動かし、目を細めて言葉を呑み込んだ。そして言葉の代わりに渋谷の手を優しく握ると、恐怖からかビクッと身体を強張らせる少年に微笑みを見せた。
「――何卒、宜しくお願い致します」
 手塚はそれだけ言って渋谷の手を漆黒の外套から離すと、深く、恭しく、一礼をした。

 連なる縦長の窓から陽光が射しこむ。人の気配が感じられない長い木造の廊下を只管に歩く。
 昨日と同じ黒帽と黒い肩掛けを身に纏い、渋谷は冴島の背中を追っていた。数歩進む度に繰り返し顔に掛かる光に目を細める。一歩外に出たら太陽に焼かれてしまうような気がした。
 冴島もまた物思いに耽りながら小さな背中を追っていた。
 三つの革靴の音が廊下に反響する。肩に乱雑に掛けられた黒い外套がひらひらと揺れている。剥き出しになった青い髪が陽光を浴びて宝石を散らしたように光っていた。
 憲兵を引き離す勢いで歩いていたその足が不意に止まり、一拍置いて二人の足も止まった。
「ここまで来れば再審の結果次第では恐らく手塚も無傷では済まなくなるだろう。あれもまた我々に肩入れをし過ぎた。だが、奴なりに覚悟を決めているのだろう。お前を託された身としてもその覚悟には応えてやりたい」
 互いの息遣いが聞こえてきそうな静寂。チチチ、と鳥の囀る声が間近で聞こえた。
 我慢がならずに沈黙を破ったのは冴島だった。彼は渋谷の手錠に繋がった縄を握り締めて少年の背中に迫った。
「未だ諦めないのか」
 ニコが男二人の方を向いた。陽光が白い頬を照らしていた。
 自分の月給の数倍は在ろう罰金、更に一か月の停職処分。それを物ともせずに幼い探偵は今日も捜査に繰り出そうとしている。冴島は指揮を任されて居ながら彼の背中を追う事しか出来ない己を瑣末だと思った。結局己は怪奇を、己の身体が明確に記憶している経験を否定しきれずにいる。流れは此方に在る、利は大衆が掌握している、それなのに不安で仕方が無い。寧ろニコの方が勝利を確信したような精悍な表情で居る。
 冴島はその瞳を真正面から見る事が出来なかった。己の内に在る弱さの全てを暴かれそうで恐ろしい。
 だから先に彼を責める他に己を守る手段が無い。
「質問に答えろ。捜査の中止を命じても良いのだぞ」
「真に君が望むのならば好きにしたまえ」
 然し出来ない。冴島にはその一歩が踏み出せない。
 冴島の心は怪奇の存在を明確に認めつつ在る、然し完全に首肯してしまえば普遍の流れにもう二度と戻る事が出来ないような気がする。葛藤するのも心が苦しいので、時が全ての苦悶を流してはくれないかと期待している。己を超越した抗いようの無い力がこの感情を捻じ伏せてくれたなら。
 己の願いを叶えてくれるのは、大久間か、それとも――。
 冴島はむしゃくしゃした感情を露わにした。
「何なのだ、お前は! 俺は……俺はどうすれば良いんだ!」
 彼の苦悩が空虚な渋谷の心を揺さぶった。
 縄から、手錠から、冴島の動揺が伝わってくる。この人は何をそんなに苦しんでいるのだろうと不思議だった。憲兵としての立場を貫くのでは無かったのか? 流れに乗るのでは無かったのか?
