斜陽が赤い宝石のように爛々と煌いていた。
 背の高い本棚が並ぶ蔵書室の最奥、滅多に人が立ち入らない片隅で、おさげの女学生が独り黙々と作業をしていた。
 糸を巻き付けた針を小さな穴に通して本を綴じ、一冊、また一冊と机上に積み上げられた修繕済の書物を種類別に箱に小分けして行く。
 蔵書室と称しているが本棚の中身は疎らで利用者も滅多にいない。新校舎完成に伴って此方の旧校舎の取り壊しが決定し、業者がその工事に着手するまでに書物を少しずつ移動する事になり、図書委員である彼女は移動の手伝いをする傍らで古くなって破損した本の修繕作業などに勤しんでいた。
 一冊が仕上がると彼女は徐に立ち上がり、立て付けの悪い窓を強引に開いて本の体臭にまみれた室内に夕風を取り込んだ。おさげと一緒に揺れる丸眼鏡の鎖紐が夕陽に照らされてきらりと光る。頬を撫でる風は冷たい冬の物だった。
 忙しなく移ろい行く世間の中で、この蔵書室だけは自分が入学した頃から変わらず優しい時間が流れている。少し動けばギイギイと軋む床も、自分と同じ身長の柱時計も、日焼けして草臥れた表紙の書物も、四階の窓から一望出来る景色も、何もかもが愛おしい。利用者や委員の面々は真新しい新校舎の方に夢中になっている。新校舎の図書室はこの部屋よりも二回りほど広く、蔵書と座席の数も数倍になったが、彼女には狭苦しく利用者の少ないこの蔵書室の方が性に合っていた。
 夕陽を眺めながら両腕を突きあげて犬のように身体を伸ばしていると、背後でくすくすと笑う二つの声がして慌てて振り向いた。二人の女学生と視線がかち合い、おさげの少女は気恥ずかしそうに俯いて窓を閉めた。
 すらりとした長身の髪の長い女学生が一冊の本を差し出す。
 彼女がその本を借りるのはこれで五度目なのは知っているが、それに触れるのは野暮なので黙っていた。余程気に入ってくれたのだろう。海外から輸入した古い歌劇の本で、あまりに古いので一度繕った記憶がある。おさげの少女は本の題名を確認して、貸出カードに貸出人と本の名前を記した。貸出カードには最初から最後まで同じ名前が連なっていた。
「あんた、『旧校舎の亡霊』の正体を知っているんじゃない?」
 快活で気の強そうな女学生が興奮気味に訊ねる。
「存じ上げませんわ。どうかなさったの」
 長身の女学生が、本に挟まっていた二つ折りの小さな手紙を抜き出して得意げに微笑む。
「私、その亡霊と文通しているの。この本に手紙を挟んで返却すると、次に借りる時には返事が入っているのよ。――ほら、またあった。これって噂の怪奇かしらね」
 それでね、と続きを言おうとして、
「ねえ、まだなの?」
 また別の女学生がやって来るので、彼女は話を切り上げ、さっと手紙を本の中に隠した。
 三人の退出により夕暮れの蔵書室は再びおさげの少女の聖域となった。
 もうじき日が暮れる。自分もそろそろ帰ろうかと仕事道具を片付けていると、視界の片隅で誰かが動いたような気がして顔を上げた。
 そこには夕陽に照らされる自分の影法師があるだけだった。やはり独りなのだと安心する一方で、小さな影法師を見ていると妙に寂しい気分になる。得体の知れない憂鬱を振り払おうと彼女は再び片付けに戻った。

– – – – –

 桜は散り、山々は新緑に染まり始める。
 暫く安穏とした晴天が続いていた四月下旬の某日。昼過ぎに学術調査団と軍人を乗せた大型船が帝都南部にある港に帰着し、港は大勢の見物人達の歓声に包まれた。数か月に渡る海外遠征を終えた後、帰路の途中でとある事故が発生したとの事で予定よりも少し遅い到着だった。
 赤煉瓦で舗装された港区商店街には洒落たホテルや喫茶店などハイカラな店舗が立ち並び、大きな橋を隔てた先には地元の住人の往来も多い宿場街がある。この近辺は特に港が閉鎖される日没後に盛況を見せる。本来ならば月が昇る頃には色彩豊かな雪洞が点いて長旅で疲れた旅人達を誘うのだが、その日は夕暮れから久しぶりに天気が崩れて夜半には激しい風を伴う大雨となった為に、何処の店も早々に暖簾を下ろしてしまった。
 街角でひっそりと営業をしている料亭の座敷で、二人の男が表通りの闇を見詰めていた。
 白髪の男が紙巻煙草を吹かし、ツンとした辛い臭いが部屋に充満する。その正面では黒衣を脱いだ青年判事が相手と同じ方向に視線を送っている。他に客は居ない。店仕舞いの障りになるのではと食事を終えてすぐに引き上げる心算だったが、一人が遠征から帰ったばかりの軍人だと知っている店主の厚意によって暫くこの貸し切り状態に甘えていた。
 元より余分な弁舌を嫌う寡黙な者同士だがいつにも増して口数が少ない。
 白髪の男が深い溜息と共に煙を吐き、すっかり短くなった煙草を硝子の皿に押し付けた。
 手塚は窓に映る男の表情を窺った。
 歳は自分よりも十程離れた三十六。精悍な目つきや皺の少ない引き締まった顔に比べると混じり気一つ無い白髪が異様に目立つが、これは数多の武勲を立てて来た代償なのだと人は言う。左の視力が少し悪いらしく銀縁の片眼鏡を掛けており、その奥の瞳は険しくも憂いに満ちていた。わざわざ自分の出港を見送りに来てくれた恩師が帰港した時には不名誉な形で命を落としていたのだ、たとえこれまで多くの死を見て来た軍人と言えど耐え難い物がある筈だ。
 普段見る事の無い人間らしい表情に手塚は彼の心中を汲み取った。
「それで、何か気掛かりな事でもあるのか」
 此方に向いた瞳からは既に悲しみが消え失せ、針のような鋭さだけが残っている。感情を胸の内に仕舞い込むのも自分より相手を優先するのも彼の性分だ。今はそれに甘える事にした。
「釈放された渋谷君ですが、あれから直ぐに退学処分になったようです」
 多忙の為なかなか自由な時間が得られず、渋谷が釈放されて数日が経った頃に軍学校の近くを通る用事があったので訪ねてみたところ、彼の退学処分が判明した。
「我が軍に軟弱者は要らん。どうせ孤児院に出戻ったのだろう」
 フンと鼻を鳴らして外方を向く彼の手元に帝都新聞の一面を差し出す。男は丸印で囲まれた片隅の短い一文を見て眉根を寄せた。

