授業の合間の休憩時間、学生達が校庭を漫ろ歩く中、東棟地下へ続く階段の踊り場では警官が一人黙々と勤務に就いていた。
 そこへ一人の学生が血相を変えて駆け寄って来るので何事かと聞いてみれば、このすぐ近くで流血沙汰の喧嘩が起きたのだと言う。微かにそれらしい声も聞こえて来るので警官は急いで鎮圧へと向かった。
 硝子窓から滑り込む午後の陽射しが地下への途を照らす。半分を折り返すとその先は電灯一つ無い闇である。学生は足音を立てないように物陰に身を沈め、そのまま闇へ足を踏み入れた。廊下の壁に掛けられた壊れかけの懐中電灯を手に、多くの人間を喰らった魔の部屋へと向かう。
 今動くのは少しばかり危険だと思ったが、どうせ警備など名ばかりの置物だ。見付かった所で適当に取り繕えば良い。今は只々時間が惜しい。
 珍しく汗ばんだ手でポケットの中を弄る。職員室から拝借した鍵で開錠し重い扉を開けようとした彼は、ふと目線の先に奇妙な物を見つけた。丁度鍵穴のような形に切り取られた紙が戸に貼り付いていた。字が綴られているようだが何を意味しているのかは解らない。誰かの悪戯にしては陳腐だと思った。
 部屋の電灯を一度だけ点けて、その眩しさに慌てて消した。懐中電灯を構えて足元を照らしながら部屋の隅々を探る。部屋の片隅に小さく盛られた白い粉末に気付き、それが何なのかも分からないまま怒りに任せて蹴散らすと、その傍に倒れている棚を起こして中身を凝視した。この部屋の何処かにあるのは間違い無い。問題はこれ以上何者かにこの場を探られる事だ。
 再審が決まった際に担当判事が現場の再調査を指示したようで、昨日も憲兵が医務室で実況見分を行っていたとの話を耳にしてから気が気では無い。これ以上医務室を調べられて万一『あれ』が誰かの手に渡るような事があっては全てが水泡に帰す。
 隣の倉庫へ踏み込み、積み上げられた木箱を見上げる。雑巾から弾薬まで様々な備品が詰まっている。懐中電灯を片手に一つ一つを入念に改めていると微かな音が耳を擽った。カタカタと棚が小刻みに震動している。虫でも潜んでいるのかと其方へ灯りを向けるも、それらしい影は見えない。
 疑問に思いつつ元の作業に戻ろうとして、今度は別の異変に気が付いた。
 足の脛に光を向けるとズボンの一部が鋏で刻んだように真っ直ぐに裂かれていた。何処かで引っ掛けたか。気にせず作業に戻ろうとして手が止まった。ズボンの傷と、その向こうに見える床の傷痕が重なる。
 ――怪奇。
 頭を振って冷汗を振り落とす。下らない妄想に悩んでいる暇は無い。
 点滅する懐中電灯を握り締め、もどかしい気分で乱雑に箱の蓋を開けては落胆する。それを何度か繰り返していると、突然ふっと完全に消灯して視界が闇に落ちた。確認する箱もいよいよ最後の一つに迫ろうとしていた矢先の事だった。
 電灯の尻を何度も叩いて最後の力を絞り出させ、祈るような思いで箱の中を再度覗き込む。
 カタカタ、カタカタ。
 目ぼしい物は見当たらない。期待を込めていただけに絶望も酷く、彼は箱を蹴り飛ばした。
 全ては見当違いだった、そんな最悪の事態が脳裏を掠める。何の為に此処までやって来たのか。憤怒と絶望を拳に込めて木箱を殴りつける。
 ガタガタ、ガタガタ。
 最早形振りなど構わずに備品を踏み荒らし、適当に見繕った箱をひっくり返した。乾燥しきった眼を見開いて荒れ地を彷徨う獅子の如く薄闇を掻き分ける。その原動力となっているのは意地と執念だった。未だ眼前に姿を見せない財宝への焦燥と比例して欲望はぶくぶくと膨らんで行く。
 懐中電灯を取り落とし、視界は再び黒に支配される。何が在ろうと後戻りをする心算は無い、そんな固い決心を指先に込めて闇雲を探っていると、ふと、右の頬に針で刺すような痛みを感じた。
 なぞってみると汗とも涙とも判別の付かない生温い液体が指を濡らしていて、試しにそれを舌で舐め取ると錆びた臭いが喉から鼻先まですうっと駆け抜けた。
 頭に上っていた血が引いて行った。
 生温い風が頬を撫でた。拭えども拭えども液体は次々に緩やかな線を描いて肌を滑る。
 ガタガタガタガタ!
 光源の無い暗闇の中で床や棚や天井といった四方八方から不気味な震動音が聞こえて来る。先程まで宝探しに夢中で気が付かなかったが、改めて部屋の方へ意識を向けて己が異常な環境に追いやられている事を察した。
 恐怖と緊張が愈々極限を迎えようとしていた。
「誰か居るのか!」
 激しい動悸に身体を突き動かされ、上ずった声で闇に問い掛けると――、