 心臓がずきりと痛んだ。
「怖いか?」
 ニコが質問する。それは二人の男に向けられている。
「怖いだろうな。誰もが己の眼に見えない物を怖れる。未来、人の心、そして真実。だが怖れて良い、何かを怖れて彷徨う事こそまことに生きる者の定め。本当に怖ろしいのは、怖れを忘れ、怖れを忘れた己を忘れる事だ。生ける屍とでも呼ぼうか」
 ――お前のあらゆる物に魂が感じられぬ。まことに生きているのかすら怪しいものだ。
 渋谷は初めて自分の内に渦巻く恐怖の正体を感じ取った。
 見捨てられ、誰からも背を向けられ、存在を忘れられてしまう事。幼い頃からそれを異様に怖れていた。自我を見せる度に怖れが増して行くのでいつしか己を殺すようになっていた。
 いつから俺は生ける屍となってしまったのだろう。
 チリン、チリン、と耳元で微かな音がする。
 片方の男が顔を逸らすので、ニコは自分の方を向いている少年の瞳に語り掛けた。
「お前は未だ生きている」
 青と黒の瞳が交わる。燦燦と降り注ぐ陽光が瞳の中に広がる空を映す。
「あの黄昏、拙い足取りであろうと必死に僕を追い掛けて来たお前を、己の意志で走り出した渋谷史人を、僕は信じている。そして流れに逆らってでも真実を求めんと決意し、今日一日を僕に託してくれた判事を信じている。それらを信じる僕自身を僕は最後まで信じ抜く。真実を暴く探偵として、穢れを祓う怪奇探偵として、最後の一分一秒迄諦めはせぬ。……これが僕の回答だよ憲兵殿」
 未だ諦めないのかという冴島の問いにニコは改めて澱み無く答えた。
 渋谷の瞳がゆっくりと大きく見開かれて行き、闇に柔らかな朝の光が射し込んだ。
 黄昏の中、激しく呼吸をしながら只管この廊下を走った記憶が眼前に再生される。其処にはもう一人の渋谷史人や処刑を望む署名など存在しなかった。今ここで動かなければ、行かねばならないと云う己の内から溢れる激情に突き動かされていた。生きる事に執着していた。
 熱い血潮の轟音が聞こえる。心臓がドクドクと激しく泣き叫ぶ。渋谷は呼吸を引き攣らせて己の胸倉を掴んだ。何だ男が人前で泣くなんて情けない、鎮まれ鎮まれと命令して瞼を締め付けて涙を乾かす。その反動で、正しく息をする事も出来ずに体中から力が抜けて行った。
(情けない。俺はどうしてこう弱いんだ)
 もし『彼』なら――もう片方の人格なら、とっくにニコや冴島と話をつけて捜査に勤しんでいるのかも知れない。ああでも無いこうでも無いと詰まらない事で悩まないのかも知れない。あの嫌味たらしい大久間に若干の抵抗でも見せる事が出来たかも知れない。
 刻一刻と期限が迫っているのに陳腐な沼に足を取られている自分には嫌悪しか無い。
 けれど何故だろう。こんな無価値な石ころをわざわざ拾い上げようとする物好きが居る。どんなに心を覆い隠そうとしても彼は真正面から見詰めて来る。愚かしい姿も情けない姿も今己が陽光の下に晒されているように、ぼろぼろと化けの皮が剥がれて本性が剥き出しになって行く。自分は弱い。臆病な上に泣き虫でまるで子供だ。だがこの脆弱な本性を分かって居ても尚、彼は手を差し伸べている。
 その手を取るか否かは他の誰でも無い、己の、この渋谷史人に委ねられている。沼に入ったのが自分なら這い出るのも自分しか居ない。無関係の片割れにその責任を押し付ける事は出来ない。
 渋谷は震える声で脳内に浮かんだ言葉をそのまま絞り出した。
「俺はどうすれば良い。『彼』じゃない、『俺』に一体何が出来る」
 この期に及んで他人に答えを求めてしまう自分が恨めしい。
 ニコはその言葉に何かを確信したように不敵に笑った。
「そうさな。先ずは自分を受け入れろ」
 そして懐から扇子を取り出し、背を少し伸ばして渋谷の皺が寄った眉間を一突きした。
「次に、この僕を信じたまえ。この二つが出来たら怖い物は無いぞ」