  放火発生 孤児院一部消失、負傷者無し

「旧志方邸孤児院です。渋谷君釈放当日の午後七時前後に放火があり、院の関係者と子供達はその翌々日、縁のある遠くの孤児院へ移ったそうです」
 彼らが身を寄せていると言う西方の孤児院は鉄道を乗り継いで行かなければならない距離で、電話が繋がったので詳細を尋ねてみたが、渋谷は居ないとの事である。
 古い木造建築の一階部分の数箇所から出火が確認され、消火後に該当場所から火種に使用されたと思われる古新聞や塵の燃えかすが発見されている。孤児院の面々は偶然付近の寺院を訪れていたので難を逃れていた。浮浪者がやって来ては焼け跡で盗みを働こうとするので現在は警察官が交代で見廻りを行っている。
「現場付近から逃走する渋谷君らしき人物が目撃されており、警察は彼を重要参考人として指名手配をしていますが、未だ続報はありません。私としては渋谷君を逆恨みしている人物、特に小林の周辺の人物による犯行だと睨んでいるのですがね」
 小林議員は辞職後、様々な余罪が発覚して対応に追われている。その息子の偽証と脅迫についても現在議論が行われているが刑罰を科せられる点は揺るぎ無い。彼らの恩恵に肖っていた人物による復讐か、怪奇探偵が殺人犯だと信じてやまない人間による嫌がらせか、或いはそれらとは全く因縁の無い愉快犯か。渋谷が放火犯だと言う証拠は皆無であるにも関わらず警察が指名手配に踏み切ったのは、先入観により誇張された目撃談に依存しているからに他ならない。警察の管轄なので捜査は彼らに任せておくしかないが、このままだと先日の裁判の二の舞になるのでは無いかと手塚は懸念していた。
 警察署で入手した渋谷の手配書を鞄から取り出し、男の方へ差し出す。下手糞な似顔絵と身体的特徴が記されている。
「無能どもめ」
 白髪の男は吐き捨てるように言って手配書をくしゃりと握り潰した。
 旧志方邸孤児院はその名の通りかつては『志方』の名を持つ者の邸宅で、邸の主人の亡き後、遺言に従って孤児院の院長の手に渡った。この主人と深い親交を持っていた彼にとって邸の半焼は恩師の死に続いて胸を痛める出来事だった。
 そして何より――。
「渋谷……、渋谷史人か」
 再び眉間に深い皺を寄せ、鞄から缶を取り出し、中から煙草を一本抜き出す。素早く手塚が店のマッチを取って煙草の先に火を点けた。外国で流行の刺激臭が白煙と混ざって宙に漂う。
「お前の方は大丈夫なのか」
 放火事件の容疑者として再び渋谷の名が挙がった事により、何かと騒ぎたい者達の視線は彼に無罪判決を下した判事達へと向いている。大久間判事達への糾弾で味を占めたのか、いっそこのような裁判所は廃止してしまえと、小規模ではあるがデモにまで発展した。どうにも軍学校の事件が怪奇探偵による殺人だという印象が強いらしく、彼らには小林少年達の自白が揺るぎない事実であると伝わっていないようだ。
「まあ、茶飯事ですので」
 いちいち気を揉んでいては判事など務まらない。
 爽やかに笑う手塚に反し、男は苦虫を噛み潰したように煙を吐いた。
「あの小僧も中々小癪な真似をする」
 小僧と聞いて手塚はあの少年探偵を思い出した。
 彼は神出鬼没で滅多に大衆の面前に姿を現さない。街に出て来る時は常に鳥打帽子を目深に被って髪や瞳や肌を隠そうとする。そんな彼があのような形で姿を晒した切っ掛けを作ったのは手塚だが、彼も何らかの意思を持って起爆剤役を引き受けていた。あの事件は彼を表に引きずり出すだけの何かがあったのだ。
 怪奇探偵を名乗る謎めいた少年は帝國人の眼に奇異に映り、一時期は異国人による帝國侵略の予兆だと警鐘を鳴らす文化人も居た。この類の騒ぎは手塚が黙らせた。あまり騒がれて彼の今後の活動に障りがあっては困る。また、先日の騒ぎで調子付いた帝都新聞社の某記者が怪奇探偵を大々的に特集しようと息巻いていたようだが、此方には政府から圧力が掛かって発刊には至らなかった。時間と共に謎の少年に対する世間の熱は醒めて行った。
(彼にはもっと働いて頂かないと)
 渋谷に判決を下した後、自分の執務室で彼と罰則金徴収の遣り取りをしていた時の会話がずっと頭に残っている。

 ――謎が未だ残っている。
 唐突にそう言われ、手塚は戸惑いを隠せなかった。
 ――然し、真実に至ったからこそ彼らを祓う事が出来たのでは?
 ――その通り、僕の推理に間違いは無かった。少年達の罪。教官達の罪。鬼頭の死。怪奇の正体。死者達の穢れを祓い、彼らのまことの声を聞き届けたが故に『道』は開かれた。
 いつになく歯切れの悪い態度に却って惹き付けられる。青い瞳には確かに迷いがあった。
 ――胸騒ぎがする。この小さな謎が、何処かで蠢く大いなる謎の一端のように思えてならない。まるで化け物の尻尾を目撃したような……そんな気分なのだよ。

「一慶」
 名前を呼ばれて手塚は我に返った。
「いずれにせよお前にはもう関係の無い事だ。あまり深入りをするな」
「……ええ、白樺殿。承知しておりますとも」
 容赦なく胸中を見抜いて来る眼に微笑を返し、その下で再び物思いに耽る。
 少年の言う『謎』に一つ心当たりがある。
 あの事件に於ける最大の謎は怪奇でも犯人でも無い、渋谷史人と言う一人の少年だ。渋谷少年の素性は粗方調べ上げたが彼は多くの謎を孕んでいる。今からおよそ十年前、彼が八つになる頃に孤児院で保護されたとの事だがそれ以前の情報が何一つ存在せず、多重人格者になった要因も謎に包まれたままである。事件が終わった今それについて彼是と考えるのは深入りに違いないが、それでも手塚にとって渋谷は個人的に興味深い人物だった。
 雷鳴と共に閃光が走る。雨は収束するどころか益々勢いを増して行き、厚い硝子窓をがたがたと揺らす。何処かで腹を空かせたずぶ濡れの仔犬が彷徨っているような気がして闇の隙間を凝視してしまい、白樺将校の呆れたような溜息を聞いて気まずそうに苦笑した。
 止め処なく轟く空の唸り声にいつかの裁判を思い出していると、先程呼んでおいた送迎車が店の前に滑り込んで来た。会合は今度こそお開きとなった。

