冴島小町が帝都キネマ倶楽部の舞台を初めて見に行ったのは十三歳の春の頃だった。
 この時分の諸外国は大きな戦乱の最中に在った。帝國も連合国の一員として戦争に参加しており、新聞には度々、何処かに派遣された軍の小隊が消息を絶った、貿易商船が襲撃された、などと報じられた。大戦需要により輸出産業や軍需が潤う中で、米価の上昇などにより一般庶民の生活は安定せず、格差が広がり、帝國の彼方此方で暴動やデモが起こるなどして帝都も何処か緊張した空気が漂っていた。
 そんな世間を賑わす娯楽の中で特に人気を博していたのが帝都キネマ倶楽部の舞台である。
 演劇と言えば歌舞伎が主流で、女の役は女形の仕事だという意識が根強く、『女優』の存在は未だ珍しい職業だった。近代演劇を名乗る帝都キネマ倶楽部が売りにしているのはその女優であり、観衆の大半が看板女優の東条八千代を目当てにしていた。
 女学校入学当初から寮で暮らしていた彼女はその日、久し振りに二人の兄と再会を果たし、彼らに手を引かれるまま帝國劇場へ観劇に行った。
 相当の人気らしく、得られた席は最後尾の立見席だった。当時の劇場は警備などの環境があまり整っておらず、その隙を突いてタダ見をしようと大勢の人間が押し寄せて、場内は異様な熱気に包まれた。
 生まれて初めて体験する劇場に少女は唯々圧倒された。
 暗幕に包まれた仄暗い観客席とは対照的な、光に満ち溢れた舞台。視力が弱い彼女には女優達の顔が朧に見えていたが、音や声が想像力を掻き立てた。音楽団の演奏、小道具が発する音、中でも特に東条八千代の声は誰よりも美しく、誰よりも特徴的で、子供ながら惹き付けられる物があった。
 兄達に寄り添いながら恍惚と光を見ていた小町は、ふと、自分のすぐ傍に、同じように夢中になって舞台を見詰める二人の女学生が居る事に気付いた。
 同じ年頃、同じ制服、同じ背丈。連れの大人は居ない。
 真剣な横顔がとても印象的で、小町は少しの間、舞台を忘れて彼女達を鑑賞していた。
 片方が大女優の娘だと知ったのはそれから数年後の事だった。

 