 眉間を突いた衝動でチリンと鈴が鳴った。
 前方から春風のような優しい風が吹いた。青い髪が靡く。びいどろの瞳に映る太陽が煌く。春の訪れを予感させる温かい香りに懐かしい気持ちになった。
 どんな時も揺るがない絶対的な自信と誇りに満ち溢れた少年の表情。
 この少年となら、あともう少しだけ頑張ってみようと思える。
「……努力する」
 恥ずかしくなる程に幼稚な返答だ。然し少年は満足そうに頷く。
「お前はそれで良いのだ」
 何処かで聞いた言葉に渋谷は目を見開いた。
 ニコは扇子を優雅な手つきで開くと温い風を扇いだ。既に探偵の双眸は事件の方へ向いている。
「この一日が勝負だぞ。我々は確実に真実へ近付いている、故に大久間が動いたのだ。どうやら頑なに渋谷史人を犯人に仕立て上げようとする人間が居るようだな」
 渋谷は悪寒に堪えてニコの言葉に耳を傾けた。
 五名の教官殺しの犯人は『鎌鼬』で間違い無いと少年探偵は断言する。だが何者かが渋谷史人を殺人犯にしたがっている。
 根拠は、と小声で口を挟んだのは未だ決心がつかないのか目を伏せている冴島である。汗を流しているのでニコは彼に向けて扇子をひらひらと動かした。
「もう一人の渋谷――渋谷弐が医務室倉庫で気絶してから、そこの渋谷壱が取り押さえられる間に若干の空白が在る。その間に何があったのかが問題だ」
 片割れの行動は概略ではあるが手塚から聞かされている。渋谷史人の第二人格の証言としても記録に残って居るようだ。
 目を閉じ、流れる映像の中彼の行動を追い掛けようとして、渋谷は単純な事を思い出した。
 医務室倉庫に保管されていた備品のサーベル刀だ。渋谷は倉庫に武器が保管されている事を漠然と知っているだけで何が保管されているのか明確な情報を知らなかった。兎角、渋谷弐は倉庫入り口付近で気絶し、医務室の中央付近で目覚めた自分渋谷壱はサーベル刀を所持していた。血に塗れた武器を所持していたからこそ教官達は渋谷を犯人だと思って取り押さえたのだ。
「遺体の傷の一部が刀痕だと判明している」
 ニコの言葉に誰よりも冴島が動揺した。
「一部だと? それは一体如何云う事だ」
 凶器がサーベル刀だと言われた以上は、部屋中の傷も遺体に加えられた傷も全てが凶器に依る物だという認識で居た。少なくとも昨日迄は。殺人鬼が鎌鼬で部屋や遺体の傷の大半が其れに依る物だとしても、その中の一部にサーベル刀の物が存在するというのは疑問が残る。
「要するに何者かが、渋谷壱と弐が気絶している間にサーベル刀で遺体を傷付けたのだ」
 一体誰が、何の為に。
「渋谷の御守りも消えていた」
 ニコに言われて、渋谷はポケットから御守りを取り出した。これは医務室倉庫の棚の下に在ったのだと聞いた。片割れが気絶する迄は所持していた。
「例えば渋谷その参が居たのだとしたら? そいつが殺人も犯したのだとしたら」
 冴島が渋谷を横目で見て訊ね、そして渋谷弐の証言が嘘であるという可能性を提示した。例えば渋谷壱が気絶した後、本当は渋谷弐では無く渋谷参が発現して殺人を犯し、何らかの手段を以て心臓を処分した――渋谷が心臓を食した可能性が捨てきれないと冴島は主張する――後、怪奇『鎌鼬』が出現して現場を荒らした。それを渋谷参が撃退し、御守りは最中に誤って落としてしまった。一部始終を見ていた渋谷弐は己の罪を隠す為に一連の証言を行った。
 これもニコが一蹴した。
 御守りは棚の下の奥深く、手を伸ばさなければ届かない場所に在った。誤って落としたというよりは、隠した、或いは倒れた衝動で飛んでしまったと考える方が正しい。仮に渋谷参が殺人鬼だとして御守りを敢えて隠す理由が無い。尚且つもしその渋谷参が怪奇探偵としての力を所持して居るならば、唯一の武器である御守りを自ら手放すような真似はしない。鎌鼬は未だ存在しているのだ。