– – – – –

 数時間前、晴れ渡った夕空に一点の孤独な雨雲が漂っていた頃、路辺の出店で饅頭を売っていた商売人の男が店を畳む準備に取り掛かっていた。
 そこへ一人の幼い子供がやって来て、四つ下さいなと小銭を差し出すので、男ははにかんで袋に五つ饅頭を入れて子供に持たせた。丁度この五つで完売だ。
 車道を挟んだ反対側の歩道で姉と両親がにこやかに見守っている。男の意図を理解した少年が歯を見せて笑い、白い饅頭を一つ手に取って口の中に放り込もうとした時、視線を感じて建物の隙間を見やった。
 路地裏に繋がる細い道路の影に二つの眼が浮かんでいた。眼球は少年の手にある饅頭を凝視しており、少年は思わず饅頭を落とし、泣きながら母親の元へと退散した。異変に気付いた店主が柱に立て掛けていた竹箒を掴んで眼球に殴り掛かった。
「失せろ、乞食め!」
 少年は母親に抱きしめられながら箒の音がする方を恐る恐る覗いた。遠くの物陰なのでよく見えないが、店主は足元に蹲る何かを頻りに叩いている。饅頭のように丸まっていたその何かは首を擡げて再びぎょろりとした眼を此方に向けて来た。
 あれは何なのだろう。
 少年が純粋な好奇心を抱いたその時、父親が少年から袋を奪い取って強引に家族達の背中を押した。見てはいけないと解りながら少年が眼の方へ視線を返していると母親に頭を叩かれてしまった。
 店主の大声と激しい音が人通りの少なくなって来た街路に響き渡った。
 近頃は饅頭の売れ行きが良い。最近まで震災復興で忙しなかったこの通りも有志や軍の助力もあって大分落ち着いて来た。だがいつの時代にも貧困という物は無くならず、綺麗に舗装された表通りの隙間から路地裏に入るとそこは浮浪者や失業者のたまり場となっている。特にこの近辺では炊き出しが行われているのでそういった類の人間が寄り付きやすい。昔と比べると外国人の旅行客も増加し、潔癖な彼らの前に帝國の穢れを見せまいと、人の往来がある街路では警官や憲兵らが巡回して浮浪者達の粗相を取り締まっている。必然的に彼らは日陰へと追いやられてしまうのだが、こうして時折監視の目を掻い潜って物乞いにやって来る。
 鼻の頭に雫がぽつりと落ちて店主は我に返り、ごほごほと咽る『それ』に向かって唾を吐くと、饅頭を拾い上げて塵袋に放り込んだ。店仕舞いに勤しんでいる間にも雨粒は大きくなっていた。
 やがて水滴が激しく地面を打ち鳴らし始め、靄の掛かった通りに街燈が灯った。
 商売道具を抱えて去って行く男をぼんやりと見送り、渋谷史人は光から逃げるように路地裏へ引っ込んだ。
 電燈の薄明りを頼りに闇の奥深くへと進む。塵や犬猫の糞尿に足を取られながら集合住宅の合間の路地を歩き続ける。住宅の裏手に流れる大きな川を越えると、その先には東山と呼ばれる山岳があり、これを越えると帝都の外に出る。自分は今、帝都の最果てに居るのだ。
 山の麓に老朽化した小屋のような木造住宅がある。
 元の住人は随分と前に移住したのか長い間手入れをした形跡が無く、震災の影響もあってか今にも崩れてしまいそうだが、取り敢えず屋根があるだけ幸せだ。行く先々で余所者や新参を毛嫌いする先人達に追い払われ、長い放浪の果てに漸く見付けた自分だけの空間だ。
 灯りは無い。手探りで玄関口から囲炉裏のある座敷まで行くと、襤褸の毛布を掴んでそれに包まった。屋根が吹き飛んでしまわないかと不安になりながら窓の悲鳴を聞いていた。
 ここ数日、渋谷はごく僅かな山菜だけで飢えを凌いでいた。街中にある塵箱を漁って誰かが捨てて行った生ごみや菓子の欠片などを食べてみたが、盛大に腹を下して地獄を彷徨い、それ以来、人の廃棄物には手が付けられなくなった。食堂の残飯は熾烈な競争を勝ち抜いた者のみが獲得出来る。一度だけパンの耳を得られたが、それを食べようとした矢先、数名の浮浪者達に囲まれて袋叩きにされた。腕に出来た痣が今でも痛む。
 山菜は貴重な食料ではあるが採取出来る量が少なく、健康的な若者である渋谷には霞に等しい。加えて、知識などは軍学校である程度学んだもののハズレを引いてしまう事もある。そうすると下痢や嘔吐が丸一日続き、脱水症状により死の世界を垣間見る。この食事を続けるにも限界がある。一分一分が経過するにつれて脳が蕩け、胃を抉るような飢餓に体力を奪われる。
(……腹が減った)
 炊き出しの場で予想外の喧嘩に巻き込まれてしまった事が悔やまれる。
 支給された茶碗に少しの白米を食べようとした時、浮浪者達の間で特に頼りにされているらしい屈強な男に茶碗ごと食事を奪われてしまったのだ。彼らは、何事かと憤怒の表情でやって来た割烹着姿の女性達に、渋谷こそが食事を奪おうとした盗人だと主張した。勿論渋谷も負けずに無実を主張したが多勢に無勢だった。誰もが男の肩を持ち、その訴えを信じた女性達は渋谷に炊き出しへの出入りを禁じた。顔を覚えられてしまったので、こっそり列に並んでみても直ぐに誰かが飛んで来て、犬を追い払うように棒で叩かれた。
 たまに目覚めた時に空腹感が和らいでいる事があるが、これは自分が眠っている間にもう一人の方が活動してくれた成果だと思われる。そのおかげでひと月近くを生き長らえて来た。彼は自身の考えに基づいて行動しており、それは闇雲に動いている自分よりも現実的且つ確実だ。結局ここでも自分が足を引っ張っていると痛感した。自分には見えず、彼には此方が見ているのであれば、いっそ彼に全てを委ねた方が余程良い生き方が出来るのでは無いかとすら思うが、憎らしい事に目覚めの時はどう足掻いてもやって来る。
 渋谷は感覚を無くした指先で毛布を握り締め、その場にゆっくりと横になった。明日は今日よりも腹が満たされていて欲しいと淡い希望を抱いて目を閉じた。
 手段など選んで居られない。たとえ誰かを傷つけてでも、人の道理に反する行いをしてでも、満たされる為ならば何でもする――そう考えられたらどんなに楽だろう。いっその事、外道へ堕ちてしまいたい。
 そんな思考に傾倒する度に亡き恩師の顔が脳裏を掠めて踏み止まる。この箍が緩めばいずれ自ら一歩を踏み出せる時が来るのだろう。事実、それは思考力の低下と共に徐々に緩み始めている。
 手には常に御守りを握り締めている。放浪当初にあった小金は数日経たない間に費えてしまい、この御守りだけが手元に残った。これを握っている間は正気を保っていられた。
 チリン、チリンと鼓動に合わせて鳴る鈴の音を聞きながら、渋谷は浅い眠りに就いた。
 軍学校を追い出された後、渋谷は真っ先に孤児院へ向かった。
 帰る家と言えばそこしか無く、働くにしても一先ず身を寄せる場所が欲しかった。元より軍学校への進学は自分自身の希望では無い。当時孤児院の最年長だった自分に院長が孤児制度を利用して進学するように言って来たので素直に従っただけだ。退学は恥ではあるが、己の将来について真剣に考える良い機会だと思った。
 見覚えのある街路に差し掛かり、昔を懐かしみながら歩いていると、孤児院がある方角の空が妙に明るい事に気付いた。この近辺は特に浮浪者が多い。彼らが焚火でもしているのかと思いながら街角を曲がり――渋谷は立ち竦んだ。
 煙と火の粉が夜空に立ち昇っていた。
「か、火事だ!」
 人通りの少ない静かな場所で渋谷は力の限り絶叫した。孤児院の両隣は公園となっており、人の住まう隣家まで距離がある。然し静寂を突き破る叫び声に何事かと顔を出す者がいた。
 近くの交番に駆け込んで警官を率いて戻ってみると、近隣の住人達が水道の共用栓を解放して鎮火に勤しんでいた。警官達もそれに続いて消火活動を行った。
 渋谷もそれに参加しようと身を乗り出した時、遠くから悲鳴が聞こえた。
 出掛け先から戻って来たらしい孤児院の人間達が呆然と火事を眺めていた。大勢の子供達が泣き叫び、大人達に抱きしめられている。
 院長の姿を見つけた渋谷は彼女に話しかけようとして、足を留めた。
「全部あの疫病神の所為よ。折角厄介払いが出来たのに、どうしてこんな事に……」
 無意識のうちに顔を背けていた。
 同じようにその言葉を耳にした野次馬が噂話をし始める。
「ここって渋谷史人の出身でしょう。あそこの窓が割れているのが見える? 石を投げられたり、子供が追いかけ回されたり、兎に角、酷い嫌がらせが続いていたそうよ。子供達には何の罪も無いのにねえ」
「もしかすると放火犯はその渋谷かも知れないぞ。奴は判事達を騙くらかした狡猾な詐欺師だって話じゃないか。自分に同情を集める為にわざとやったんだ」
 慰めようと集まって来る野次馬達に反して足が後ろへと下がる。子供達の金切り声が幾多も重なって鼓膜が震え、心臓を抉られているような気分になって踵を返した。その矢先、後ろから誰かに肩を掴まれた。
「おい、あんた渋谷君じゃないのかい」
 数人がそれに気付いて注目する。渋谷は咄嗟に俯いた。そして顔を覗いて来ようとする男を振り払うと一目散にその場を逃げ出した。
 それからは後先も考えずに只管宵闇を走った。もしあの場で名乗り出ていたら、いつか軍学校の同級生達にされたように集団で袋叩きにされると思った。
 見知らぬ遠い場所に行きたかった。
 足が動く限り走り続けて、気付くと夜が明けていた。
 帝都の外には出ていないようだが見覚えの無い田舎だ。田園の間を駆け抜け、海原を一望出来る丘の上までやって来ると、ついに膝を突いて地平線から覗く朝日を見た。チリン、と懐で音がした。清らかな朝の風が涙にまみれた頬を優しく撫でていた。
 その後、風の噂で孤児院の人間達が遠い西の街へ去って行った事と、自分が放火犯として指名手配されている事を知った。
 最早、己の無罪を主張する気力など残されていなかった。
 帰る家も無ければ所持金もごく僅かだ。一日中、田舎の家を一軒ずつ周り、家事でも農作業でも何でもやるからと地べたに額を擦り付けて一宿一飯を願った。然しこの近辺の人間は貧困者が多く、素性の知れない者の世話など出来ないと突っぱねられた。誰かに役所へ行けと言われたが、指名手配されている今、街中に出て行って警官に見付かったらまた豚箱に入れられるのでは無いかと恐ろしくて堪らなかった。
 所持金が徐々に減って行く恐怖に怯えながら渋谷は仕事を探した。日雇いでも何でも仕事が見付かれば当面の生活は何とかなると思って駆け回ったが、甘かった。
 堅い職業は門前払いで、行き着いた先は街外れにある紡績業の小さな工場だった。
 シカタという偽名を使用し、泊まり込みで仕事をする事になったが、これが地獄だった。自分の他には年の若い子供か女しか居らず、自分と同じ孤児か身売りに出された者が殆どで、監獄よりも狭く衛生が悪い寄宿舎に男子も女子も畜生のように押し込まれていた。夜明け前から監視役に叩き起こされ、豚の餌のような食事をした後は一日中立ちっぱなしで糸を作った。
 渋谷は珍しい成年近い男子という事もあって専ら虐待の対象だった。食事を抜かされた時は作業の最中に倒れ、一晩中、身体の随所を木刀で殴られた。ここでは人材など消耗品に過ぎず、逃げ出しても死ぬだけだという洗脳によって身動きを封じられる。病気になったとしても、完全に使い物にならなくなるまで働かされるだけだ。
 工場全体がタタリ場では無いかと思う程に穢れており、充満するそれに咽ていると睨まれるので必死に耐えた。
 一週間が経過した頃に渋谷は音を上げ、深夜に寄宿舎を抜け出した。
 財布や鞄などの所持品は入社当初に全て没収されており、御守りだけを持って逃げた。工場での虐待と放浪生活により渋谷はすっかり疲弊していた。髪と髭が伸びて元の容貌の名残が無く、風呂に入っていないし歯も磨いていないので身体中から獣のような臭いがした。
 ここから浮浪生活が始まった。
 自分と同じような人間は帝都に大勢居た。彼らは人の眼を逃れるように日陰で生活を送り、たまに欠けた茶碗を持って道端で物乞いをしていた。渋谷にはどうしてもその真似が出来なかった。虚ろな目で茶碗を上下に揺らし、それまでに獲得した小銭をチャリチャリと鳴らして道行く人々を追い掛ける、そんな彼らが怪奇に見えて仕方が無かった。人としての尊厳も姿形も失った化け物だと思った。
 公園などに屯している集団に遭遇した時は最悪だ。彼らは縄張り意識が強く、『狩り』の場を邪魔したり機嫌を損ねるような真似をしたりしようものなら袋叩きにされる。此方が得た物であっても群れを成して奪いに来るので、街中で狩りを行う時は成る丈彼らに気付かれないように動かなければならない。仲間に入れてくれと幾つかに打診した事もあったが、年配の彼らは若者を嫌悪して外方を向くだけであった。
 院長の言葉がいつまでも心に残っている。
 ――疫病神。
 己の身体には臭気と共に穢れが纏わり付き、それは鈴を鳴らしても祓えられない。この姿を見た人間は誰もが目を逸らし、鼻を摘まんで去って行く。光を無くした瞳、それを覆う長い髪、汗と脂にまみれた肌、糸を紡ぎ続けて裂けた指――その姿は正しく疫病神と呼ぶに相応しい物だった。
 自分は何故こんなにも莫迦なのだろう。
 些末な誇りなどかなぐり捨てて乞食になればいいのに。
 盗みはどうだろう、畑に行けば食料が沢山ある。
 いっそ豚箱に入った方が幸せなのかも知れない。
 同じような事を何度も考えて、考える度に己を責め立て、そして今は考える事すら辞めてしまった。身体も思考も穢れに蝕まれ、今は只静かに、然し着々と死へと近付いている。