 或る日の夕暮れ。小町は黙々と針を操っていた。
 蔵書室の書物は卒業生や大帝國図書館といった他所から寄贈された物が多く、内容は近頃流行の小説から日焼けした古書まで種々雑多である。特に歴史のある図書は元から状態が芳しくなく、少し雑な扱いをするだけで一枚一枚の紙切れとなって散らばってしまう。装丁も、小さな穴に糸を通して綴じる物と、胡蝶装などの綴じ目に糊を使う物があり、修理を施す際は成る丈元の形を崩さないように手段を使い分けている。角に出来た折り目は、該当箇所に水を適量付け、爪楊枝を使って元の状態の癖を定着させた後、乾燥させる。紙という繊細な物を取り扱う中では常に根気と集中力が求められ、散漫な態度で臨むと直ぐに仕上がりに反映される。慣れると一冊に然程の時間は掛からない。
 書物の修繕は原則副業禁止の学校に於いて許可されている数少ない内職のうちの一つだ。それも経済支援が必要な寮生のみを対象としている。依頼人は大帝國図書館が主で、報酬は三冊につき一銭。出来栄えによっては減額される事もあるのでけして旨味のある仕事では無いが、たかが一銭されど一銭、貴重な収入源である。
 そういった仕事を何年も続けていると図書委員としての役割も自然と決まる。部屋の清掃や貸出の管理などの仕事がある中で、小町は専ら蔵書の修繕を任されるようになっていた。委員会は学生主体による学校運営の一環であり、それらの仕事に金銭は一切発生しないものの、綺麗に生まれ変わった本が誰かに愛されている様子が何よりの報酬だった。
 落ち着いて作業をするには蔵書室はうってつけだ。この不思議な空間が自然と人の心を解し、誰もが私語を慎み、静謐を守ろうと努めてくれる。
「いい眺めだねえ」
 カタンと音がして優しい風が頬を撫でた。
 春風の香りに誘われるまま手を止めて顔を上げる。
 窓枠に手を添えて外界を眺めていた女学生が振り向く。その顔には見覚えがある。夕陽を背に笑う彼女につられ、小町もまた大人しやかに微笑を浮かべた。
 彼女の実妹があの東条八重子と共に劇団茜座に入団したという報せは小町の耳にも届いている。二人の新人女優は帝都新聞にも取り上げられて一躍時の人となり、幾日か過ぎた今でも熱が冷める気配は見られない。毎日のように、日下春江の情報を求める者達が、環さん、環さん、と姉を追い掛け回している場面に遭遇する。
「今日は御一人ですか?」
 直接的な交わりは滅多に無い相手だが、誰かと一緒に居る所を見掛ける事が多かった。環の声は華やかでよく通る。笑い声に惹かれて視線を送って見ると、大抵、友人達と談笑している。催し事や集団行動の際も彼女は先頭に立って積極的に皆の世話を焼いていた。
 環は床に伸びる己の影法師を見詰め、眉尻を下げて苦笑した。
「久し振りにね」
 萎れた華が嬉しいようで悲しいと語っている。
 小町はその心情を察して目を伏せた。
 噂によると、環もまた八重子と共に劇団の試験を受け、残念な結果として終わったそうだ。常に爛漫の笑顔で居るものの胸中は複雑だろう。
 小町の顔色に気付いた環は徐に着物の袖を捲り始めた。
 パンパンと手を叩き、そのまま両手の指を絡ませる。
「見てごらん」
 小町は床の方へ視線を送って相手の意図を悟った。
 平たい黒塗りの犬がワンと吠える。犬は鳩となり、更に兎や狐に化ける。環は彼らの動きに合わせて台詞や物音を口にして、そうして生命を吹き込まれた影が生き生きと飛び回った。
 小町は目を輝かせて立ち上がり、足元で繰り広げられる芝居に見入った。
 環の声は七色に変化する。少年や動物の喜怒哀楽から、自然や物音まで、その豊かな表現力は圧巻の一言に尽きる。まるで眼前に色彩溢れる風景が浮かび上がっているかのようだった。
 芝居と言えば、昔、兄達と共に見に行った帝都キネマ倶楽部の舞台。あれは、大女優達の尖った演技は勿論、煌びやかな衣装と楽団による演奏、あますところなく使用される照明に細微な小道具といった、当時に於いて天上の才能と技術が集結して作られた物だった。また、八重子の練習風景を見掛けた時にもこれに近い感想を抱いていた。
 この狭い舞台には、観客は独り、道具は己の身体一つ。
 日下環が織り成す確かな世界が其処に在った。
 帝都に来る前の日常の一幕を思い出す。夜を恐れて眠れずに居る自分に、母や姉らが毎晩代わる代わるやって来ては様々な本を読み聞かせてくれた、あの優しい時間。離れ離れになった今でもこの心を支えて居てくれる家族達の顔。郷愁も相俟って胸が一層ときめく。
 幕が閉じると、穏やかな余韻の後に拍手が沸いた。
 小町は何度も感嘆の溜息を吐き、満面の笑顔で惜しみなく賞賛を送った。
「あんた良い顔するねえ」