 チリン

 ニコは眼前に掲げていた扇子を下ろした。
 闇に包まれた医務室の周辺に微かに穢れが漂っていると言う。廊下の備え付けの懐中電灯が見当たらないので確認する術も無く、渋谷にはただ暗闇が広がっているばかりのように見えるが、少年探偵の双眸は確りとその這い寄る気配を捉えている。
 兎にも角にも明かりが無ければと引き返そうとして、ニコに腕を掴まれた。
 けたたましい足音と共に小さな光が医務室から飛び出して来た。
 闇に慣れて来た眼に突如照明を向けられ、渋谷は顔を逸らして瞼を閉じた。手で視界を遮りながら恐々と指の隙間から光の向こう側を窺おうとしてその足元に滴り落ちる液体に気付く。
 渦中の人物は懐中電灯を下へ傾けると、片方の拳で出血を拭った。
 その顔は懐かしい友人の物だった。口元は笑っているのに眼は空虚を見詰めている。宛ら能面である。愛想笑いとも嘲笑とも言えない少年の笑顔とその身に纏わり付く穢れが、これまで積み上げて来た推理が、真実か、或いはそれに限りなく近いのだと囁いていた。
 小林が一歩を踏み出すとニコが扇子を広げてその行く手を阻んだ。
 小林は驚いたように瞠目し、腕を組んで扇子で左肩をトントンと叩いている余裕顔の少年を髪の毛先から靴の爪先まで凝視した。暗がりに映える青い髪、青い眼、帝國人離れした整った顔立ち――その情報に覚えがあるのか小林は眉根を寄せて「怪奇探偵か」と呟いた。
「此処は立入禁止の筈だが?」
「忘れ物を取りに来ただけだ」
 ニコの問いに小林はそう言い放ち、若干の冷静を取り戻したのか一旦引き返して扉を慎重に施錠した。その足元にはらりと落ちたのは式神だ。それを踏み躙り、ニコに肩をぶつけて強引にこの場を突破しようとする小林を今度は渋谷が押し留める。
「その頬の傷はどうしたんだ。もしや怪奇が出たのか?」
 小林の顔が間近に迫った。頬骨から唇の端に掛けて直線に切れた傷を何度も拭った痕跡があり、その上からまた新しい血が汗のように流れている。息遣いすら聞こえる距離で見る友人の眼は赤く血走っていた。その異常性を察した渋谷は小林の肩を掴んだまま距離を取った。
 小林は焦点の定まらない瞳を渋谷の方へ向けた。
「怪奇。お前まだそんな戯言を」
 腕を大きく振って渋谷の手を落とし、腹の底に響くような低い声で囁く。
「もう諦めろよ、お前は殺人鬼として裁かれる運命にあるんだ。潔く死を迎えてこそ帝國男児と云うだろう。命惜しさに与太話を吐くなど恥だと思わないのか」
 あの法廷でも感じなかった熾烈な憎悪を叩きつけられて渋谷の胸で鼓動が一つ大きく跳ねた。嘗ての友はもう居ない。失ってしまったのか或いは初めから居なかったのかは今となっては分からないが、少なくとも今の小林に友情の念は一切感じられない。
 口を噤んで視線を落とす渋谷に小林は満足そうに笑みを浮かべた。閉ざされた医務室の扉を見詰めるニコの横顔を一瞥し、改めて階段を目指す。その小林の肩を強く掴む手があった。
 渋谷は鋭い眼差しで小林の後頭部を睨んだ。
「今の口ぶりだと、怪奇などこの世に存在しないと、そう思っているのか」
 肩に渋谷の指が食い込む。小林は振り向かず吐き棄てるように一笑した。
「俺は生涯で一度たりともそのトチ狂った宗教を信じた覚えは無いぜ」
 その声色が渋谷に対する真情を物語っていた。
 俯く渋谷だが、どんなに小林が嫌がろうと手はけして離さなかった。現実を突きつけられて悲嘆に暮れている暇など無い。何としても喰らい付かねば。
「その言い分はおかしい。怪奇に襲われたと言ったのはお前だろう」
 小林の動きがぴたりと止まる。
「何を莫迦な事を」
「あの日、医務室で怪奇に遭遇して腕を負傷した。違うのか?」
 教官達と口裏を合わせて隠蔽した小林本人の言葉だ。
 余裕の表情で怪奇探偵達を侮蔑していた小林から感情が消える。口止めを強要した相手が吐いたのだと悟るまで然程の時間は掛からなかった。
 渋谷は再度小林の前に立ちはだかった。
「どうして嘘を吐いたんだ! お前は本当に埋蔵金なんてモノの為に――」
 能面が般若に豹変する瞬間を目撃した。
 一つ瞬いた直後に渋谷は片手で胸倉を掴まれ、壁に押し付けられていた。充血した両目が鼻先に迫り、呼吸を忘れて小林の眼球で蠢く血管を見詰める。
「証言が少し違っていたから何だ。周りの皆はお前に死ねと言っているぞ、署名が一体幾ら集まったと思う? 瑣末な命が一つ消えるだけで全てが収まるのだから安いものだろう」
 小林の口から穢れを纏った言葉が発せられる。まるで首を絞められているかのような圧迫感に渋谷は激しく咳き込んだ。互いの息が肌に触れるほどの至近距離から穢れを浴びせられ、目を開けていられない。
 愈々息が苦しくなって渋谷がもがき始めた時、すっと傍らから扇子が伸びて小林の指先を叩いた。
 転がる鈴の音に両者の力が緩む。苦悶から解放された渋谷はその場に膝を折って咽た。
「君の証言一つで状況はがらりと変わる。だからこそ捏造したのだ」
 凛とした声に吸い寄せられるように小林の視線がニコへ向く。
「あの時、君には自由な時間があった。その時間に君が何を為したかによって全てが引っくり返る。君も帝國男児ならば潔く真実を語りたまえ」
 ニコの冷静な言葉に小林は再び険しい顔になった。子供のくせに全てを知り尽くしているような物言いが気に入らない。強い自尊心を持つ彼は自分より下だと思っている人間の生意気な発言を何よりも嫌悪している。
 ニコはそんな小林に背を向け、靴跡が付いた式神を拾い上げた。頭頂から心臓部分に掛けて亀裂が入っているのを最後まで破り切る。左右に分かたれた式神は見えない炎に燃やされるように宙に消え、同時に、渋谷の手にあった印も溶けるように消滅した。
 閉ざされた医務室の扉が僅かに震えている。向こう側を透視するように睨みながらニコが扇子の鈴を鳴らすと、闇に蠢く何かは一先ず息を潜めた。
 小林はニコの様子から何かを察したのか、
「仕方が無かったんだ。本当の事を言ったら俺が白い目で見られてしまう」
 と、仰々しい素振りで語った。
 ニコも、汗を滲ませながら身体を起こした渋谷も、揃って小林を注視した。
「じゃあ本当に怪奇に遭遇したのか?」
 渋谷が訊ねると、小林はニコの方を向いたまま一つ頷いた。
 小林は怪奇の姿こそ見ていないが腕に軽く怪我を負った。その鋭利な傷を見た瞬間に先日の負傷事件を思い出し、慌てて医務室を出たのだと言う。教官達に応援を呼ぶように頼んでそれが来るのを待っていると、奥の倉庫からサーベル刀を所持した血まみれの渋谷が出て来た。きっとあの渋谷が怪奇を操ったのだ、ああ殺される。腰を抜かした小林は、松山と共に廊下の片隅に身を隠してやり過ごしていた。
「違う!」 と渋谷が絶叫する。
「お前は俺を気絶させて凶器を握らせたんだ、俺を犯人に仕立て上げる為に!」
 一瞬小林は大きく目を見開いたが、すぐに歪んだ笑顔に戻った。
「その証拠は」
 教官が目撃した刀の持ち方に関する情報を伝えるが、勘違いの一言で一蹴された。
「俺も松山も確かに凶器を持った渋谷が倉庫から出て来るのを見たんだ。それが嘘だと言うなら明確な証拠を用意してみせろ。俺は医務室に入った直後に負傷して外に転がり出たのだから、偽装など出来る筈が無い。松山と合流してからは奴とずっと一緒だったから松山にも聞いてみるといい」
 松山は小林側の人間だ。結託しているならば松山の証言は共犯者の物として信用には値しない。然し、違和感があれど凶器を所持した渋谷の姿を教官達や警官が目撃しているからには、どのみち証拠が無ければ小林と松山の証言を覆すのは難しい。
 嘲弄するように眼前で小首を傾げられ、渋谷は唇を噛んだ。物的証拠は無いものの、これまで集めた証言と状況は小林の疑惑を訴えている。だがこの調子では最後まで証拠の有無を盾に逃げられてしまう。
 ニコは手帳を開いた。
「君は怪奇に襲われたから応援を呼ぶよう教官達に指示をした。先程も君自身がそのように語ってくれた。教官達の証言と君の発言に偽りが無ければ、つまるところ君は怪奇の存在を認める事になる。そうすると僕にも専門家として口出しをする権利が在ると思うのだがね」
 小林の顔色が変わった。
 小林が本当に怪奇に遭遇したのかという謎よりも焦点を当てたいのは、彼が怪奇の存在を認めるか否かである。認知するのであればニコは怪奇探偵として渋谷の他に犯行が可能だった存在として鎌鼬を挙げる事が出来る。裁判で隠蔽された遺体の傷の説明もつく上、鎌鼬の姿形は冴島も目撃している。小林がここで怪奇の存在を否定して自身の証言を撤回するならば、小林が教官達を騙していたのかという新たな疑惑が浮上する。
 顔色一つ変えないニコに小林は苛立ちながら返答の言葉を考えていたが、何かを思いついたのか、
「いやいや、今思えばあの傷も只の勘違いだったかも知れないな。何せ怪奇探偵君が此処で推理ショウを披露していたのが印象的でね。あの時はつい怪奇の仕業だと思ってしまったが、実は何かに引っ掛けただけだった。誰にでもよくある事だろう? 思い込みって奴さ」
 怪奇など矢張り存在しない、故に怪奇探偵の介入を許しはしない。小林はそう主張する。
 二転三転する小林の言葉に渋谷は困惑した。結局、彼がいかにして傷を負ったか、そもそも負傷した事が事実なのかすら有耶無耶になっている。
「若干の錯誤があった非は詫びる。俺も気が動転していたんだ。五つもの死体と鬼のような友人の姿を見てしまっては……。然しこうして白状したのだから赦してくれるよな」
 小林は調子を取り戻したのか芝居めいた口調で舌を振るった。
 ニコの瞳が小林の頬へと向く。穢れが息吹くその真新しい傷も偶然の産物だと答えるのだろう。
 踵を返してそれ以上の問答を拒絶する小林にニコはあっさりと身を引いた。最後に視界に入った小林の目は薄闇の中でぎらぎらと輝いていた。
 その時、階段の方から物音がした。
 冴島だ。憲兵の腕章を目にした小林は途端にその場に懐中電灯を放り出し、冴島の脇を一目散に駆け抜けて行った。懐中電灯は大きな音と共に部品を撒き散らしてついに事切れた。オイッと冴島が声を掛けるが小林の姿は瞬く間に光の中へと消えてしまった。
 立入禁止の医務室で何をしていたのか、本当に目的は埋蔵金なのか、小林自身の口から未だ真意を聞いていない。ここで逃げられては恐らくもう二度と彼と話をする機会は得られない。
 追い掛けようとする渋谷の腕をニコが掴む。
「焦るな。時を待て」
 思わずその手を振り払おうとしたがびくともしない。何かを確信したように不敵な笑みを浮かべているので、渋谷は力を抜いてぎこちなく頷いた。嫌な予感は拭えないが今は彼を信じるしかない。
 陽光が辛うじて届く階段の踊り場で三人は合流を果たした。冴島は一先ず自分を置いて勝手な行動を取った二人を叱りつけてから、十河の情報を記した覚書を口早に読み上げた。
 一つ、井川に関連する目撃談。情報提供者によると、井川失踪後、彼の家族に対し度々嫌がらせが行われていたとの事。住居への放火、中傷文書の投函、尋常小学校へ通う息子への暴行など。犯人不明。家族はそれから数度の引っ越しを行っている。
 二つ、鬼頭恒雄の遺体は発見後から家族に引き渡すまで最寄りの警察署が預かっていた。現在調査中。
 そして三つ。鬼頭は孤児支援制度の発案者で、該当する生徒の保護者、渋谷の場合だと旧志方邸孤児院の院長と定期的に連絡を取り合っていた。死亡する直前まで個人的に多少の寄付も行っていたようだ。
「この制度は導入の当初から、例の小林議員から廃止を要求されていたらしい」
 帝國軍学校は身分関係なく志願者に学びの門を開く理念を掲げて様々な制度を実施している。然しその中で、素性の知れない子供に入学を許すようなこの制度に対し、主に貴族会から非難の声が上がっていた。小林議員は今回の事件について、孤児である渋谷に入学を許した、延いては孤児支援制度を導入した学校側にも責任があると主張し、賛同を集めている。
 宛ら水を得た魚だとニコが鼻で嗤うも、渋谷は複雑な気分だった。今回の件で怪奇探偵連盟が槍玉に挙がっている話は耳にしているが、それと同じように自分の所為で学校や孤児院にまで被害が及んでしまうのは心苦しい。この勢いで制度が廃止されてしまっては、自分と同じような境遇の子供から選択肢を一つ奪ってしまう事になる。
「親父殿は息子の所業を何処まで知っているのだろうな」
 大久間判事が提出した署名は小林議員の主導で作成されていたので、少なくともこの二人は繋がりがある。然し、学校内で署名活動を行っていた息子が父と結託しているとは未だ断定出来ない。
 冴島がふと思い出したようにニコを見た。
「今のがその息子だろう。何か吐いたのか」
「ああ」と顎を撫でて何かを考えながらニコが頷く。
「何を」
「嘘を」
 その時、昇降口の方から怒声が飛んで来た。
 やけに騒々しい。また喧嘩でも起きたのかと三人が踊り場から顔を覗かせた瞬間、光の中から小さな影が一つ弾丸のように飛来して渋谷の額に命中した。
「殺人鬼が居るぞ!」
 大勢の学生が東棟に押し寄せていた。
 昇降口付近があっという間に埋め尽くされ、人の波が階段に迫る。伸び出た数多の手が、額を押さえてよろめく渋谷の、腕、髪、襟首、肩に纏わり付き、渦の中へと絡め取った。群衆に圧されて階段から転げ落ちそうになったニコを冴島が咄嗟に抱き留めた。
 渋谷を呑み込んだ波は校舎の外へと移動した。
 赤く染まり始める空の下、渋谷は砂地に引きずり出された。立ち上がろうとする彼の頭を誰かが足で踏み躙る。学生達がその塊を中心に円陣を作り、砂埃の中で咳き込む渋谷を一斉に見下ろした。
「天下を堂々と出歩くとは良いご身分だな」
 頭に降り注ぐ懐かしい声に驚いていると、腹を蹴飛ばされて世界がぐるぐると回った。視界に入った学生達は能面を被っていた。同級生も、上級生も、下級生も、見知った顔も、見覚えの無い顔も、誰もが感情の無い瞳で渋谷をじっと見詰めていた。
 誰かが雄叫びをあげた。それを皮切りに喚声が湧いた。
 身を起こそうとしていた渋谷は脳天に衝撃を受けて再び地面に叩き付けられた。揺蕩う意識の中、仰向けになった自分に跨り大きな拳を振り下ろそうとする松山の狂気の笑顔が見えた。
 授業中であるにも関わらず、窓から身を乗り出して罵声を飛ばす学生も居れば、騒ぎを間近で見ようとやって来る野次馬も居た。何事かと駆け付けた教官と警備員は狂った熱気を帯びた青少年達の渦に圧倒されていた。
 冴島は強引に波を抉じ開けた。
 標的に命中すれば少将、出血させたら大将だと学生達は競って石や文房具を投げた。或いは犬をけしかけるように手拍子をした。頭を割ってしまえ、鼻をへし折れ、急所を潰せ、処刑だ処刑だと、穢れた呪いの言葉が校庭を支配する。
 漸く中心部に到達した冴島は地面に飛び散る鮮血に息を呑んだ。自分と似た体躯の少年が振るう拳は岩石そのもので、その面はインクのような赤い液体に染まっていた。引き剥がそうとすると忌々しそうに抵抗して来るので冴島は容赦なくその頬に鉄拳を叩き込んだ。
 松山の身体が宙を舞って波の中に沈み、ぴたりと声が止んだ。
 冷たい風が静けさの中を駆け抜ける。冴島はズボンのポケットから手拭いを引っ張り出して渋谷の鼻に押し当てた。その顔は原型を留めない程に腫れ上がり鼻血が肌を覆い尽くしていた。拳と石を浴びた身体には彼方此方に小さな切り傷が出来ており、冴島もかつて目撃したあの死体を彷彿とさせた。
「オイッ、誰か傷薬を!」
 頭を揺らさないように渋谷を抱き起し、周囲を見渡す。そして眼前に連なる学生達の人形のような顔に冴島は言葉に詰まった。学生達は皆一様に、血塗れの芋虫のような渋谷を白眼視している。
「……帰りましょう。時間切れです。此処に居ちゃいけない」
 冷静な声がして冴島は渋谷の顔を覗き込んだ。
 この様子を今も何処かで観察しているであろう小林が、実況見分中の憲兵が容疑者に自由を与えていた事を父親に報告する可能性が高い。ただでさえ批判が多い中での捜査だ。またお得意の署名活動をされては冴島や手塚の立場が更に危うくなる。これ以上、彼らに餌を与えてはいけない。
 冴島は苦渋の面持ちで渋谷に手錠を掛け、その頭に自分の上着を羽織らせた。
 五時の鐘の音が響き渡り、憑き物が落ちたように少年達は目を泳がせて道を開いた。
 冴島に支えられながら歩いていた渋谷は上着の隙間から周囲を覗き、渦巻く穢れの向こうに青い眼を見つけると、それに向けて小さく一礼をした。
 渋谷と冴島の影法師が鐘の最後の音と共に彼方へと消える。
 校門の物陰で一連の様子を目撃していた十河は渋谷と冴島を複雑な顔で見送った。その腕章に気付いた学生達は追及を恐れ、何事も無かったかのように日常へと戻った。
 勝利を確信した誰かが喉の奥で嗤っている。赤い痕跡が踏み荒らされ砂埃に塗れて行く。
 白い指が伸びて砂の雫を一つ摘まみ上げた。
 その存在に気付いた学生が訝しそうに小柄な背中を見詰めた。それにつられて足を留める者が二人、三人と増える。深く被った帽子の下で朱と青が混じった不思議な色の瞳が物憂げに輝き、それは彼の手の平に転がる赤い涙に注がれていた。
 ニコは拳を握り締めると、黒い外套を翻して立ち上がった。