「まあ、渋谷その参とやらの存在を主張するのであれば、相応の根拠を提示して欲しいものだが」
 冴島は顎を摩りながらフムフムと頷いた。すっかり目の前の事件に夢中になっている。
 冴島が指揮官として選出されたのは現場の発見者である事が大きいが、きっと他にも理由が在るのだろうとニコは思った。手塚は人選が上手い。この捜査に自分を巻き込んだように。
「問題は更に一つ」畳みかけるようにニコは冴島を見る。「『遺体の傷は二種類ある』という重大な事実がまるで問題視されて居ない。先日の裁判に於いては隠蔽されていたかの如く話題に上がらなかった」
 もしあの裁判で傷について取り上げていたら、サーベル刀の物では無いもう一つの傷とは何かという疑問が湧くだろう。そうすると必然的に心臓の行方も論じなければならない。
「あの早急な裁判、そして死刑嘆願の署名。何者か……権力者の圧が議会に掛けられた可能性が高い。大久間判事は其方側の人間だと見て良いだろう。少なくとも中立的では無い」
 帝國議会裁判所が特定の権力に傾倒したとなればそれこそ大騒ぎになる。
「あそこはもっと崇高な物だと思っていた」
 政治家や軍人を裁く事が出来る唯一の裁判所だ。選ばれた十三人の判事は法律関係者の中では最高峰の地位と権力を持つと聞く。あまり世間では話題に上がらない機関だが、判事達に羨望の眼差しを送る者は少なくは無い。渋谷もあの黒衣と木槌に一時は憧れていた。
「手塚が探りを入れている。先日の議会を見る限りでは、大久間か或いは黒幕の思想に同調して議会を其方に有利になるように動いている者も他に居るやも知れぬ。ただ、此度の捜査の責任者が大久間では無く手塚である事、手塚の要求が通りやすい所を見ると汚染は未だ最小限に留まっている可能性が高い。問題はその黒幕が何者なのか」
 渋谷が怪奇探偵である事を必死に主張していた気の強そうな女性判事も、既に中立の立場を忘れて何かの思想に染まっていたのだろうか。騒いでいた聴衆の中にも黒幕の関係者が居たかも知れない。
「少なくとも軍学校の内情に詳しい。本人か或いは身内が軍学校の関係者だと考えて良いだろう」
 渋谷は『権力者』について思考を巡らせた。
「帝國軍直属の学校だし、権力者なんて教官から学生までゴロゴロ居る。確か鬼頭教官も田舎の出とは言え多くの名誉勲章を得た元軍人で、特に陸軍の方に顔が広かったって話だ」
 勲章など一つも無く柿ばかりが在る質素な部屋だった事を思い出す。他にも退役後に教職に就いた者が居て戦争の話を後学の知識として講義する機会もあったが、鬼頭は周囲が話題に出してもあまり乗り気では無く、寧ろ軍人時代の話を避けているようだった。彼は素晴らしい軍人だと云う話も余所で耳にしたが渋谷には柿と拳骨が好きな老爺としての印象が強い。
 事実として鬼頭と同程度かそれ以上の権力を持つ者の方が多いだろう。華族が多い『貴族会』の関係者も在籍している。
「権力者云々については分からんが、傷の存在を隠したのは、単に怪奇の存在を認めたく無かっただけではないのか?」
 冴島がぼそりと呟いた。
 ニコが目を瞠って冴島を見やる。凛とした瞳に冴島は慌てて顔を引き締めた。
「深い議論になれば深い調査が必要になるだろう。そうすれば何れあの怪奇にぶち当たる。天下の軍学校で怪奇が発生し剰えそれが殺人を犯したとなればそれこそ大騒ぎだ」
 怪奇に対して懐疑的且つ排他的な帝國の世情が震撼するだろう。革命的な事件だ。現象ならまだしも、人ならざる化け物が人命を奪うような事件が公的に認知されてしまえば多くの問題が生まれる。怪奇に人界の罪が適用されるか? 怪奇探偵の扱いは? そもそも『怪奇』とは一体何なのか? 彼是議論をするよりは、怪奇探偵を名乗る学生による猟奇殺人にしてしまった方が何かと都合が良い。