 感想を感想で返され、童心に戻っていた小町が慌てて押し黙る。揶揄われると思いきや、環は真夏の空のように爽やかに笑っていた。
「可愛いんだからさ、俯いてばかりじゃ勿体無いよ」
 小町は端麗なる容姿の少女を前に気後れしていたが、屈託なく笑う彼女につられてくすりと笑みを零した。それを切っ掛けに感情が溢れる。普段から柔らかな笑顔を意識しているものの、こうして誰かの前で声を上げて笑うのは随分と珍しい事だった。それに、女優を目指すだけの才能と美貌然り、常に人の輪の中心に居る環は、小町にとって遥か遠い世界の存在だと思っていた。無縁だった糸が交差している光景に気分が高揚した。
 小町は環の真骨頂を、環は小町に秘められた花を知ったのだった。
「新しく演劇の同好会を立ち上げてね。お寺に孤児院の子供達を招待する事になったんだ。影絵劇に人形劇、紙芝居もやるんだよ」
 八重子が巻き起こした旋風により、演劇に興味を持つ者がちらほらと現れ、そんな彼女達に話を持ち掛けて同好会を結成したそうだ。集まった七人程の同志の興味は演者だけでは無く小道具や脚本など多岐に渡り、環がそれらを束ねている。言わば座長である。友人達は八重子を引き入れようと本人を何度も勧誘したそうだが、環は、これからが本番の新人女優に負担を掛けてはいけないと彼女達を諭した。
 桜の花弁が一枚舞い込む。環はそれを拾い上げ、窓枠に寄り掛かって空を見た。
 何処か物憂げな横顔に釘付けになっていると、彼女は夕陽に語り掛けるように、
「これが私の限界なんだ」
 深い溜息を吐く。
 これまでにも長きに渡り帝都内外の数少ない劇団に己を売り込んで行ったが、結果には繋がらず、今回の茜座を最後にしろと母親から宣告されたのだと言う。能々見ると彼女の顔色には激しい争いと思しき痕跡が滲んでいた。
 笑顔の底に押さえつけている叫びが風に乗ってびりびりと伝わって来る。
 いつかの劇場で見掛けた二人の少女を思い出し、小町は掛ける言葉を失っていた。
 片方は羽ばたき、片方は立ち止まる。その何方も影を忍ばせている。
「それでも、自分に出来る事を続けて行きたい」
 決意した瞳にも曇りが垣間見える。
「私はあの子達のようにはなれない。進路の問題もあるし、今の時代、私のような普通の女が何かを為そうとするには困難が多いけれど、やっぱりお芝居が好きだから」
 冷静な声で己自身を宥めていた。
 既に小町をはじめ同級生達は卒業の先に向かって舵を取っている。
 女学校に通う学生は大半が良家の出身で、卒業を待たずして結婚する者が多く、特に去年辺りから見合い話が盛んになって来ている。小町の学級でも縁談が纏まって退学する者がちらほらと出始めており、教室の空席はこれから更に増えて行くと思われる。嫁入りを果たせなかった所謂『売れ残り』と揶揄される少数派の進路は、企業への就職、大学や女子師範学校への進学などが挙げられている。
 環の家柄が如何程かは定かでは無いが、彼女は目を瞠る美人だ、嫁の貰い手の一人くらい遅かれ早かれ現れるに違いない。既に幾つか話を受けている可能性もある。就職をするにしても今までのような自由な時間は殆どが削られてしまうだろう。
 信念を手放さなければならない苦しみを小町は熟知していた。
 環の傍まで歩み寄り、彼女と同じように空を眺める。
「昔からずっと頑張って来たんですものね」
 驚く環に、彼女が与えてくれた笑みを向ける。
「貴女には貴女の舞台が在ります。困難を乗り越える力もお持ちの筈。きっと大丈夫ですよ」
 環は暫くの間、これまでまともに交流をした覚えのない小町の顔をまじまじと見詰めた。視線を向けられる事に慣れていないのか相手は小さく咳払いをして目を落とす。髪の隙間からちらりと覗く真っ赤な耳朶が緊張を物語っていた。
「他に御用があったのでは?」
 上目遣いに訊ねられ、ああ、と環は思い出したように室内へと視線を巡らせる。
 食い入るように棚を覗き込む様子に小町が首を傾げる。
 単に芝居を披露する為だけに遥々ここまで足を運んで来たとも思えない。だがこんな殺風景な場所に何を求めているのだろう。既に棚の半分が新校舎へ移っており、残った半分には修理が必要な図書が幾つか平に積まれているだけで、この部屋を訪れる者は小町の他には誰も居ない。新校舎の図書室には小町以外の図書委員が詰めているので大凡の用件は其方で事足りる。
 環の横顔からは感情が消えている。物陰を探る目付きは真剣そのものだった。
「何かお探しですか?」
 芝居の謝礼として、彼女が求める物は何でも探し出す気概で居た。
 環は暫く黙って蔵書室を探索していたが、やがて限界を悟ると、
「外国の、オペラの専門書」
 番人の心臓が大きく揺れ動いた。
 客人はそんな彼女の瞳を真っ直ぐ見詰めながら、本懐の名を口にする。
「『旧校舎の亡霊』」