 明くる日も渋谷はずぶ濡れになりながら街中を彷徨っていた。
 連日の雨で人影が少ないせいか、箍が一つ外れ、文字通り犬のように這いつくばって塵箱を漁った。偶然通りかかった紳士淑女が通報しようかと相談し合っているのを見ては逃げ出し、浮浪者達の溜まり場に近付かないようにして彼方此方を駆けずり回った。
 そして幸運は突如やって来た。広場の時計塔が午後六時を差した時、道端の水溜まりの中に小銭を一枚見つけた。渋谷は素早くそれを掻っ攫って物陰に隠れた。
 一銭銅貨。安いパン二つ分だ。
 目に光が戻る。小躍りしたい気分だったがあまり騒いではハイエナどもに見付かってしまう。それを御守りと一緒にズボンのポケットに押し込んで、来た道を引き返した。
 その時、雨音の間から鈍い音と男の怒号が聞こえ、同時に、少し前に漁っていた塵箱が物陰から転がり出て中身をぶちまけた。
 目前で生じた突然の出来事に渋谷は身体を強張らせた。
 耳を澄ましてみると、どうやら数人で一人をいたぶっているらしい。浮浪者の争いなのか血気盛んな若者の喧嘩なのかは分からない。
 渋谷は急いで進路を変えた。このまま真っ直ぐパンを買いに行こう、きっと喧嘩を吹っ掛けられた人間も悪なのだ、それを救ってやる義理など無い、今の自分には他者を気に掛けるだけの余裕などありはしない、そんな事を呟きながら裏道を進んで行く。
 声が届かない場所まで辿り着いた時、渋谷は拳で壁を殴りつけた。
 心臓が痛い。こんな状況でも鬼畜になり切れない、見て見ぬ振りが出来ない臆病者の己が情けない。あの街角の影で誰かが自分と同じように苦しい思いをしている、だがそれがどうしたのだと言ってのける勇気が無い自分が憎たらしい。
 足元に転がっていた手頃な石を三つ拾い上げると、先程倒れた塵箱を目掛けて投げ付けた。一つ目が塵箱を弾いて大きな音がした。
 恫喝が止んだ。ぬっと路地から出て来たのは、いつか炊き出しで渋谷から茶碗を奪ったあの屈強な男とその取り巻きだった。
 渋谷は瞬時に身を隠し、彼らが背中を見せた隙に再度石を投げた。一つが取り巻きの後頭部に命中した。鬼のように目を吊り上げた男達が此方へやって来ようとして、街路の向こうに警官を見付けて舌を鳴らした。
 これは渋谷にも幸運だった。傘を差している警官は彼らの姿を見付けるなり「オイッ」と声を掛け、顔色を変えた男達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。何かあったに違いないと察した警官は渋谷の眼前を通り過ぎて彼らを追い掛けた。
 ざあざあと降り頻る雨に視界を遮られながらも、渋谷は塵箱の向こうの物陰を見詰めた。
 誰かが倒れている。起き上がる気配が無く、最悪の事態を想像した渋谷は慌てて駆け寄った。そしてその姿を間近に見るなり息を呑んだ。
 初めに視界に飛び込んで来たのは、まるで雪原のように白い髪だった。老人かと思いきや顔を覗き込むと自分と近い年頃の若者で、肌の白い、あの少年探偵を彷彿とさせる帝國人離れした彫りの深い容貌だった。髪を後ろで乱雑に一つに纏め上げており、長さが疎らな前髪は左目をすっぽりと覆うほどに伸びている。この肌寒い雨の中、自分と同じ白い長袖のシャツ一枚と薄手の黒いズボンといった簡易的な姿で、所々に暴行を受けた痕跡があった。そして彼の身体には僅かな穢れが纏わり付いていた。
 瞼がぴくりと痙攣するのを見て渋谷は彼の肩を揺らした。
「大丈夫か?」
 外国人かと思って外国語で語り直そうとした時、青年は顔を渋谷の方に向けて目を開いた。前髪がはらりと揺れて左右の瞳がはっきりと見え、渋谷は大きく瞠目した。
 右はくすんだ灰、左は鮮血を思わせる毒々しい赤。人間の物とは思えない赤色の硝子玉を渋谷はぽかんと口を開けて見詰めていた。
 青年が弱々しく咳き込んだ。地面に飛び散った物を見て渋谷は更に目を丸くした。喀血しているには間違い無いが、その血はインクのように黒々としている。げほげほと咳をする度に黒い液体が唇から流れ落ち、雨と混じって白い皮膚にじわりと広がった。
 我に返った渋谷は自分の頭を数度叩くと、
「医者だ、とにかく医者に見せないと」
「いいよ。いつもの事なんだ」
 青年が流暢な帝國の言葉で答える。苦しそうだが声色は恐ろしく冷静だった。その身形は暴行を受けた痕跡を除いても宜しいとは言い難い。身体から放たれる常人とは異なる臭いに自分と同じ浮浪者の気配を感じ取った渋谷は、彼に手を差し出した。放ってはおけない。
 青年は渋谷の手の平と瞳を交互に見比べていたが、やがてその手を掴んで身を起こした。立ち上がった青年は渋谷よりも少しだけ背が高かった。
 時折自分の胸を掴んで嘔吐くので、渋谷は彼の手に御守りを握らせた。
「持ってろ。落ち着くから」
 青年は薄汚れた御守りに目を落とし、「ヘンな奴」と笑みを零した。
 渋谷は彼を自分の隠れ家まで連れて行った。
 市販の薬は安い物で二十銭ほどする。怪我が酷いようなら近くの病院を頼ってみるのも手かと思ったが、橋を越える頃には青年も自力で動けるようになっていたので、渋谷は玄関先に彼を降ろすと一銭銅貨を握り締めてパン屋へ走った。汚物を見るような眼を向けられても、嘲笑されても、今は奇妙な使命感に突き動かされていた。
 帰宅すると青年が座敷へ移動していた。
 あんぱんが二つ入った袋を差し出すと、毛布に包まって横たわっていた青年は目を開けて渋谷を食い入るように見詰めた。そして可笑しそうに笑いながら身を起こし、パンを一つもぎ取って勢い良く貪った。
 渋谷も離れた壁際に腰を下ろして懐かしい歯応えを味わった。甘い香りと柔らかい感触が何よりのご馳走だった。
 これが彼――ハイネとの初めての出会いだった。
 姓なのか名なのかは分からない。渋谷と同じような孤独な浮浪者らしいが、彼はそれ以上の素性を語ろうとはせず、渋谷も追究をしなかった。
 夜が明けてもハイネは眠っていた。渋谷は毛布越しに彼の安らかな寝息を確認し、パンの潤いが途切れない間に次の獲物を探しに出掛けた。
 この日も雨だった。あの連中が投石の犯人捜しをしていないかと怯えていたが、どうやら駆け付けた警官が良い目暗ましになったようで、彼らが再び現れる気配は無かった。その一方で幸運も続かず、行動範囲を広げて分厚い雲の向こうの太陽が落ちるまで近辺を駆け回ったが、残念ながら目ぼしい物は得られなかった。
 帰り際に山菜を幾つか採って小屋へ戻ると、そこで驚くべき光景を目の当たりにした。
 何処から火種を仕入れたのか座敷の囲炉裏に火が灯っている。夕陽に似た橙の明かりがハイネの白い顔を照らしていた。回復したら何処か余所へ行くだろうと思い込んでいた渋谷は彼が再びここへ戻って来た事にまず驚いていた。
 そしてハイネは焚火に向けて丸い生き物を垂らしていた。
 鼠だ。生きた鼠の尻尾を掴んで身体を炙っている。鼠はギイギイと悲鳴をあげて火から逃れようともがいていたが、やがてゼンマイが切れたように動かなくなった。穢れにも見える黒い煤が骸から立ち昇っていた。
 彼の傍には泥が付着したままの野菜がごろごろと転がっていた。他にも欠けた茶碗や燐寸などの生活用品が幾つかあり、茶碗には渋谷が桶に溜めておいた雨水が入っていた。
「まさか、盗んだのか?」
 複雑な顔の渋谷とその手にある山菜を一瞥し、ハイネが気だるげに頷いた。
「草よりマシだよ。誰も見ていないんだから拾った物と同じさ」
 この状況で他人への迷惑など考慮していられない。これまでに遭遇して来た浮浪者集団の中にも、窃盗団に近い物が沢山あった。
 それでも――。
「盗みは駄目だ。人道に反する事だ」
 渋谷にとって盗みは受け入れ難い行為だった。それを受け取るのは、相手の行動を認め、それに自らも染まる事を意味していた。一度でも染まってしまえばいずれそれが常となって後戻りが出来なくなると思った。
 ハイネは渋谷を見て一笑した。
「名前、何だっけ」
「……シカタ」
「シカタは良い子だねえ」
 良い子、という言葉が胸に突き刺さった渋谷は立ち竦んでしまい、反論の刃を向けられずに言い淀んでいるとハイネが上目遣いに見上げて来た。
「でも俺は悪い子だからさ」
 ふざけたように言って野菜の山から胡瓜を一つ手に取る。
 爽快な音を立てて咀嚼するのを眺めていると腹の音が鳴った。恥を覚えて俯くが、やはり視線は野菜の方へ向いてしまう。握れば潰れてしまいそうな山菜とは違う、質量がある瑞々しい存在が渋谷の心を惑わした。
 ハイネが胡瓜をもう一つ取って渋谷に投げて寄越した。
「一銭も胡瓜も明日は在るか分からない。ここはそういう世界だよ。道理は腹を満たしちゃくれないぜ」
 その言葉には己の行いに対する躊躇いなど微塵も感じられなかった。おそらく彼は今までもそうやって生きてきたのだろう。
「で、でも」
「その道理が自分の命より大事だと言うなら好きにしなよ。世間様に義理立てして野垂れ死ぬのもお前の自由さ。とにかくパンの礼はしたからな」
 山菜が零れ落ちて、胡瓜だけが残る。冷たい感触を両の掌で確認する。
 悪魔の囁きだった。脳天を殴られたような衝撃に目が眩んだ。
 その囁きは渋谷が何度も考えては目を逸らして来た本音の部分だった。どんなに貧しくなっても倫理に反する事をしてはいけない、そこまで堕ちてはいけない、そうやって厳しく己を律する一方で、もうどうだっていい、どうにでもなってしまえと全てを放棄してしまいたい気持ちが密かに燃え滾っていた。