– – – – –

 寒い夜半の監獄に革靴の音が響く。
 同行した看守に席を外すように言うと、訪問者は手にしていた革の鞄を地面に置き、鉄格子の正面に腰を下ろした。
 格子の向こうに広がる暗闇では襤褸姿の少年が同じように正座して瞑想に耽っている。膝の手前には食事が用意されているが手を付けた形跡は無い。赤く腫れ上がった顔はそのままに、襤褸から覗く手足の其処彼処に痣が出来ていた。
 来訪者の存在に気付いた渋谷は微笑んで深く頭を下げた。
 手塚はその悠然とした所作に驚いていたが、やがて合点したように頷いた。あまり言葉は交わさなかったが、彼とは一度、裁判の直前に硝子越しに邂逅を果たしている。
「痛みますか」
 剥き出しになった傷痕を見て手塚が訊ねる。軍学校での騒ぎは既に彼らの耳にも入っていた。
「これでも一応鍛えていますから」
 痛みを堪えて苦笑しながら答えると、手塚もいつもの調子に戻った。明日の午前中は再審の準備で殆ど身動きが封じられる。こうして対面して言葉を交わすのもこれが最後になるかも知れない。
 渋谷は胸の内で一つ覚悟をしていた。
 もう一人の方は未だ希望を抱いているようだが、自分としては矢張り明日の判決は死刑が濃厚だと考えている。小林の様子を見るに自ら罪を認めるような真似はしないだろう。この事件の肝となるのは小林の嘘を暴く事だ。彼が現場を偽装し渋谷を犯人に仕立て上げたと自白する事と怪奇による凶行を判事達に証明しなければならない。然し現状は、前者は絶望的であり後者についても困難だと思われる。
 だが、自分の目的は無罪を勝ち取る事では無い。明日の結果がどうであれ悲願が果たせるのであればそれで良い。己の力不足で結局他人任せになってしまった事だけが悔やまれるが、あの少年探偵なら必ず怪奇を祓ってくれるだろう。
「判事殿に御礼が言いたかったんです。貴方が彼と手を組んで下さった事が何よりの救いとなりました」
 渋谷は掌を地に突いて慇懃に頭を下げた。色々と本音の分からない男だが、その笑顔の裏で真相究明の為に奔走している事は伝わって来る。
「手を組んだ」と手塚が首を傾げるので、
「ニコ君ですよ。法廷に嗾けたのだとか」
「私は電報を送っただけですが」
 渋谷と同じように笑う彼は矢張り腹の内を明かさない。
 電報は個人的な物だとしても、公平中立を謳う存在でありながら怪奇探偵と言う特殊な人間に捜査に加わるよう指示した事、監視役付きだとしても渋谷を一時的に自由の身にしていた事に関しては多方面から非難があった筈だ。たとえ無罪判決となっても『判事が怪奇探偵に与したのだ』と言われ続けるだろう。渋谷は漸く思い出した。有罪が決まれば、危ない橋を渡ってまで真実を追究せんとした彼も罰せられるのだ。
 手塚が優しい声で渋谷を呼んだ。
「我々は怪奇を裁く事が出来ません。あれを人の法で扱ってはならないのです」
 眼差しは柔らかいが言葉に澱みが無い。渋谷は黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「然し、それが関わっている可能性が少しでも在るならば徹底的に調査するべきです。怪奇探偵を捜査に加えるなど世間からは理解を得られないでしょう、けれど、冤罪を生み出してしまうよりずっと良い。真実が思想の波に覆されてしまうような事態を、私は何よりも怖ろしく思っています」
 初審は正しく悪夢のようだったと手塚は語る。
「己の無罪を信じているならば、どうか最後までその主張を貫き通す覚悟で居て下さい。……『君』では無い可能性も御座いましたね?」
 渋谷は目を伏せて頷いた。経験則からすると『彼』である可能性が高い。そして彼の意識が目覚めたら自分は内に閉じ込められてしまう。本来ならば明日の再審も自分が出ておきたいところだが此方ではどうにも制御が出来ない。彼にこれ以上の悲しみを背負わせたくは無い、出来るなら自分の中で安らかに眠ったままでいて欲しいのだが。
 腕の打撲傷を撫でて慰める。傷を負うのはいつも彼で、自分にはその心の痛みが伝わって来るだけだ。彼が辛い目に遭って泣き疲れて眠ってしまった後に自分が慰める、子供の頃から役割は決まっている。
 手塚が微笑ましくその様子を見守っている。視線に気付いた渋谷は照れくさそうに後ろ頭を掻いた。
「俺に何か用件があったのでは?」
 腹時計が正確なら夜も更けて来ている頃だ。
 手塚は思い出したように傍らに置いた鞄から一枚の紙を取り出した。
「君にもご報告をと思いまして。鬼頭殿のご遺体を一時預かっていた警察署に連絡を取ってみたところ、覚書程度の物ではありますが死体見分の記録が残されて居りました」
 険しい表情の手塚の言葉に渋谷は嫌な予感を覚えながら、身を乗り出して格子の隙間から所見図を確認した。人体を模った絵に幾つか書き込みがある。
 胸部に貫通銃創と挫滅輪、その周辺の皮膚に裂傷。頭部に打撲痕が一つ。足、背中、腕などの数箇所に指一本分程度の寸尺の小さな切り傷。上着胸ポケットに医務室の鍵。
「もしやこの傷は……」
 小規模だが、負傷事件の際に学生達が負った傷と形状が良く似ている。
 ――鬼頭教官は怪奇に遭遇したのか?
 鬼頭の死は負傷事件にて自分が怪奇を降伏した後の出来事だ。不完全な浄化だったとしても一時期は確かに怪奇の気配は消滅した。然し死体見分に記録されている小さな傷は偶然の産物と言うには一連の傷痕に酷似している。これは古傷でも日常生活で負った傷でも無い。
 ニコにこの事を伝えなければ。
 そう思って手塚の方を見た時、空洞に鉄扉の開閉音が反響した。荒々しい足音を鳴らして姿を現したのは大久間判事だった。
 渋谷は感情を消して彼を仰ぎ見た。大久間はそれには一瞥するだけで爪先で座す手塚を見下ろした。
「君の今後について話が在る」
 獲物を仕留めたような得意顔だ。渋谷は思わず膝を崩して身を乗り出すも手塚の視線に制された。
「奇遇で御座いますね、私もです」
 手塚はそう言って書類を鞄に仕舞い、腰を上げた。
 大久間は含み笑いをして無言で道を開ける。先に行くように促されて手塚は素直に従った。
「判事殿!」と渋谷は鉄格子を掴んで手塚の背中に声を掛けた。
 手塚は振り返って大久間に悟られないように小さく頷くと、
「確りと英気を養って下さいませ。ではご機嫌よう」
 胸に手を当てて恭しく一礼をして、軽快な音を鳴らして行ってしまった。
 後に残るのはせせら笑う判事のみである。彼は鉄格子の隙間から暗がりの内装を隅から隅まで見渡すと大袈裟に両肩を上げた。
「その怪我は鎌鼬とやらの仕業かね。一度会ってみたいものだよ」
 影が笑い声を連れて視界から消える。渋谷は冷たい鉄格子を掴んだまま、彼らの気配が失せるまでその姿勢を崩さなかった。そして少し前まで死刑を意識していた己を強く罰した。自分だけは『彼』の味方で在りたいと思っていたのに、他でもないその自分が、生きようともがいている彼の足を引っ張ってしまった。
 自分達の未来を最後まで諦めてはいけない。
 重たい扉は二つの足音を吸い込んで静かに閉じられた。
 無音の中、渋谷は強張った関節を緩めて鉄格子から離れた。足の親指が硬い感触に触れて慌てて飛び退く。すっかり冷め切った食事を前に、思い出したように腹の音が鳴った。
 茣蓙の上に腰を下ろして少ない光源を頼りに皿へ手を伸ばす。食前の祈りを捧げて箸を運び、独房の冷気を吸った食事を体内に取り込んで活力の熱へと変える。
 黙々と咀嚼をしていた時、ふと、手の甲に落ちる物に気が付いた。
 赤く腫れた皮膚を小さな水滴が濡らして行く。
 ポケットの中の御守りが熱を帯びている。その鈴の音を指先で鳴らして、すすり泣く鼓動を鎮める。そして最後の熱い雫を睫毛から振り落とすと、渋谷は少し塩気を増した汁物を呷るように飲み干した。