 ニコは冴島の言葉に納得したように頷いた。
「理由はどうであれ、深い調査を…医務室に眠る真実の露見を怖れる者が居るようだ」
 その何者かが大久間判事を通じて議会に圧力を掛けているのだとしたら。
 ニコの脳内では様々な推理が目まぐるしく飛び交っているのだろう。彼は扇子で己の頭を軽く叩いた。リン、リン、と鈴が軽快に鳴る。穢れに閉ざされた視界が晴れて来るような気分だ。
 ニコは扇子を閉じて懐に仕舞い、代わりに懐中時計を取り出した。午前九時を少し過ぎた頃である。
「時間が惜しい。行くぞ」
 肩に掛けていた外套を手拭いのように豪快に掴み取って羽織り、一緒に手に持って居た黒い鳥打帽子に髪を詰め込む。団子に結っていた髪の先が収まりきらずにちらりと見えた。
「まさかまたあの医務室か? 今度こそ命を落とすやも知れんぞ」
 外套を翻して踵を返したニコに冴島が問い質す。今朝がた取り換えたばかりの包帯に汗が滲む。
 ニコは首を傾げて背後の冴島を一瞥すると薄く微笑んだ。
「だが誰かがやらねば。これ以上の犠牲者を出さぬ為にも。憲兵、貴様が帝國憲兵としての信念を貫くように、僕もけして退けはしないのだよ」
 あの地に染みついた穢れ、怪奇が棲み付くタタリ場を祓うには真実を白日の下に晒す必要がある。ここで歩みを止めてはいけない。回り始めた歯車はそう簡単には止められない。
 渋谷は御守りをポケットに戻して小窓から空を覗き見た。
 両手を縛る錠から解放され、堂々と帝國の空の下を歩ける日はもう二度と来ないのかも知れない。だがこの最後の一日、己の意識が在る限りは努力する。たかが知れた努力だがせめてこの一日だけは己の足で立って居たい。一度は諦めてしまった自分に祈る資格は無いのかも知れないが、渋谷は瞑目した。湿っていた睫毛から一滴の涙が透明な軌跡を描いて流れ落ちた。
 頬に残る涙の足跡を拭おうとして、「エヘン、エヘン」と頭上から野太い咳払いが落ちて来た。
 強引に顔に手拭いを押し付けられた。渋谷は慌ててそれを受け取って冴島を見上げる。彼は外方を向いて巨体を揺らして何度も咳払いをしていた。
 今度は何を言われるのだろうと渋谷は手拭いを握り締める。
「……俺の旧知が帝都新聞で文屋をしていてな。社内でも有名な変わり者なんだが、仕事は出来る奴だ。名を十河と言う。実は殺人事件の際にも偶然顔を合わせている」
 帝都新聞社は政府御用達で帝國最大手の新聞社だが、怪奇探偵に対しては批判的で偏向報道が著しい。近頃は記事の質も余所の新聞社に後れを取っていると囁かれている。
 ニコは少し嬉しそうに顎を撫でた。
「是非とも話を聞きたい。連絡を取る事は出来るか?」
「ばッ莫迦者。俺は何も知らん、何も言っては居らんぞ」
「僕や渋谷では腹を割った話が出来ぬ。君が頼りなのだ冴島五郎上等兵」
「……。ええい、クソッ!」
 噛み合った歯車がやがて大きな動きを作り出す。
 冴島は額の汗を指で弾き、軍帽を被り直して目許を隠すと、一行の先頭に立って廊下を歩き始めた。その後ろをニコが追い掛ける。遅れるなよと渋谷に言葉を投げた。
 渋谷は汗臭い皺だらけの手拭いに目を落とした。白い布地の片隅に薄っすらと桜の紋様が薄紅色に染められている。大の男が買うには随分と可愛らしい。鼻腔を突き刺す男の汗の臭いが何故だか心地良い。絞ったら汗が垂れて来そうだ。
 消えない皺を伸ばして四つに折り畳んでシャツの胸ポケットに仕舞いこむと、渋谷は粗雑に己の顔を叩いた。ジャラジャラと手錠の鎖が鳴って縄が宙を揺れた。
 チリン、と鈴の音が転がる。
 そうして静謐の陽だまりの中、渋谷は静かに走り出した。


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