 これまで必死に守って来た一線が、己の内で蠢く物を抑えていた理性が、呆気なく瓦解しようとしていた。今のこの姿を恩師が見たら何と言うだろう。今ここで自分が屈してしまうのは、鬼頭や、あの事件の解決に協力してくれた全ての人々に対する背徳行為なのに。
 もう一人の自分は? 話によると自分と違って誠実で正義感の強い好青年だそうだ。今も此方を見ているならきっとこう言っているだろう。「よせ、やめろ」「俺の努力を無駄にするのか」「だからお前は駄目なんだ」……。
 気が遠くなるような時間、我慢に我慢を重ねて耐えて来た一か月が白んで行く。胸の底から込み上げて来る欲望が五臓六腑を支配する。
 渋谷は息を荒げて胡瓜に喰らい付いた。
 足元から崩れ落ちる。膝を突き、味わう暇も無く胡瓜の肉を噛み砕く。一歩を踏み出してしまった事への後悔と、言い知れない幸福を覚えている事への羞恥に身を焼かれた。結局自分は誰かに許して欲しかったのだ。一歩を踏み出す勇気が無いから背中を押して貰いたかったのだ。自分を押し留めていたのは自身の倫理観では無く、誰かに咎められる事への恐怖心だったのだ。第三者の二言三言で翻ってしまうような薄弱な意志に反吐が出そうになった。
 獣と化した渋谷にハイネは薄笑いを浮かべ、彼の目の前に次々に野菜を並べ立てた。二人は無言でそれらを食した。
 手持ちの野菜が全て腹の内に収まり、渋谷は自然な眠気を感じて横になった。
 ふと、薄っすらと目を開けた時、焚火の向こう側に白い縄のような物が見えた。ハイネの手の平に鼠の死骸が仰向けに寝転がり、縄の頭はそれに向かってゆっくりと伸びている。細身の身体が焚火に照らされて神々しく光っていた。
 それはハイネの髪色と同色の白蛇だった。主君の腕に絡みつきながら鼠の死骸を興味深く見詰め、赤い舌で毛皮を舐めまわし、剥き出しになった胸部目掛けて牙を突き立てた。あんな細い身体でどうやって鼠を食べるのだろうと考えていると、皮膚を裂き、穢れた心臓を抉り出すので渋谷はヒッと声をあげた。
「俺が殺したモノしか喰わないんだ」
 ハイネは蛇の捕食を愛おしそうに見守っている。
 何処に隠していたのだろうか、少なくとも昨日は見掛けなかった。両目はハイネの左目と同じ真紅で、神秘的な眼差しが飼い主のそれと似ている。心臓を食べ終え、今度は抜け殻のように残った鼠を頭から丸呑みする。幅が一回り大きな鼠の骸が細い身体にみるみる吸収されて行く光景は圧巻だった。
 ハイネは食事を終えた蛇を自分の腹の上に乗せ、渋谷と同じように横たわり、蛇を覆い隠すように毛布を被った。
「……なあ、具合はもう大丈夫なのか? 随分と酷くやられていたな」
 渋谷は自分の腕枕に頭を置いてハイネを眺めた。腹が満たされて心に余裕が出来たからか妙に彼の素性が気になった。
「俺が連中の客を横取りしたって一方的に因縁を付けられてね」
「客?」
「この近くに夜鷹亭ってカフェがあって、そこの二階が売春宿なんだ。普段は女給達が小銭稼ぎをしているんだが、店主に相談したら俺のような野良にも使わせてくれる。お前も盗みが嫌だと言うならやってみると良い。今も昔も飢えた奴ばかりだ、客には事欠かない」
 如何に鈍感な自分でもその言葉が何を意味しているのかは分かる。渋谷は耳まで真っ赤にして目を伏せた。売る側にも買う側にも一生無縁だと思っていた。具体的な仕事内容は分からないが、それが出来るかと問われたら答えは間違い無く否である。
 意外な反応を見せる渋谷を興味深く見ていたハイネは、ふと、思い出したようにズボンのポケットから御守りを取り出して彼に投げ付けた。
 渋谷は慌てて手を伸ばし、それを受け取った。チリンと揺れる鈴が優しい熱を帯びていた。
「お前の得物だろ」
 ハイネの言葉に、ハッと目を瞠って身構える。
 過去の経験が瞬時に蘇って吐き気すら覚えた。石でも投げて来るかと上半身を起こして彼を睨み付けるが、ハイネは相変わらず含み笑いをしている。
「何もしやしないって。知り合いと同じ匂いがしたんだ。穢れとか怪奇を祓う連中、何て言ったかなあ」
「怪奇探偵」
「ああ、それ。穢れを祓うだけで稼げるんだから、けっこう儲かってるんじゃないの」
 屈託の無い様子に毒気を抜かれてしまう。これまでとは異なる親しげな反応に渋谷は戸惑いを覚えた。
「怪奇探偵と聞いて驚かないのか」
「別に。何で?」
「この名を聞いたら誰もが顔を顰める」
「そういう奴はその世界を知らないだけだよ。穢れは誰しも持つ物だが人の眼には見えず、平凡な生活を送っていれば怪奇になど遭わない。自分に見えていない物は存在しないに等しいってもんさ」
 何かを悟ったような物言いをする。この男はやはりその辺の浮浪者とは異なる、只者では無いのだろうと渋谷は確信していた。少なくとも無知蒙昧な自分よりずっとその道を知っているような口ぶりだ。
 渋谷は暫く考え、再び仰向けに寝転がった。
「……俺は探偵じゃないよ。憧れはあるんだが、俺にはあの子のような器量も才も無いし。莫迦だよな。少し見えるっていうだけで、まるで自分が特別な存在であるかのように勘違いして……」
 御守りを見ながら、圧倒的な力で怪奇を退治した少年の姿を、あの身震いするような清浄の力を思い出す。
 初めての邂逅から渋谷は彼に――怪奇探偵ニコに憧れを抱いていた。
 彼は自分が欲してやまない物を全て持っている。探偵としての能力然り、何物を前にしてもぶれない自己、己を信じ抜く強い意志、人を惹き付ける資質、挙げたらきりが無いほどの物を。もう一度彼に会いたいという気持ちは勿論あったが、今となってはこの穢れた姿を晒すなど惨めでしかない。
「あの子」 と、ハイネが密かに口角を上げる。
「それに、怖いんだ。何より人が怖ろしくて堪らない。怪奇探偵と言うだけで寄って集って罵られ、蔑まれ……。連盟があるからには探偵を名乗る者はそれなりに居るんだろうが、彼らは辛く無いんだろうか? ……いや、俺じゃないんだからきっと平気なんだろうな」
 怪奇探偵と言えばニコくらいしか知らないが、おそらく何処かで活躍しているであろう探偵達も、ニコと同じように心が強く、自分と違って帰る家や愛する家族が有るのだろう。
 ニコのように強い存在になりたかった。今ここに居るのは、己の心一つ定められず逃げてばかりの脆弱な負け犬だ。
「挫折を味わって、ここまで逃げて来たってわけかい」
 ハイネの興味が渋谷の素性に向く。
 思い出すのも抵抗があるが、今はこうして言葉を交わしている方が心の慰みとなる。忌憚の無い扱いを受けるのも、人とまともに会話をするのも久し振りだ。先程犯してしまった罪の意識から目を逸らし、誰かと共に居られる安心感に浸っていたい。
 腹の上で御守りを握り締め、自分の身に起きた出来事を概括して語った。独り言のようになっても構わない。心の内に秘めて来た物を只管に吐き出したかった。
 普段から新聞を読まないハイネは軍学校の殺人事件を初めて知ったようだった。相槌の一つも打たず時折欠伸を交えながら聞いていたが、やがて渋谷の独白が終焉を迎えると、
「良い子ちゃんだなあ。結局やられっぱなしじゃないか。今からでも連中をとっちめて尻の毛まで毟り取ってやればいいのにさ」
 そう言って呆れたように溜息を吐いた。
 自分を追い込んだ者達への復讐心はあった。手塚判事に接触を図って今度は此方が彼らを訴えてやろう、法廷乱入の罰則金が百圓なら自分もそれなりの金が貰えるかもしれない、と。然し考えていても虚しくなるだけだった。
「それがまた争いの種になるかもしれない。そんなのもう沢山だ」
 綺麗事を言っているようだが逃避する建前に過ぎない。たとえ彼らを訴えた所で此方の味方がどれだけいるだろう。ニコ、手塚、冴島、十河――あの事件で協力してくれた者達は、各々の細かな思惑は違えども、渋谷そのものでは無く『怪奇』という不可思議な要素があったからこそ力を貸してくれたのだ。渋谷個人が復讐心で事を起こした所で誰が手を差し伸べてくれるだろうか。
 これ以上失望されたくなかった。誰にも見放されたくなかった。傷付いて、また何かを失ってしまうくらいならたとえ臆病者と嗤われても我慢している方がずっと良い。
 再度緩やかな眠気が押し寄せて来る。そろそろ眠ろうと焚火に背を向けた時、
「さて、最大の謎を探偵君はどう料理するのかな」
 同じように眠気に従おうとしていたハイネが瞑目したまま呟いた。
 その一言は渋谷の意識を瞬時に覚醒させ、身体を反らして彼の方を見た。
 謎など何も残っていない筈だ。清浄の光に包まれた怪奇達は安らかに眠りに就いた。自分自身が肌で感じた温かい風も、この手で恩師を黄泉の國へ送り出した事も、今でも鮮明に思い出す。
「謎って何だよ」
 思わず身を起こして問いただす。
 ハイネはそれを無視し、髪を縛っていた紐を解き、その手で焚火に灰をかけて消火すると、毛布を深く被って犬のように丸まった。
 それ以上の反応は期待出来そうにない。沈黙の中、闇の向こうを睨んでいた渋谷だったが、やがて諦めて再び横たわった。
 最大の謎。――どんな謎があると言うのか。
 ぶるぶると震えあがる。神のような存在に雲上から睨みつけられている、そんな居心地の悪い気分を抱えながら、人肌と同じ熱を帯びた御守りを確りと握って目を瞑った。