– – – – –

 その日は明け方から雲行きが怪しく、学生達が校門を超える頃には雨粒が落ちるようになっていた。早朝の演習授業は悪天候を予感して全て取り止めとなり、校庭は閑散としている。昨日この場であった出来事が学生達の心に残っているのか、彼らは其処を避けて足早に校舎へと急いでいた。
 彼の名を語れば教官から睨まれる。誰もが本日の再審を気にしていながら口を噤んだ。
 早朝の清掃活動を終えた学生が、数日分の塵が入った大きな麻袋を抱えて東棟の裏手へ向かった。そこでは苛立った様子の用務員が忙しなく箒を動かしていた。何事かと尋ねてみると、先週から置いてあった塵袋を何者かに荒らされた形跡が在るのだと言う。確かに、十ほどある袋の口の紐が全て解かれて炉の周辺に中身が散乱しているので、学生は持って来た袋を脇に置いて彼を手伝った。
 視界は徐々に暗さを増して行く。雨の粒が嵩を増して肌を打つ。
 人の気配がすっかり消えてしまった霧の庭を二つの影が静かに過ぎった。

 一人はその話を耳にした時、初めは提案者を制止した。今は動くべき時では無いと自分にしては聡明な言葉を吐き、もう諦めるべきでは無いかと提案した。だが全て一蹴されてしまった。
 登校した彼らの耳に入って来たのは、本日医務室に大規模な捜査が入るという情報だった。医務室の何処かに多額の金銭が眠っているとの話が上がり、殺人事件とは別の盗難事件として捜査が行われるらしい。これを聞いた彼らは断念と執念の間で揺れ、片方は前者に傾いて白旗を揚げようとしたが、もう片方は異なる方を選択した。捜査が始まるのは昼前だと言う。未だ間に合う。
 彼の瞳に宿る異常性に慄いた相棒は、俺は降りるぞと言い掛けたのを慌てて呑み込んだ。埋蔵金に対する情熱は当初よりも失われていたが、有無を言わさぬ狂気がこの舞台からの退場を許してくれない。
 幸いにも鍵は手中に在る。それに警備員の姿も見えない。
 激しさを増す雨音を背に、別の教室から拝借した真新しい懐中電灯を手に二人は再び惨劇の現場へと赴いた。
 倉庫は昨日から時が経過していないようで足の踏み場も無い。
「なあおい、俺はもう疲れたよ。それに、もし本当に渋谷が死刑になったら……」
 吐露した言葉は彼の本心だった。
 それを言った途端、箱の山に向けられていた電灯が委縮した巨体を照らしあげた。
「人を砂袋のように蹂躙した狂人の台詞とは思えないな。ああそうさ、俺達は渋谷を罪人に仕立て上げ、奴は俺達の所為で死ぬ。だがそれがどうした」
 血走った眼が迫って来る。歪んだ口から語られた言葉に松山は呆気に取られてしまった。
 ――裏切ったらどうなるか分かっているんだろうな?
 気絶した渋谷を前に二人の間で交わされた盟約を思い出す。この騒ぎを利用して財宝を二人だけで山分けする、その話を持ち掛けられた時は松山も心が躍った。数十人では無い、たったの二人で分配するなら如何程の手取りとなるのだろう。彼の言いつけを守るだけで大金が手に入るのだからこれほど楽な事は無い。その時は特に深い事は考えず言われる儘に動いた。
 然し、自分よりも大柄な憲兵の、あの脳天を粉砕するような拳を顔面に喰らった時、霧が晴れたように我に返った。群衆に混じっていた小林が、血塗れの渋谷を嘲笑しながらぽつりと「よくやった」と呟いていた。目的の為ならかつての友人の死も厭わず父親すらも利用する小林に松山は恐怖を覚えてしまったのだ。
 もしや自分はとんでもない奴と手を組んでしまったのでは無いか。
 金などいつか消えて無くなるが、無実の人間を処刑台まで追い込んだ事実は未来永劫消えない。小林には親父がついているし当人も頭が切れるので、今後一生付き纏うであろう黒い影も簡単にあしらうだろう。だが自分はどうだろう。小林がいつまでもこの同盟を守る保障など何処にも無い。
 小林は鼻を鳴らして視線を元に戻した。
「あの手紙を見たから連中は此処へ来た。必ず在るんだ、この何処かに」
 箱の中身も棚の内容も全て改めた。隠し扉でも在るのだろうかと小林は四方の壁面に張り付いた。
 カタカタ、カタカタ。
 息苦しさを覚えた松山は頻りに辺りを見渡した。喉が圧迫されたように呼吸が上手く出来ない。
 部屋の異変に興味を示さない小林は壁から床へ標的を移し、懐中電灯で木目を舐め回している。
 我慢の限界を迎えた松山が、おいと小林の背中に声を掛けた瞬間、小林が松山の方をぐるりと振り向いて歯を剥き出しにして笑った。大きく見開かれた目は焦点が合わず震えている。化け物でも見たかのように松山が硬直していると小林は懐中電灯で目的の場所を照らした。板に小さな鍵穴が付いている。目を凝らすと鍵穴の周囲に薄っすらと正方形の線が入っていた。
 床下収納庫だ。
 小林の高笑いが乾いた静けさを突き破る。松山も屈んで床板に縋り付いた。風前の灯だった欲望が恐怖を凌駕して燃え盛った。この床板一枚を除けば財宝が手に入るのだ。
 鍵が見当たらないので得意の拳で何度も板を殴り付けた。皮膚が破れるまで続けてもびくともしない板に苛立ちを覚え、爪を立ててがりがりと木目を削る。そして微動だにしない小さな扉に愈々正気を失って狂ったように血塗れの拳を叩き込んだ時、松山の頬に激痛が走った。
 松山の血を啜ったサーベル刀が鍵穴の真横に突き立てられていた。
 切り裂かれた頬を押さえて飛び退く松山を見て小林がにやりと笑った。怯える大男を部屋の片隅に追いやって、その刃先を再び足元の収納庫へと向ける。鍵穴の周辺は先人達による攻撃の痕跡が僅かに残っているので、それに倣って彼は髪を振り乱して鍵を攻撃した。
 床板の破片が飛び散った。
「分け前は半分だ。分かっているんだろうな」
 そう念を押した松山の鼻先に小林は赤く染まった剣先を突き付けた。
「大した仕事もせず半分も貰えると思って居るのか、この役立たずめ」
 小林の腹の内を悟った松山の顔が歪んだ。
「憲兵に全てバラしても良いんだぞ!」
「なら俺も語ってやろう。果たして憲兵とやらはお前とこの俺、何方の言葉を信じるかな。まあそう怒らずとも駄賃に一割くらいならくれてやるさ」
 腹の底から込み上げて来た黒い感情が一瞬で自我を呑み込んだ。松山は雄叫びをあげ、衝動に身を任せて両腕を小林の頭上に振り上げた。体格なら自分に利がある。
 砲丸のようなそれを避けた小林は躊躇い無くサーベル刀で斬り掛かった。
 地面に転がった懐中電灯に赤い雨が降り注ぎ、薄闇の中で二頭の獣が雄叫びを上げた。
 肩を負傷した松山は怒りに痛みも我をも忘れて小林に殴り掛かった。一発を腹に受けた小林は壁を背に受け身を取りつつ倉庫から転がり出し、自分を追って来る巨体に二つ目の傷を喰らわせる。攻防を繰り返しているうちに小林は松山の蹴りに武器を弾かれた。
 あれは俺の物だ、いや俺の物だと一歩も譲らず、互いに胸倉を掴んで揉み合った。
 流石の小林も自分より遙かに大柄な相手に苦心していた。目の前の獣は憑り付かれたように怒り狂って牙を剥く。渋谷は実技試験でこの松山と並ぶ成績だったと言う。あの軟弱な渋谷如きと互角なのだから松山も図体だけで大した力は無いのだと思い込んでいた。
 小林は松山の眼に唾を吐き掛け、その隙を突いてサーベル刀を拾った。
 裏切り者め。黙らせてやる!
 呻き声がする方へ向かって刀を大きく振り上げたその時――天井で硝子が砕け散る音がして、細かく鋭い破片が二人の頭上で舞った。天井の白熱電球が割れたのだと知るまで暫しの時間が掛かった。
 床に転がる懐中電灯の光が部屋を照らす。突然の破裂音に両者は縛られたように動けなくなった。
 何かが部屋中を駆けずり回っている。旋風が四方八方の空気を切り裂き、サーベル刀を持つ小林の手を穿ち、壁に手を突いて立ち上がった松山の足を払った。身体の均衡を保つ事すら出来なくなった二人はその場に尻餅を突いた。
 少年達の絶叫はギィィィと言う更に甲高い咆哮に遮られた。
 ぽつぽつと闇の中に淡く青く光る炎が浮かび上がり、それに包まれた生首が宙をのたうち回って金切り声を上げる。乾いた部屋が、電気を帯びた空気が、身悶えするように小刻みに震動する。硝子を引っ掻くような声に二人は耳を塞いで壁際に身を寄せた。
 小林は咄嗟にサーベル刀の方へ手を伸ばしたが、微かな風を指先に受けて激痛に悶えた。ぱっくりと割れた爪の下から血が吹き出している。サーベル刀が悲鳴を上げて跳ねるので見てみると刀身がくの字に拉げていた。その先の床には真新しく出来た直線の傷がある。一見すると刀剣による物に思えるが小林はその形に覚えがあり、思わず己の頬の瘡蓋を撫でた。
 歪んだ二つの鎌が浮かびあがり、血のように赤い眼球が真っ直ぐに獲物を捉える。
「や、やめろ、来るなッ!」
 獣達の絶叫が穢れの海にこだまする中、チリンと一つの音が波紋となって広がった。