 雨音しか聞こえない深い夜の中、ハイネはゆっくりと目を開けた。
 稲光がして囲炉裏を挟んだ向こう側の少年が一瞬だけ見える。それに向かってにじり寄り、彼の頬に手を伸ばすと、シャツの袖の下から蛇が顔を出した。
 蛇は渋谷の顔を鼻や舌で嗅いでいた。この相棒が自分とは無関係の人間に興味を示すのは大層珍しい事だった。どうやらこの少年を気に入ったようだ。
 ハイネが少年の首に手を添えた時だった。
 稲光と共に雷鳴が轟いた。
 カッと目を見開いた渋谷はハイネの手首を捻じ伏せ、蛇を薙ぎ払い、猫のようにしなやかな動きで壁際まで退いた。
 ハイネは痛みの残る手首を見てその残り香を嗅ぎ、にやりと笑った。地面に叩きつけられた蛇を抱き上げる。蛇は彼に縋り付くように胸元を這い、衣服の隙間からずるずると中へと入って行った。
 白髪を掻き上げて赤い瞳を晒し、暗黒に潜む狼を見極める。
「匂いが変わった」
 渋谷は彼と一定の距離を保ちつつ、いつでも逃げられるようにゆっくりと出入り口へと移動した。闇の中でも薄っすらと見える瞳が動きに合わせて追い掛けて来る。
「お前は一人目? 二人目? それとも……」
 この男にだけは近付いてはならない。
 身体の芯が未知の脅威に対して震えていた。
 計り知れない悪しき気配が彼の全身から滲み出ている。あの鎌鼬と相まみえた時に感じた、人ならざる物に対する恐怖と同じ物が押し寄せて来た。少しでも隙を見せてしまったらあの鼠と同じように喰われてしまうのでは無いかとすら思った。
 ハイネが馴れ馴れしく一歩近付いて来る度に、渋谷は出口の方へと進んで彼と距離を取った。
「そんな怖い顔するなよ、シカタ。俺達はきっと似た者同士だよ。仲良くやろうじゃないか」
 心底愉快そうに口元を緩ませ、更に渋谷の方へ歩み寄り、手を差し伸べる。
 渋谷は一層険しい表情で闇の中の赤を睨み付け、
「失せろ」
 と、鋭い一言を放った。
 ハイネは闇に浮かぶ渋谷の全身を眺め、一歩、また一歩と距離を縮めたが、あともう少しで彼に手が届くと言う時、息を詰まらせて立ち止まった。臓腑を抉られているような激痛が全身の神経を震わせる。己の胸倉を掴み、胃の底から込み上げて来る熱い物をその場に吐き出す。鈍い水の音が空虚に響いた。ハイネは咳き込みながらその場に崩れ落ちた。
 渋谷は彼の苦しそうな声を聞いて眉根を寄せた。
 喀血している。あの黒々とした血を思い出す。彼はやはり病気なのだろうかと悶絶する姿に心を痛めたが、同時に、あの不気味な気配が一層激しく蠢いているのを察して身構えた。
 発作が治まり、ハイネはゆらりと立ち上がった。
 飄々とした調子で渋谷の前までやって来て、彼の肩を撫でるように軽く叩き、その脇を通り過ぎた。渋谷は呼吸を止めて歪な足音を聞いていた。
「また会おう」
 彼はそう言い残し、豪雨の中へと消えて行った。
 暴れる心臓が鎮まるまで暫くの時間が必要だった。ハイネの気配が消えて一時間ほど経過して渋谷は息を吹き返したように大きく息を吐き、壁に背中を預けてずるずると腰を下ろした。肌と言う肌に汗の粒が滲み、シャツをじんわりと濡らしている。
 ――さて、最大の謎を探偵君はどう料理するのかな。
 ――お前は一人目? 二人目? それとも……。
 亡霊が今でも耳元で語り掛けられてくる。頭を振ってその声を払い落とすと、渋谷は囲炉裏まで這って行き、ハイネが残して行った燐寸を一つ刷って火を灯した。床の上に撒き散らされた黒い血だまりがぼんやりと浮かび上がった。
 毒々しい、穢れの気が凝縮して液体になったような色だ。
 指先で黒い水面を弾いた瞬間、稲光がして雷鳴が小屋を震わせた。その刹那、パッと液体が花弁を散らすように霧散し、焚火の煤に混じって宙へと溶け込んで行った。
 渋谷は呆然と立ち尽くしていた。
(何なんだあの男は)
 ハイネが纏っていた毛布は氷を包んでいたかのようにひんやりとしていた。
 彼は果たして人間だったのだろうか。自分は夢でも見ていたのでは無いだろうか。何かが――怖ろしい何かが始まろうとしている、そんな気がして仕方が無い。その不可思議な予感を前に為す術もなく、貧困の沼に捕らえられている自分達をもどかしく思った。
(どうする、史人。俺は……君はこのままで良いのか)
 慄く指先で髪を掻き上げると、拳を握り締め、何度も額をごつごつと叩いた。

 ハイネが小屋を出て行った事は少なからず渋谷の心に影を落とした。
 元より共に行動していたわけでは無い。だが、何処かで彼がまた食料を持って帰って来るのでは無いかと期待し、渋谷は一日中、扉を見詰めながら待っていた。空腹よりも孤独が辛かった。色々と謎の多い男だったが、彼は最後まで話に付き合ってくれた。少しの付き合いだがあの風体も相俟って強烈な印象として残っている。
 ハイネが旅立ってしまったと悟ると、渋谷は再び日常へと戻って行った。然しその心は以前とは異なる。彼に倣い、どうしても踏み越えられなかった一線を超えられるようになっていた。あの野菜の味が、歯応えが、呪いのように頭に張り付いている。あれをもう一度味わえるならどんな苦悶も受け入れようと決心していた。
 その日は夕方に掛けて久し振りに雨が上がっていた。小屋の前に流れる川は数日分の雨を吸って濁流となっていた。相変わらず空は暗く今にも雨粒が落ちてきそうな塩梅だが、それでも雨天よりは人の往来が多い。
 選択肢は二つだ。夜鷹亭か、或いは畑か。
 夜鷹亭と思しきカフェは人通りの多い街路の一角に堂々と存在していた。物陰からそれを確認したが、店頭の掃除をしている女給や白昼にも関わらず男の手を引いて店へ入って行く娘を見ると妙な気分になった。掃除中の女給と目がかち合った時には糞でも見るような目つきで嫌悪を露わにされ、入店どころか近付く事すら許してくれなかった。店主に稼ぎ方を詳しく聞いてみたかったが、どのみちこの調子では客の一人も引っ掛けられないだろう。
 娘達から容赦なく注がれる侮蔑の眼差しと嘲笑に耐えられず、渋谷はこの選択肢を自ら潰した。
 日が暮れる頃に今度は田舎の方へと繰り出した。鼠のように身を縮こませて畦道を抜け、民家の畑の前までやって来ると再び雨が降り始めた。
 これは好機だった。宵闇と雨が人の眼を眩ませてくれる。
 渋谷は高鳴る動悸を押さえると、人目が無いのを重々に確認しながら深呼吸をした。引き返すなら今のうちだぞと誰かが良心に訴えて来るが、覚悟を決めてそれらを振り払い、脇に抱えていた毛布を地面に広げた。
 その拍子に、シャツの胸ポケットの奥深くに仕舞っておいた筈の御守りが毛布の上に落ちた。チリン、と、最後の宣告が胸を打つ。渋谷は目を逸らし、それを掴んでズボンのポケットに捻じ込んだ。
 そしてぶつぶつと何度も謝罪の言葉を口にしながら畑の野菜に手を掛けた。毛布の上に手あたり次第放り込んで行く。手の平から伝わって来る厚みが渇いた喉を刺激した。
 犬が吼え、異変に気付いた家人が懐中電灯を手にやって来た。
 光に照らされ、怒声を飛ばされる。渋谷は毛布ごと野菜を抱えると急いで駆け出した。
 やった。やってしまった。
 見付からなければ拾ったのも同じだとハイネは言っていた。
 では見付かったら?
 考えたくも無かった。どちらにしても罪を犯したのは事実だ。
(どうせ俺は罪人だ。何者であろうと人の目は変わらないんだ)
 何をしても罵られるのなら、いっそ何処までも貪欲に生きて行こうと思った。
 大雨の夜道を全力で走り抜け、小屋の近くの街路まで戻って来た。
 点在する街燈が無人の路を照らしている。追手の気配は無い。ずしりと重みのある包みに思わず笑みが零れた。あの歯応えを思い出し、乾いた口の中に唾液が溜まって一気にそれを飲み下す。朝から何も口にしていないので食欲が限界に達しようとしていた。
 このまま一気に裏路地を駆け抜けて行こうと角を曲がり、更なる闇の中へと身を投じるべく一歩を踏み出した時――。
 渋谷は足を停めた。
 水溜まりを弾く足音が空虚に響き渡る。まさか追手が来たのかと思い、包みを庇うように背中を丸めて壁際に身を寄せた。動悸が激しくなる。今度こそ終わりかと祈るように目を閉じ、此方に迫り来る二つの足音を待ち受けた。
 すると、表通りを誰かが駆け抜けて行った。
 やり過ごせたのだろうか。それを確認しようと通りの方へ頭を擡げた時、今度は中肉中背の若い男が渋谷の眼前を突風の如く通り過ぎた。
「話が違うぞ! あばずれめッ、待ちやがれ!」
 不穏な空気に渋谷はハイネと初めて出会った時の事を思い出しながら、角から恐る恐る二人が去って行った方を窺った。
 後からやって来た男が何かを掴んでいる。縄のように見えたがそれは人の髪だった。
 少女が顔を歪めて悲鳴をあげた。
 藤紫色の矢絣柄の着物と深い赤色の女袴には見覚えがある。全国の女学校の中でも最優秀と名高い帝都女学校の制服だ。
 男は彼女のおさげを片方掴んだまま自分の方へ引き寄せた。
「離して! 私そんな心算じゃ……」
 男から離れようと暴れる女学生の頬を殴り付け、よろめいた所を何度も叩く。彼女が身に着けていた眼鏡が地面に落ち、男がそれを踏み躙った。そしてよろめく彼女を手近な路地の中へ強引に押し込んだ。更に一つ拳を振るったのか物陰からか細い叫び声が聞こえて来た。
(いけない!)
 渋谷は弾かれたように包みを投げ捨て、二人が消えて行った路地へ飛び出した。
 街燈の灯りが男の背中を微かに照らしている。倒れた女学生に跨り、まさにその着物を剥ぎ取ろうとしている所だった。
「やめろ、その子から離れろ!」
 男が振り向き、渋谷の頭から爪先までじろじろと見回す。狩りを邪魔されて立腹したのか拳を振り翳して来るので渋谷は足に力を入れて身構えた。
 身体の奥底に眠っていた軍人教育が瞬く間に蘇った。繰り出された拳をかわして彼の背後に回り、石壁まで押しやってその頭を壁に叩き付けた。
 男は軽い脳震盪を起こし、その場に倒れ込んだ。
 渋谷は間髪入れずに女学生の手首を掴み、彼女を強引に起こして路地裏から引きずり出した。少女は意識があるものの何度も顔を殴られて眩暈がするのか足元が覚束無い。時折崩れ落ちそうになる彼女の手を無理矢理引っ張って、渋谷は雨の街路をひた走った。
 背後から男の怒鳴り声が飛んで来た。憤怒の形相で狼の如く追い掛けて来る彼を確認し、渋谷は路地裏を複雑に走って攪乱した。路上生活の甲斐あってこの界隈の道路は大体把握している。
 交番がある方角へ向かいつつ、やがて男が自分達を見失うまで闇の路を駆け回った。雨と空腹が足を絡め取ろうとして来るが、手に在る仄かな熱だけはけして離さなかった。
 そして目的地まであと僅かと言う時、少女が突如立ち止まって渋谷の手を叩き落した。
 夢中で走っていた渋谷は我に返って彼女の方を振り向いた。
 暗がりだが薄っすらとその姿が見える。彼女はがたがたと震えながら渋谷から距離を取った。乱れた衿元から鎖骨が露わになっている。ずぶ濡れの顔は真っ赤に腫れ上がり、それよりも更に赤い鼻血が傷だらけの肌を濡らしていた。
 溢れる鼻血を何とかしようと渋谷が彼女の方へ手を伸ばすと、彼女は顔を逸らして一歩後退した。壁に背中を擦り付けて鋭い視線を投げ掛けて来る。
 渋谷は視界に入った己の手に目線を移した。
 負の気配が見えた。いつの間にこんなに穢れていたのだろうかと驚いた。こんな汚い手で触れられるなど彼女にとっては脅威に他ならないだろう。それに、自分の容姿は先程の男よりもずっと醜い。男に暴力を受けていた少女にはこのような浮浪者と対面するのも怖ろしいに違いない。
 渋谷は自分のシャツの裾を裂き、布の欠片を彼女に差し出した。
 少女はそれには目もくれず息を殺して渋谷を凝視していた。
「ここを真っ直ぐ行くと交番があるんだ」
 彼女の恐怖を払おうと笑顔を作り、優しい声で語り掛ける。
 険しいまま凍り付いていた少女の顔が歪み、両の目に浮かんだ涙が流れ落ちる。その姿がどうにも痛ましく、恐る恐る距離を詰めて彼女の血と涙を拭った。
 彼女は初め黙って身体を強張らせて顔を背けていたが、
「触らないで」
 気丈な声が妙に渋谷の胸に響き、心臓が大きく跳ね上がった。
 少女は必死に冷静を取り戻しながら、着物の袖で顔を拭い、皺が寄った衿を正した。
 その所作を食い入るように見詰めていた渋谷は違和感を覚え、更に目を細めてその正体を探った。
(穢れている。然し何だろう、この嫌な感じは)
 直感だ。彼女を包み込む穢れは、彼女自身の物と言うよりは何か邪悪な――恩師の時と同じ、誰かの呪いを受けているような感覚がした。かさかさと小さな幻聴が聞こえてくる。
 先程の男から受けた呪いなのだろうか。
 渋谷は布をポケットに仕舞うと、代わりに御守りを取り出した。目を瞠る少女の前でチリンと一つ鳴らし、そのまま彼女の手に握らせる。
「手放すなよ。きっと君を守ってくれるから」
 穢れの正体が判然としていない以上は気休めにしかならないが、これで彼女の心が少しでも晴れるなら十分だ。冷たい少女の手を両手で包み込み、元気付けようと強く握り締める。武骨で皮の厚い自分の手とは異なる、初めてまともに触る女の柔肌だった。
 少女は戸惑いながら渋谷と御守りを見比べていた。
 暫くの間、静かに見詰め合い、やがて渋谷は彼女の背後に回って無理矢理その背中を押しやった。交番は路地を抜けたら目と鼻の先にある。
 深呼吸をして恐る恐る歩き出す少女を渋谷は陰から見守っていた。彼女が無事交番に到達するのを見届けてから小屋へ引き上げる心算でいた。
 数歩進んだ所で少女の歩みが停まった。
 何事かあったのだろうかと身構えていると、彼女が此方を振り向いて駆け寄って来た。
「……あの」
 未だ涙で滲む大きな瞳で真っ直ぐ見据えられる。
「先程は御免なさい。助けて下さって……本当に有難う」
 絞り出すように言って、御守りを握った手で渋谷の手に触れた時、チリンと音がした。
 稲妻に打たれたような気分だった。
 彼女の声も鈴の音も、降りしきる雨の中でしっかりと渋谷の耳に届いていた。視界が悪い暗がりの中でも彼女の顔が明瞭に見えた。いつか最後に恩師と対面した時に見たあの空白の世界のように、自分と彼女の二人だけがこの場に存在しているようだった。
 雨に濡れた彼女の指先から、心地良く、優しい熱が伝わって来る。たおやかな指と比較すると如何に己の手が穢れているのか一目瞭然だった。
 激情が全身を支配した瞬間、それは形となって身体の外へ溢れていた。熱い物が、雨を浴びてすっかり熱を失った皮膚を伝ってぼろぼろと零れ落ちた。
 少女は驚いて大粒の涙を見詰めていた。その円らな瞳にはこの世で最も醜い化物が映っている。
 あれは怪奇だ。生ける屍だ。
 自分と同じ年頃の娘にこの姿を晒している事に、言い知れぬ恥辱を感じた。
 心配そうに顔を覗き込んで来る少女に歪な微笑を向け、渋谷は踵を返して脱兎の如く逃げ出した。
 ここで膝を突いてしまったらそのまま穢れの波に浚われてしまう。そうならないように、最後に残った一抹の良心を握り締めて闇を駆けた。
 まだ間に合う。盗品を主人の元へ戻して、そのまま帝國の片隅に消えよう。孤独でも温かい火が無くとも、一日一銭さえあれば取り敢えず生きて行ける。人の道理を守っている間は人として存在していられる。身売りでも何でもいい、罵られても構わない、人として生きて、それが出来なくなった時は生ける屍となる前に自ら屍となってしまおう。
 先程の路地まで戻って来た。雨を吸った毛布の包みが先程のまま転がっている。布越しに感じる甘美な質量が欲望を刺激して来るが、渋谷はその誘惑を振り切って毛布を抱き上げた。
 振り向いた瞬間、ガツンと頭に衝撃が走った。
 世界が震動して包みを取り落とす。ぼやけた視界に先程の男が映った。
 男は角材を振り上げて再度渋谷の頭頂部を殴打した。
「溝鼠め、ぶち殺してやる!」
 地面に散乱した野菜を踏み潰し、崩れ落ちた渋谷の髪を掴んで無理矢理起こして脇腹を叩き付ける。渋谷は唾を吐いて咳き入った。
 脅し文句では無い、彼は此方の命を刈り取る気でいる。浮浪者でも無い、寧ろ身形が良く小綺麗な顔をした男が、少女に乱暴を働こうとした上に今度は明確な殺意を抱いている。小林や教官達と言い彼らは何故こうも簡単に一線を越えて行けるのだろうと不思議だった。
 潰れた野菜に足を滑らせた男を突き飛ばし、渋谷は路地の奥へと逃げた。地の利は此方にある。このまま川を越えて東山へ潜り込む計算でいた。
 然し、川を跨ぐ橋まで辿り着いた時、再び男に追い付かれてしまった。
 体力が低下し、且つ頭を数度殴られているので身体が思う通りに動かない。角材を振り回す相手に一進一退の攻防を行っていたが、濡れた木板に足を滑らせたのを切っ掛けに一方的な暴虐行為が始まった。一発一発が渋谷の身体に命中するごとに男の顔は愉悦に歪んで行った。
 擦り切れそうな意識を必死に手繰り寄せ、橋の手摺にしがみ付く。
 男は角材を捨てると、渋谷の襟首を掴んで立たせ、そのまま手摺の向こう側へ押し出した。
 ああ、棄てられる。もし人形に心が在るならこんな気分なのだろう。渋谷は雨粒を撒き散らす黒雲をぼんやりと仰ぎ見ながら重力に身を任せた。
 全てが遠退いて行く。為す術も無く濁流に飲み込まれ、水圧が口を抉じ開けて冷たい水が押し寄せて来る。苦悶の炎に身を焼かれていても不思議と絶望は無かった。
(……あの子は無事だろうか)
 天地が際限なく流転する中、渋谷は静かに意識を閉じた。