「切っ掛けはおよそ半年前」

 眼前の獲物を引き裂かんと腕を振り上げていた鎌鼬の動きが止まる。湾曲した鎌には式神が幾重にも巻き付いていた。
「今まさに君達が繰り広げていた争いと同じ事が起こった。六名の教職員が横領していた学校の資金を巡り、一名と五名で意見が割れたのだ。結果、一名は五名の手によって屠られた。凶器はサーベル刀、且つ心臓を中心に攻撃したと思われる。かつての仲間達からの仕打ちを酷く恨んだ彼は怪奇と化して医務室に憑り付いた」
 束縛を破ろうともがき苦しむ鎌鼬を中心に突風が巻き起こった。穢れの風が硝子の破片を弄ぶ。地面に横たわるサーベル刀が命を得たようにぐるぐると回り、腰を抜かしたままの小林と松山に刃先を向けて鉄砲玉の如く飛び出した。
 ニコは懐から数枚の式神を取り出して二人に向けて放った。式神が二人をぐるりと取り囲み、迫り来るサーベル刀を弾き飛ばす。ニコが中指と人差し指を立てて上から下へと切ると宙を漂っていた式神が地面に張り付き、紙面に描かれていたまじないの印が一斉に発動した。彼らを目掛けて降り注いだ硝子の雨が、式神のまじないが織り成す透明の結界に衝突して激しく飛散した。
「五名の教官は裏切り者の死体を東棟校舎裏の焼却炉で燃やした。深夜、寮の学生達も寝静まる頃に。――然し此の時生じた小火を目撃してしまった人間が居た」
 鬼火達が奇声を上げてニコへ襲い掛かり、彼は舞うように外套を翻してそれらを避けた。
「鬼頭もその一人だった。小火に不審を抱いた彼は独自に調査を進め、その過程である物を入手した」
 そう言って小林と松山に見えるように差し出したのは鬼頭の部屋で発見した鍵だ。二人はそれを見てあっと声をあげた。
 鍵に守られた物を巡って争いが生まれ、一人が絶命した。鍵に血の痕跡が残っている事から、殺人があった際に被害者自身が所持していたと思われる。殺人鬼の手に渡らずに鬼頭が所持していたのだから鍵が落ちていた場所も選択肢が限られてくる。可能性が高いのは塵が密集する焼却炉近辺だ。
 鬼頭はそれが何処の鍵なのかは知らず、然し何らかの事件に――当時職員室でも話題に挙がっていた盗難事件に――関与している鍵だと察して自室に隠した。彼もまた怪奇と因縁を持ってしまったのだ。
 鍵を見失った教官達は焦った。小林がしたように無理矢理収納庫を抉じ開けようと試行錯誤していたが、ここで予想だにしていない出来事が起こった。負傷事件である。彼らは自分達の罪の発覚を恐れ、東棟地下一階を封鎖して事態が収束を迎えるまで執念深く待った。
 彼らが再度沈黙を破った矢先、一月六日の深夜に再び事件が起こった。
「本来ならば立入禁止の筈の医務室に立ち入る者が居た。偶然か或いは必然か? 深夜の巡回に出掛けた鬼頭が、医務室で悪事を企む彼らと遭遇してしまったのだ。何らかの会話が交わされたのか、教官達は鬼頭の隙を突いて突発的に彼の頭を殴打した」
 頭部の傷痕は所見にも記録が残っている。鬼頭はこの時に死亡したか或いは気絶した。
 鬼頭が軍部と深い繋がりがある事、頻繁に誰かと連絡を取り合っている事を知っていた教官達は、もしや彼が自分達の犯罪を誰かに告発して居たのでは無いだろうかと怯えた。後に彼の部屋を漁って手紙の類を焼却炉で処分したのは小林の言う通り証拠隠滅が目的だが、実際は特に目ぼしい物は無く、手紙の内容は孤児院制度に纏わる物や、遠方に住む家族、軍人時代に世話になった人物との遣り取りが殆どだったと思われる。
 一度目と同じように鬼頭も処分してしまおう。そう決意をした彼らは鬼頭を拘束した状態で倉庫に隠し、怪しまれないように一旦その場を離れ、慎重に慎重を重ねて綿密な計画を立てた。
「渋谷の降伏により一度は力を失った怪奇だったが、まさにこの時、息を吹き返してしまったのだ」
 一月七日早朝、五人は再び医務室に集まった。そして異変に気付いた。
「教官達が目を離している間に鬼頭の死体は様変わりしていた。躰の彼方此方に切り傷があり、特に心臓付近の損傷が酷い。負傷事件に居合わせた一人は傷口を見て怪奇の仕業かと察したやも知れぬ」
 医務室の扉を開く唯一の鍵は勿論彼らの手中にあり、医務室に入室出来たのは彼らだけだった。
「何故事故死に偽装する必要があったのだ」
 小林と松山が驚いて医務室の入り口を見ると、頭に小型の懐中電灯を巻いた冴島が顔を覗かせた。
 鎌鼬が再び金切り声を上げるので、冴島は腰に提げていた軍刀の柄に手をやった。式神の束縛の隙間から鎌鼬が鎌を一つ薙ぎ、風の刃が冴島に襲い掛かる。応戦しようと鞘から刀身を抜いた冴島の眼前にニコが放った式神が立ちはだかり、衝撃波と式神が衝突して双方が散った。
「目撃者が居たからだ」
 ニコの言葉に、二人のうちの片方が動揺した。
「鬼頭の死体を目撃された彼らは、咄嗟に自分達を第一発見者として仕立て上げ、目撃者に『応援を呼べ』とでも言ってその場から追い払い、空白の時間を得た。殺人事件として本格的に捜査をされてはいずれ自分達が重ねた罪が暴かれ、人を殺めてまで守り抜いた財宝が他人の手に渡ってしまう……彼等は医務室が注目を浴びてしまう事を怖れた」
 警察の介入を最小限に留める方法は無いものだろうか、そう苦悩していた彼らに悪魔が救いの手を与えた。
「一月七日一限目、陸軍科一年生による銃の演習授業が行われていた」
 演習場で交差する発砲音は地下まで響いた。
「彼らは備品の銃を用いて彼の心臓を撃ち抜き、鬼頭の損傷した心臓に新たに銃創を作った。銃の暴発による事故死、或いは自殺に見えるように偽装したのだ」
 警察や遺族に対しても手回しを怠らなかった。彼の死を不服として捜査をされては偽装工作の意味が無い。結果として検視は行われず鬼頭は事故死として処理された。
「そして五人は鬼頭に関係する手紙の類を炉で処分した。その際にも小火が発生し、一端を目撃した用務員との間で一寸した会話が交わされた。この時、或る人物が二人のやり取りを陰で見ていた。例の『目撃者』が……相違あるまいな小林君」
 小林が大きく目を見開いてぶるぶると震え上がった。
「君は以前より埋蔵金に興味を持ち、あの五人と養護教諭が窃盗団では無いかと疑い、学生達にそれとなく噂を流して焚き付けていた。鬼頭の死の現場に居合わせた時も勿論五人に疑惑の目を向けた筈だ」
 今度こそ埋蔵金の在処を突き止めようと様々な手を試みたが彼らも口が堅い。そうして小林は業を煮やし、以前より計画を進めていたデモの決行を決意した。
「君は初めから埋蔵金を独り占めする心算で、仲間を出し抜いて独自に行動した。学生運動前夜、渋谷に会いに学校へ忍び込んだ君は翌日教官達が使用するであろう会議室に或る物を仕掛けた。彼らが必ず埋蔵金の元へ向かう呪文を記した手紙をね」
 懐から取り出したのは丸められた形跡がある一枚の紙だ。それに見覚えがある小林は更に恐怖に顔を歪ませた。紙には短い一文が綴られている。
 ――金ハ全テ頂戴シタ。
 会議室でこの手紙を発見した彼らはついに鍵を奪った人間が鍵穴の在処を突き止めたのだと思い、真偽を確かめられずには居られなくなり慌てて医務室へと向かった。手紙は焼却炉に届けられていた塵袋の中から発見された。筆跡鑑定をすれば小林の物だと判明するだろう。
「そして彼らは怪奇に命を奪われた」
 渋谷を医務室に送り出した後、小林はそれとなく教官達の行方を探っていた。その最中にデモは終焉を迎えた。負傷した松山と二名の教官と一旦合流を果たした小林だが、渋谷が戻らない事、東棟地下を未だ調べていない事に気が付いて彼らよりも一足先に医務室へ向かった。
「医務室で五名の死体を発見した君は既に怪奇に魅入られていたのだ。そして五名の教官達がそうしたように、医務室に深い捜査が入らないよう偽装を行った」
 知らない、と小林が震える声で叫んだ時、入り口を守っていた冴島を押し退けて誰かが絶叫した。
「その下らない茶番を止めろ!」
 小林はその予想外の人物を――父親を見るなり息を呑んだ。
 乱暴な足音を立てて部屋に押し入ろうとする小林議員に呼応して鎌鼬が雄叫びをあげ、壁が震動して罅が入った。冴島が慌てて彼を羽交い絞めにして廊下に押しやる。冴島と揉み合っていた小林の父はふと自分の手首に目をやり、ぱっくりと割れた傷口に絶叫した。
「怪奇探偵、早く何とかしろよ! 俺は何もしちゃいないんだ!」
 小林の口から吐き出される言葉が穢れとなってタタリ場に溶け込んで行く。鎌鼬の腕が一層大きく肥大化し、より鋭くなった鎌が式神の封を打ち破った。
 鎌はニコの外套を切り裂いて透明の壁に衝突した。壁はニコの眼と同じ色に変色して赤い刃を阻む。怒り狂った鎌鼬は光の壁を執拗に攻撃し、それを中心に竜巻のような風の渦が発生した。
 冴島が血相を変えて駆け寄ろうとするのをニコが扇子で制する。その指先からは血が滴っていた。
「君は偶然その場に居合わせた渋谷少年を殴って気絶させ、彼を倉庫に隠した後、駆け付けた教官達に怪奇が出たと嘘を吐いて人払いをし、サーベル刀で遺体を荒らして血痕を付着させた。渋谷が殺人犯では無いという事実は君自身が一番良く知っている筈だ」
 死体からは然程の出血は無かったと思われるが現場は血の海だ。素材は揃っている。
 何かを訴えるような眼で松山が小林に縋り付く。小林がそれを受け入れずに巨体を突き飛ばすと、松山は達磨のように転がって地面の式神を踏み荒らした。一枚が左右に裂けて結界の光が薄まった。結界の外に出てしまった松山に鬼火が纏わり付き、松山はか弱い悲鳴を上げて蹲った。
 丸まった背中に向けて振り上げられた鎌が、再び式神に封じられる。
 医務室の入り口で小林の父が足を縺れさせて尻餅を突いた。扉の一部が大きく抉れて木片が粉をふいて足元に散らばっている。それを見たニコは違和感を覚えてタタリ場を見渡し、先日四隅に仕掛けておいた結界の一つが蹴散らされている事に気が付いた。
「小林君。怪奇は君の穢れを喰らおうとしている。その因縁を真に断ち切る事が出来るのは君だけだ」
 小林は青ざめた顔でニコを食い入るように見詰めた。冷汗に塗れた顔面を拭うのも忘れ、胸中で争う二つの意見に耳を傾ける。俺は、と震える唇を動かした瞬間、
「渋谷とやらに罪を被せた証拠が何処に在る。悪しき怪奇探偵めが、貴様こそ息子に罪を被せようとして居るのでは無いのか! その醜い化物どもを今すぐ引っ込めろ!」
 抑止する冴島の腕に指を喰い込ませて小林議員が叫んだ。
 それまで松山の周辺を飛び交っていた鬼火達が今際に発した絶叫を少年達に浴びせ、鎌のように鋭い声にニコを除く誰もが耳を塞いで苦痛に喘いだ。鬼火の声が式神達を引き裂こうとしている。小林を守る式神に次々に亀裂が入り、やがて青い光が穢れに覆い尽くされてしまった。
 鬼火達は小林に標的を定めた。隙を突いて床を這いながら逃げ出そうとする松山の足を、お前だけ逃がしてなるものかと小林が掴む。小林は松山の後ろに身を潜めると大きな背中を蹴飛ばした。松山は鬼火をすり抜けて顔から壁面に突っ込んだ。
 咽返るような穢れの中、鎌鼬を封じていた式神が散り散りに裂けた。
 その鎌は小林では無く、真っ直ぐニコの心臓を捉えていた。それを悟ったニコが扇子を構えるよりも前に鎌鼬は彼の懐へと飛び込んでいた。
 冴島がニコの名を叫んだその時だった。
 誰かが彼の脇をすり抜けて迷い無く部屋に飛び込んだ。
 ニコを突き飛ばした少年の背中が大きく切り裂かれる。真っ直ぐに切れたシャツから鮮血が噴き出し、手錠で両手を封じられたままの渋谷が枝のように倒れ込んだ。
「渋谷君ッ!」
 息を乱して医務室に現れたのは手塚だ。地面に広がる血に彼は大きく目を瞠り、冴島と小林議員を押し退けて部屋に身を乗り出そうとして、
「入るな!」
 鞭のように鋭いニコの声に足を留めた。
 渋谷の血を浴びて更に力を増幅させた鎌鼬の叫声がタタリ場を震わせた。
 ニコは渋谷の前に立つと扇子を宙に放り投げた。怪奇の咆哮を打ち消すように鈴の音が鳴り、その場に居る全ての者達の心に響き渡った。渋谷は全身の毛が逆立つのを感じた。
 ニコの手が薄闇を舞う扇子を再び捉えた時、それは青い光を纏う短刀へと姿を変えていた。
 柄に絡みつく赤い糸の先で金色の鈴が煌く。その音を一つ鳴らすとニコを中心に光の波紋が何重にも広がって鎌鼬と鬼火の身動きを封じた。更にニコが放った式神の軍勢が怪奇達に纏わり付く。
 渋谷は歯を食いしばって背中の激痛に耐えながら、その怖ろしくも幻想的な光景を見詰めていた。
「耐えられるか」
 ニコが背後の渋谷に語り掛ける。渋谷には彼の表情が見えないが相変わらず圧倒的な自信に満ちているように思えた。気丈に返事をするとニコはくすりと微笑んだ。
 短刀を鎌鼬に向けて掲げたまま、渋谷の登場に血相を変える小林とその父親を見比べる。
「新しく提出された君達の証言書によると、一足先に医務室に到着した小林君は五つの死体を発見した後、『釘か何かに腕を引っ掛けて』負傷し、慌てて廊下に出た。そして教官達にその旨を伝えて応援を待っていた時、凶器を所持した渋谷少年が倉庫から出て来た」
「ああそうだよ、だから俺には偽装なんて――」
 謎解きなど良いから早く化物を倒せと小林が目で訴える
「矛盾しています」
 手塚の呟きを聞いた小林議員が不服そうに彼を見た。
 その通りだとニコが続ける。
「死体は医務室に三つ、そして倉庫に二つの計五つだ。君がこの五人分の死体を目撃するには倉庫に立ち入る必要がある。然し君は確かに教官達にこう言った。『中で五人も死んでいる』と」
「本当は倉庫も確認したのだろう」
 父の助け舟を得た息子が何度も頷く。そんな親子の主張も真実を得た探偵には通用しない。
「彼の証言が真実ならば倉庫には凶器を所持した渋谷が潜んでいたのだよ。君が其処を覗いたのであれば死体と共に彼を目撃して居なければならない。違うかね」
 小林は渋谷が倉庫から出て来たと明言している。倉庫は所狭しと箱が積み上げられていて死体も転がっていたのだから人が隠れるような空間は無かった。
 漸く発言の矛盾に気付いた小林が愕然とした。それと似たような表情で小林議員が息子の発言を求めて、政太、政太と名前を呼び、言い返してやれ、真実を語ってこの生意気な探偵の鼻をへし折ってやれと視線で命令する。小林はそれに応えようと懸命に思案を巡らせ、ニコと怪奇と父親を何度も見比べた。
「数え間違えだ。只の勘違いだ。俺は悪くない」
 式神の隙間から鎌鼬の赤い眼が獲物を睨みつける。縛り付けられた五人の教官達が怨嗟の声を吐く。
 小林の言い訳を遮って、地面に蹲っていた松山が違うと喚いた。
「渋谷は偶然居合わせただけだ! それをこいつが、莫迦な連中の眼を渋谷に向けさせて、その間に埋蔵金を掻っ攫ってやろうと……。殆どが親父の金なのだから、即ち息子である俺の物なのだと。俺も小林も遊ぶ金が欲しくて……」
 松山の異変に気付いた小林が鬼の形相で彼を責め立て、松山も負けじと今までの鬱憤を吐いた。やがて二人の表情は狂気に満ちて行き周囲など目もくれずに互いを罵倒した。
 小林議員は呆然とその遣り取りを眺めていた。どうやら息子の腹の内を何も知らなかったようだ。松山の口から語られる息子の所業、そしてそれを否定する事も忘れて相手を詰る息子そのものに熱を奪われて行く。今まで信じて来た物に裏切られたと悟った小林議員は怒りに我を忘れた。
「おいどう言う事だ! 私を騙していたのか!」
 目を吊り上げて息子に殴り掛かろうとする彼を冴島と手塚が押し留める。
 鎌鼬にも負けない大声に小林は震え上がり、頭を抱えて蹲った。涙を流して髪を掻き毟り犬のように唸りながら、己の目的も状況も忘れて只々父親の機嫌を直す術は無いものかとばかり考える。つい先程まで松山と激しく罵り合っていた彼が初めて見せる表情に渋谷も松山も言葉に詰まってしまった。
 真っ先に音を上げたのは渋谷だった。確かに小林は多くの罪を犯した。己の欲望の赴くままに大勢の人間を騙した。然し今は、感情の整理が追い付かずに過呼吸に陥る息子を容赦なく罵倒する父親の姿が怪奇よりも怖ろしく、何よりも罪深いと思えてしまう。
「貴様の所為で全てが水の泡だ。どう責任を取るんだ、この出来損ないめ! 貴様など怪奇に喰われて死んでしまえ!」
 数々の怒号が穢れとなって小林に纏わり付いている。その穢れを受けた小林が更に穢れを吐き出す。
 タタリ場が見せてくる幻の血の臭いに吐き気を覚えながら渋谷は小林議員を睨んだ。
「もういい! 子が間違いを犯したのならば、叱って諭すのが親の役目では無いのですか。貴方がしているのは只の八つ当たりだ!」
「親を知らぬ者が偉そうに!」と小林議員が渋谷の言葉を両断する。
「……然し、そうしてくれた人を彼は知っている」
 そう言ったのは手塚だった。驚く渋谷の視線を受けて彼は微笑み、小林議員の肩を確りと掴んだ。
「ご子息から今回の話を聞いた貴方は、それを己の欲の為に利用した。大久間判事と結託して法廷を意のままに誘導し、被害者遺族を扇動して署名活動を行い、我々の捜査を妨害したのです。彼に責を負えと言うならば、貴方も同じようにするべきでは御座いませんか」
 小林議員は顔色を変えて手塚の手を叩き落すも背後の冴島に腕を取られた。
 息子から今回の犯人が怪奇探偵だと言う情報を得た彼は、以前より自身が主張して来た怪奇探偵への弾圧を更に強調するべく、同様の思想を持つ大久間判事と結託して渋谷が死刑になるように人々を操作した。
 小林議員の怒りの矛先が手塚に向かった。冴島に羽交い絞めにされながら、貴様は判事の面汚しだと罵倒して法服に掴み掛かろうとする。然し、手塚の全てを知り尽くした冷ややかな表情にやがて勢いを無くして行った。
 すっかり穢れを蓄えてしまったタタリ場の中で渋谷は小林の姿を見付けた。父親から浴びた穢れと自分自身の穢れが彼の心を更に侵食し、そんな彼を喰らわんと怪奇が式神の中で暴れている。五人も鬼頭も、背景や理由は違えど穢れに近付き過ぎたが故に絡め取られてしまった。次は小林だ。
 己の穢れた血が付着した手を服で拭い、ズボンのポケットに手を突っ込むと、タタリ場の片隅で震える彼に向けて優しい音を鳴らした。自分の未熟な力では然程の効果が無いと分かっているが、それでも彼に纏わり付く黒い気配が少しばかり薄らいだように見えた。渋谷にはそれで十分だった。
「怪奇『鎌鼬』……穢れに囚われた御魂の名は」
 嵐のような穢れに青い髪が靡く。
「帝國軍学校陸軍科養護教諭、井川仁」
 式神の印が空色に光り、鎌鼬は光の輪の中でカッと赤い目を見開いて硬直した。更にニコが短刀の柄の鈴を鳴らすとそれは強風となってタタリ場の穢れを吹き飛ばした。
 初めて見る彼の圧倒的な清浄の力に渋谷は思わず御守りを落とした。背中の痛みすら和らぎ、息苦しさから解放された。小林と松山も穢れやタタリ場は見えないものの空気が変化した事に気付いて不思議そうに辺りを見回していた。
(これが彼の力なのか)
 怪奇探偵の知識に乏しい渋谷だが、彼の力が人智の及ばない、恐らく他の怪奇探偵すら足元にも及ばない特別な物なのだと思った。連盟の秘蔵っ子という呼び名すら陳腐だ。彼は神秘的な、自分が手を伸ばしてもけして到達出来ない遥かな境地の住人なのだ。
 小さな背中を眺めていると男の絶叫が耳を劈いて我に返った。
 浄化の風に薙ぎ払われた教官の首が再び青い炎を身に纏って此方に標的を定める。そしてそれは歯を剥き出しにして襲い掛かって来た。最後の力を振り絞っているのか動きが速い。
 鋭い歯が渋谷の頭を捉えようとしたその時、別の鬼火が転がり出た。
 鬼火と鬼火が衝突して宙でもつれ合い片方がもう片方の頭に喰らい付く。それに引き寄せられて他の鬼火達が集まり五つが一つを集中的に攻撃した。六つの青い炎が一つの塊になった。
 渋谷は自分の御守りを掴み取り、祈るような思いで胸の前で鈴を鳴らした。自分にしか聞こえないような小さな音だ。然しその瞬間に燃え盛っていた炎の動きがぴたりと止まった。
 それを見たニコは新たに式神を放ち鬼火を包み込むと、二つの塊に短刀の鎬を向けた。
 淡く光る銀の面に怪奇の姿が映った。
「道は開かれた。さあ、然るべき世界へ還りたまえ」
 刀と式神が共鳴して一際大きく光り、光が鎌鼬と鬼火を覆い尽くし、やがて医務室をも呑み込んだ。
 怪奇達の身体に纏わり付く穢れが、光に包まれて祓われて行く。自分を突き動かしていた穢れを無くし、彼らは何かを悟ったのか、眠りにつくように温かい光に身を委ねた。
 どれも安らかな顔だった。
 白んで行く世界に渋谷は堪らずに目を閉じた。乾燥した冷たい空気が温かい風に変わる。その風に乗って藺草の匂いが鼻を擽るので渋谷は震える瞼を恐る恐る開けた。眼前に大きな手の平が伸びて来て思わずびくりと身体を強張らせて目を瞑り、頭に感じる温もりに再び目を開けた。
 自分の目線の先に懐かしい顔があった。
 天も地も果ても無い真っ白な世界で二人は向き合って座していた。
 共に柿を食べていた時の優しい眼差しが、今にも感情の壕が決壊してしまいそうに潤んだ眼を見詰める。彼との思い出はけして多くは無いが、数少ない彼との交流の一つ一つが鮮明に残っている。眼前の彼はそんな記憶の中の物と何一つ変わらない。そして今なら、皺を寄せて嬉しそうに笑う彼の眼差しが只の世話好きの物では無いと分かる。
 渋谷が悪戯や間違いを犯したり汚い言葉を吐いたりする時に限って拳を振るい、その後には必ず部屋に招いて柿を振舞った。本当に心細く思っている時にはけして手を出して来なかった。そんな恩恵を受けていたにも関わらず自分は生意気な口ばかりきいていた。
「……有難う」
 それが自然と出て来た言葉だった。
 鬼頭は皺を更に濃くして何度も頷き、そして渋谷の手元に視線を落とした。
 彼の言わんとしている事を察した渋谷は俯いて御守りを握り締めた。彼をいつまでも此処に留まらせてはいけない、分かっているのに意志が定まらない。伝えたい事が山ほどあるのだ。
 拳骨で頭を軽く小突かれた。
 互いに言葉は無い。だが不思議と声が聞こえて来る。
 渋谷はぐっと目に力を入れて己の迷いを振り切り、意を決して顔を上げると、鬼頭は両手を膝上に添えて瞑目した。
 チリン、と震える手で鈴を鳴らす。弱々しく小さな波紋が白い世界に広がって春のように柔らかな風が吹いた。鬼頭は風に包まれて砂が散るように薄らいで行った。
 耐え切れずに渋谷が手錠に繋がれた両手を伸ばす。
 彼もまた満面の笑みで渋谷の指先に触れ、その瞬間に白の世界へと消えてしまった。