– – – – –

 男に深々と頭を下げられ、年配の女は険しい表情で俯いた。
 視線の先には小汚い孤児が居る。それ自体は問題では無い。ただ、少年の虚ろな眼を見ていると、何か化物に遭遇したような底知れぬ恐怖を感じてしまう。なんて気味の悪い――その隣にいる人物が「彼」で無ければそう口に出してしまっていた。
 若者は片膝を突いて少年に目線を合わせ、彼の頭を優しく撫でて何かを語り掛けた。
 少年が一度だけ瞬きをする。
 青年は再度院長に礼をすると、背後に停まっている車の方へ踵を返した。
 そして立ち止まった。
 小さな手が背丈の高い青年のズボンを掴んでいた。少年は睨むように青年をじっと見上げている。作り物のような顔の中で瞳だけが夕陽に照らされてぎらりと光っていた。
 益々顔を顰める院長を一瞥し、青年は閃いたように上着の胸ポケットに手を入れた。中に入っていた物を掴み、少年の小さな両手にそれを握らせる。
 近所の社で買った御守りだ。小さな鈴がチリンと鳴り、少年はもう一つ瞬きをした。
 少年の視線が手元の御守りに注がれている間に青年は素早く車に乗り込んだ。最後に窓から見えた少年の瞳は真っ直ぐ此方へ向いており、その黒い硝子玉には深い悲しみと絶望が刻まれていた。
 彼の視線を振り払って車が発進した。
 黄昏の中、少年は車の影法師を見詰めながらいつまでも御守りの鈴を鳴らしていた。

 チリン、チリン。
 チリン、チリン。

 清涼感のある金属音が闇に反響する。
 チリン、チリン。
 それは次第に此方へ近付いて来る。重なるようにカランコロンと軽快な下駄の音が入り混じり、それらは自分のすぐ傍らで停まった。
 薄っすらと目を開けると、黒塗りの世界に小さな黄緑色の光が浮遊していた。
(蛍……?)
 その光が自分の額に停まった時、甘い香木の匂いが鼻腔を擽った。懐かしい音と香りが自分の身体を縛り付ける見えない鎖を解いて行く。
 自分は何者かの手により抱き上げられていた。
 重たい瞼を抉じ開けて手の主を確認しようとしたが、見えたのは自分の頬に掛かる長い栗色の髪だけだった。性別も分からない相手が歩くたびに耳元で鈴の音が跳ねた。
 蛍は霧雨の合間を縫って闇の奥へと飛び立っていく。それが織り成す軌跡の先に、古びた洋館がまるで空蝉から隔たれているかのようにひっそりと佇んでいた。
 蛍の導を下駄の音が追い掛ける。
 揺り篭の中にいるような心地良い震動に抱かれ、優しい子守歌を聞きながら、渋谷は安らかな眠りに就いた。


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