 鐘の音が静寂に鳴り響いた。
 先程まで校庭を打ち鳴らしていた豪雨がすっかり和らいでいた。地上の冷気が、冴島の懐中電灯と廊下の白熱灯が照らす暗がりの中へと滑り込んで来る。
 ぽかんと口を開けていた松山はすすり泣く声に我に返り、声の主を見ると彼は全てから逃れるように膝を抱えて顔を埋めた。互いの体中に小さな切り傷がある。夢では無い、全ては現実だったのだ。そんな彼らを眺めていた小林議員が肩を落として項垂れた。
 終わった。
 誰もがそう思ったその時、一人が虚空を仰いで叫んだ。
 木目の床に広がる血だまりに無色透明の雫がぽろぽろと落ちる。身体中を駆け巡る感情を抑えられず、息を詰まらせながらも二人分の涙を流す。小林すら目を丸くして顔を上げ、迷子の幼児のように己の胸元を掴んで噎び泣く彼を見た。
 終わった。
 温かい風は全てを攫って行ってしまった。
 空よりも海よりも遠い、手を伸ばしても届かない彼方へと連れ去って行ってしまった。
 仄かな柿の香りだけをこの心に遺して。

「此度の怪奇、確と喰らった」
 只管に泣きじゃくる渋谷を背に、ニコは静かに扇子を懐へ納めた。
 雨が止んだ。

– – – – –

 その後、予定通りに医務室へ冴島の主導による捜査が入った。
 倉庫の地下収納庫から発見された大量の紙袋には、恐らく蓋の隙間から流れ込んだと思われる血痕が所々に付着していた。袋の中には、消えた薬品や備品、帳簿で差異が発生した通りの多額の金銭が入っていた。一冊の帳面に盗みを行った日付と内容が事細かに記録されており、事務員が帳簿等を確認して改めて一連の盗難事件による被害だと証明された。
 小林と松山は殺人現場の偽装を認め、渋谷が丸腰の状態で偶然その場に居合わせただけである事を証言した。小林が無防備な渋谷を背後から殴って失神させ、教官達を追い払った後に彼の身体を医務室に移動させた。途中で目覚めたのは想定外だったと言う。
「自由な金が欲しかった」
 小林が心中を吐く。松山とは少し異なる彼だけの意思を語る。
「金は腐る程あるくせに大した小遣いもくれず、毎日飽きもせず偉そうに怒鳴り散らす父親。金目当てに近付いて来ては利用価値無しと去って行く生意気な連中。そんな奴らを見返してやりたかった」
 盗難事件が発覚した頃、五名の教官と井川の羽振りが妙に良くなっている事に気付いた小林は密かに彼らの行いを疑っていた。そしてある時、繁華街の料理店で食事をしていた小林は六人の秘密の会話を偶然耳にしてしまった。向こうが途中で席を立ってしまったので全ては把握出来なかったが、会話の断片を繋ぎ合わせ、どうやら学内に多額の金銭が隠されているらしいと推理した。井川の失踪と負傷事件があってからは更に彼等への疑惑が深まった。特に鬼頭発見の現場に居合わせた小林はその時の教官達の様子に不審を抱き、小火の遣り取りを目撃して鬼頭を口封じに殺したのだと思った。
 初めは探偵か怪盗になった気分だった。彼らの悪事を暴いてその報酬に金銭をくすねてやろうと軽い気持ちだった。然しあの時、医務室で死体と渋谷を見た瞬間に己の内に渦巻いていた醜い感情が爆発してしまい、憎悪が金への執着心を更に増幅させて、それから周りが見えなくなってしまった。
 全てを語った小林の顔は只々虚ろだった。
 小林議員は最後まで発言を渋っていたが、鬼頭の死因に不審を抱いた手塚が所見を行った警察署にも捜査を入れようとするのを聞いて観念したように口を割った。孤児支援制度を巡って鬼頭を嫌悪していた小林議員は、以前より親交があった五名の教官達からその死を聞いた際、事故死を強調する彼らの頼みを受けて余計な介入をしないよう警察に圧力を掛けたと言う。鬼頭の家族を早々に帝都から追い払って一気に制度を廃止してしまおうと目論んでいたのだ。
 更にこの三人は今朝の出来事を――怪奇の出現とその犯行を認めた。小林と松山の身体、そして渋谷の背中に残る傷が何よりの証拠となった。
 再審は終始騒然としていた。
 初審では語られなかった二種類の傷と小林達の自白、盟友だった筈の小林議員の降参が、それまで頑として渋谷有罪を譲らなかった大久間を追い詰めた。
 怪奇の存在について動揺を隠せない他の判事に対し、手塚は更なる議論が必要だと訴えた。法廷では怪奇と言う不可思議な存在を扱うべきではない、然し渋谷少年については小林達の自白を踏まえて結論を出さねばならないと主張する。混沌とする最中、審議は更に数日後へと持ち越された。
 傍聴していた十河がすぐさま号外を発行し、見出しにある『怪奇殺人』の字に帝都が震撼した。捜査に参加した匿名希望の憲兵の証言を基に描き起こされた鎌鼬の似顔絵とその凶行に、世間の多くは矢張り懐疑的だった。莫迦げた記事だと多くの抗議があったようだが、十河はそれだけ注目を集められるだろうし新聞の売れ行きも上がるぞと騒ぎを歓迎していた。或る者は怪奇探偵連盟の陰謀だと、被告人を解放する為に少年達を脅して自白を作為したのだと声を荒げた。だがこれも、少年達と居合わせた二名の教官が偽証と脅迫の件を認める声明文を帝都新聞社から出した事により徐々に止んで行った。
 非難の矛先は、偽装を行った少年達や初審で十分な議論を行わなかった裁判所の方へと向いた。
 そして何よりも世間の関心は怪奇に注がれた。
 怪奇は実在するのか。人に害を為すのか。帝都新聞社の他に怪奇探偵連盟、更には帝國軍や政府に対して問い合わせが殺到した。然し何処も明言を避けて無視の姿勢を貫いていた。
 冴島が危惧していた通り、帝都は混乱に陥った。
 その中で十河が水面下で続行していた井川周辺の調査が実を結ぶ事となった。目撃談により、井川の家族に対する嫌がらせが五名の教官とその親族の犯行だと判明した。
 十河と冴島が取材と称して多少強引に今回の被害者遺族を訪問し、例の埋蔵金と併せて井川に心当たりが無いかと訊ねてみると、初めは無関係を主張していたが、世間の一連の騒動と小林議員が何らかの罪に問われる事を知って顔色を変えた。家族ぐるみで盗難を行っていた可能性について指摘すると数名が真っ青な顔をして途端に取材を拒絶した。これはニコの推理だが、親族のうちの数名は彼らの犯罪を認知し、且つ備品の横流しに協力して私腹を肥やしていた可能性があると言う。井川の家族を帝都から追放したのは、彼らが井川の罪について無知であった事を利用して失踪後の捜査を中断させる為である。
 五名の教官達は大勢の人間を巻き込んで自分達の罪を隠蔽したのだ。
 現状は証拠が無いのでそれ以上の追及は出来なかったが、盗難品の売買をしたのであれば捜査を行えばいずれ売人も判明する。去り際にそう十河が放った言葉が効いたのか彼らはすぐに動いた。原告であるにも関わらず判決を待たずに帝都を去る準備を始め、告訴を取り下げたいとまで言い出した。
 大久間判事と小林議員の関係性も暴かれ、手塚の調べにより更に三名の判事が大久間に加担していた事実が明らかとなった。次の再審は彼らを排除した九人の判事により行われた。
 抉られていた心臓と二種類の傷が改めて議題に挙がり、怪奇云々を無視したとしても矢張り渋谷には不可能であったと結論付けられた。複数の目撃があったものの怪奇の犯行だと断定する事に大半の判事が難色を示し、傍聴席からも怪奇の存在に疑問を呈する声が上がったが、手塚の、少年達の偽証と一部の人間による審議誘導が事実として認められた以上は初審と同じ判決を下してはいけないとの言葉に反論は無かった。一部の者は渋谷が怪奇探偵である事に固執して彼らによる陰謀説を頑なに提唱していたが、最早これに耳を傾ける判事は誰一人として居なかった。
「被告人渋谷史人に無罪判決を」
 手塚の言葉に九つの槌が鳴る。
 斯くして裁判は呆気なく終わりを迎えた。

 判決を言い渡されてから更に数日が経ち、ついに釈放の日が訪れた。
 投獄される前に見掛けた桜の蕾も今や満開である。廊下の窓から臨む麗らかな遊歩道に淡紅色の花弁がひらひらと舞う。玄関口に近付くにつれて仄かに甘い匂いが春風と共に流れ込んで来た。
 あらゆる拘束から解放されたが、慣れとは怖ろしい物で『普通』の感覚が思い出せない。この日の為に新調されたシャツとズボンは袖を通したばかりで身体に馴染まない。不意に誰かの視線を感じて、それが何者かも確認しないまま無意識に肩を窄める。そうして俯きがちに歩いていた時、自分の先を行っていた大きな人影が立ち止まった。
 冴島は玄関口を開けてその脇に直立した。
 軍帽の下の瞳を眺めていると、それが少し泳いだ後に此方に向いた。
「早く行ってしまえ」
 目の下に隈がある。しかめっ面も何処か覇気が無い。もしや彼の身に何か障りがあったのだろうかと思い、あの、と声を掛けても外方を向かれてしまった。
 初めて出会った頃の彼を思い出し、一抹の寂しさを感じながら渋谷は深く頭を下げて礼を言った。雲間から差し込む陽射しに目が眩みながらも恐る恐る光の中へ一歩を踏み出す。
「二度とそのツラを見せるな」
 背後から無愛想な声がして、扉が乱暴に閉じられた。
 雀の囀る声が静寂に響く。あれほど渇望した自由を手に入れたのに心は未だ戸惑っている。少しばかりの所持品を入れた鞄を提げ、日常の空気を肌で感じながらぼんやりとしていた。
 今回の事件により大久間含める四人の判事が罷免され、小林議員は元々敵を多く作っていた所為か辞職寸前まで追いやられていると言う。教官の遺族達は先日揃って帝都を去って行ったらしい。この数日で自分を含め大勢の人間の人生が大きく変わってしまった。
 学生寮に戻れば再び日常が始まる。その日常も以前と同じようには行かないだろう。
 物憂げな気分で小さく溜息を吐いた時、視線の先に見覚えのある姿を見つけた。
 噴水の縁で羽を休める一羽の烏を傍で微笑ましく見守っていた手塚が、顔を上げて気さくに手を振った。正面の門扉では記者や野次馬がうろついている。彼らに発見されるよりも前に手塚に促されて元来た道に戻った。人気の無い裏口に車を用意していると言う。
 新聞に顔写真等は載らなかったものの学校の関係者や渋谷を知る者から既に情報が洩れているだろう。事件が風化するまで如何程の時間が掛かるか予想が付かないが、暫くは寮に籠る生活が続きそうだ。
 木々が密集する秘密めいた小径を並んで歩く。
「頼りに出来る方は居らっしゃいますか?」
 少し心配そうに聞いて来るので、渋谷は不安を抑えて笑顔を作った。
「孤児院の院長先生に連絡してみようかと」
 精神的に安心出来るかはさておき一応は保護者の立場だ。今回の件で何らかの被害を被っている可能性もあるので、詫びを入れる為にも一度は立ち寄っておきたい。
 頼りと聞いて脳裏を掠めるのは鬼頭の顔である。
 あの日、再審が始まる前に医務室へ来るように電話を寄越して来たのはニコだった。それを受けた手塚が、再審の準備が迫る中、無理に時間を作って車を出してくれた。
 ――奴にも真実を見届ける権利が在る。
 手塚にはそう言っていたようだが、恐らくニコは恩師との最後の時間を与えてくれたのだろう。
「……莫迦だな」
 その独白を聞いた手塚に首を傾げられ、渋谷は更に心情を吐露した。
「小林達には散々媚びを売っていた癖に、彼にはいつも反発していました。柿だって本当は好きなんです。でも彼の前では妙に意地を張ってしまって。あの時もっと素直でいられたら、こんなに後ろ髪を引かれるような思いはしなかったんでしょうね」
「後悔とは常に付き纏う物です」
 木の葉の狭間から射し込む陽光に目を細め、手塚が言った。
「暫くは苦悩も在りましょう、ですが何処かでご自分を赦して差し上げて下さい。師君とて君の心根をきちんと見抜いて居られたかと思いますよ」
 柔らかく微笑む彼につられて笑う。
 道の終わりが見えて来た。鉄の門扉の向こうに広がる狭い裏道に一台の黒い車が停まっている。
 途端に心細くなって歩みを止めていた。少し遅れて手塚も立ち止まり、不思議そうに此方を振り向く。彼は多忙なのだからこれ以上の迷惑を掛けてはいけないと知りつつ、あともう少し話していたいと思ってしまう。本来ならば相見える機会など無い立場の人間だ、あの門扉を越えてしまったらもう言葉を交わす事も無くなるだろう。心を開いていたばかりに二度と会えないと思うと侘しい気分になった。
 からんからんと遠くの時計塔から鐘の音がして、それを切っ掛けに再び歩き出した。
 林が途切れて青空が見えた。澄んだ色を眺めていると、どうにもそれに良く似た色の眼を思い出す。
「あの。一つお願いをしても良いですか」
「どうぞ」
「彼に……ニコ君に伝言を。渋谷が礼を言っていたと」
 頼み事をするなど無礼かと思ったが、手塚は嬉しそうに頷いていた。
 医務室の一件以来、ニコは再審にも姿を現さず忽然と姿を消してしまった。停職期間が過ぎるのを待ちきれずに、連盟の秘蔵っ子として次の難事件に挑んでいるのかも知れない。もう一度直に話がしたいが彼も手塚と同じように遠い存在だ。この遠い距離を縮める資格が無い凡庸な己を情けなく思った。
 運転席から綺麗な身なりの運転手が出て来て門扉を開いた。
「色々と有難う御座いました」
 深く頭を下げると黒革の手袋を纏った手が差し出された。
 渋谷は驚いて彼の顔と手を見比べ、控えめに握り締めた。冷たい革から体温がじんわりと伝わって来る。彼の手は自分の物よりも少し大きく意外とがっしりとしていた。
 妙に懐かしい感覚だった。
「どうかお元気で」
 渋谷を乗せた車が表通りの喧噪に呑まれて行くまで、手塚はいつまでも見守っていた。

 無言の車に揺られながら外の景色を眺めて日常の感覚を取り戻して行く。
 休日を楽しむ大勢の人間を乗せた路面電車、外国から輸入したキネマの上映会に並ぶ婦人達、曲がり角に聳える百貨店には新商品や催し物を記した幟がはためき、道化師が人寄せをして歓声を集める。軍学校とはだいぶ距離がある地域なので自分とは縁の無い華やかな光景だが、道行く人々の顔を見ていると血生臭い世界から解放されたのだと改めて実感した。
 二時間ほど経つと見覚えのある建物が増えて来た。
 車が軍学校の校門前に滑り込んでも依然として渋谷の心は晴れない。自分を知る誰かに遭遇したらどのような顔をすれば良いのだろう、またあの時のように大勢に取り囲まれて殴られやしないかと彼是悩んでいると、運転手が初めて声を掛けて来た。
 彼に礼を言って車から降り、固く閉ざされた門扉から学び舎を見渡した。記者の類も無く、休日の所為か校庭は予想以上に閑散としていて物音一つ聞こえて来ない。
 中々実感が湧いて来ないが、兎にも角にも帰って来たのだ。
 穢れも怪奇も居ない。それが現れたとしても追い払う術を得ている。後は厄介事に深入りをしないように意識すれば良い。賢い『彼』もその辺りは心得ているだろう。
 喉に物が詰まるような違和感を覚えながら渋谷は校門を越え、存在しない視線から逃れて日陰を選びながら誰か一人は居ると思われる職員室へと向かった。
 小林と松山は今頃どう過ごして居るのだろう。手塚は彼らの処分について何も語っていなかったが、小林議員や判事達同様、無罪放免とはなっていない筈だ。医務室で見た彼等の様子が脳裏に焼き付いている。特に、父親の恫喝に仔犬のように怯えていた小林が孤児院に居た頃の自分と重なってしまう。死刑に追い遣ろうとした事への怒りも確かに在るのだが、そのような嫌悪感を抱く自分の方が罪深いような感覚に陥る。
 渋谷は溜息を吐いて思考を中断し、目の前の現実を見据えた。
 何処も彼処も怖ろしい程に静まっていた。
 深呼吸をして高鳴る動悸を鎮め、緊張で震えた手で扉を叩く。返事は無い。誰も来ていないのだろうかと不思議に思いながら渋谷は思い切って扉を開けた。 

 今にも太陽が地平線の彼方に沈もうとしていた。
 窓から射しこむ微かな陽光が何もかも片付けられた空虚な部屋を照らしている。
 烏の鳴き声が夕暮れの余韻を残す夜空にこだまする。
 自分が存在していた痕跡も、同室の上級生の私物も、まるで此処だけ震災に遭ってしまったかのように綺麗に無くなり、藺草の匂いを吸った生温い空気が漂っていた。
 渋谷の虚ろな双眸は畳の上に放置された一通の手紙――退学処分通告書に注がれていた。
 職員室で自分を待っていた教官達は、今回孤児支援制度が廃止されたからだとか、出席日数が不足していただとか、生活態度の問題、成績不良、色々と処分に至る理由を口にしていたが良く覚えていない。
(……そうだ。俺はいつだって莫迦なんだ)
 帰りを待ってくれる人間も、処分されて困るような財産も、帰る場所も、居場所も、とうの昔に失っていた。自分はいつも気付くのが遅いのだ。
 廊下の片隅から小声が聞こえて来る。
 渋谷は通達を握り締め、太陽を失って薄暗くなった部屋を出ると、彼方此方から向けられる好奇の視線を全身で受け止めながら足早に寮を後にした。
 やがて渋谷は脇目も振らずに走り出す。様子を見に来た能面の教官達、窓から身を乗り出した野次馬、休日を終えて帰途に就く親子、商いを終えて手押し車を片付ける八百屋――夜風に舞う桜の花弁を掻き分け、人の顔が見えなくなるまで走り続けた。
 どす黒い人の眼、穢れを吐く人の口。何もかもが届かない闇の果てへと。
 街燈が、宵闇に消え行く少年の背中を静かに照らしていた。


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