 

 或る日の夕暮れ。小町は黙々と針を操っていた。
 蔵書室、延いては校舎としての役目は既に終わりを迎え、数週間前まで聞こえていた同級生達の声も今は屈強な男達の野太い物に取って代わられている。
 大工達が建物の解体に着手している中、番人は彼らに頼み込んで蔵書室に道具を持ち込み、寮の門限まで仕事に勤しんでいた。
 優しい時間は日を追うごとに霞んで行く。
 柱時計をも失い、時間の指標となるのは窓から見える景色のみ。棚と書物は全て新校舎の方へ移動を済ませているので、残すは少女の仕事机と椅子一つ。空虚である。
 数日後には旧校舎への立入が封じられるので、極限まで余韻を堪能する心算だったが――。
「休みだってえのに精が出るなあ」
 手元が狂い、針が指の肉に刺さる。
 通り掛かった年配の大工が廊下から気さくに笑顔を投げて来ている。
「……ええ」
 俯いて、息を殺し、膨らみゆく粒を凝視しながら荒々しい気配が通り過ぎるのを待つ。
 少し前までは気にならなかった物音が矢鱈と大きく響いている。
 彼らの気配を認識する度に心が冷たく震える。相手に非は無い、礼を欠いているのは間違い無く此方だ。陽気な大工達は今も昔も変わらず妹を扱うように接してくれている。特に先程の棟梁は、自分が建築に関わったこの校舎を最後まで愛してくれている存在に感銘を受けているようで、顔を合わせた際には必ず挨拶をしてくれる。
 無人に戻るなり小町は窓を開いて夕風を浴びた。
 溜息を吐いて風に指を晒し、散りゆく緋色の雫をぼんやりと見送る。
 聖域の一部として気に入っていた、血と同じ色の空も、身体に纏わり付く生温い風も、地面に広がるどす黒い影も、今では何もかも全てが不気味である。
 変化があったのは眺望では無い、自分だ。
 この眼が穢れているが故に世界が恐ろしく映って見えるのだ。
 時間よりも己の精神の方が限界を迎えているらしい。ここ数日はずっとこの調子だ。勉学にも仕事にも身が入らず、心此処に在らずの時間が増えた。
 それでもこの心は常に安寧を求めている。
 身に染み付いた本能のように、鼻梁を指で突いてから眼鏡を失ってしまった事を改めて悟るように、空白から覚醒すると既にいつもの光景に落ち着いている。
 地に差す影法師は常に孤独だ。
 軍人の兄とも連絡を取らなくなった。
 彼には事の全てを洗いざらい吐き出してしまいたいというのが真情で、本音に従って表通りにある公衆電話へと足を運びそうになり、その度に見えない何かが足に絡み付いている。
 最後に兄の声を聴いたのも矢張り電話口で、その時の彼は虫の居所が悪く、此方が発したとある一言が火種となって喧嘩別れという形で会話を切った。ほとぼりは冷めている頃だと思われるが、電話までの道のりは遠く、そして険しい。
 冷ややかな身体を慰めるように胸元がじわりと熱くなった。
 全身から重りが外れて吐息を零す。袴のポケットから手拭いを出して軽く指の血を清めてから、着物の懐中に挟んでおいた熱の源を手に取る。
 教室から布団の中まで肌身離さず持っている、唯一の心の拠り所だ。
 ほんのりと頬が発熱する。
 煤けた御守りを夕陽に翳した時、

 ドンッ

– – – – –

 五月九日午後五時。太陽が少しずつ眠りに就く準備を始めている。
 帝都湾を臨む港区三丁目。貴族街と称される柴区が隣接しており、海港や商店街がある一丁目二丁目に比べると治安が良く、この近辺は柴区同様に一等地として扱われている。広い敷地を持つ戸建ての住宅が多く、街路を行き交う人々の身形も小綺麗で、喫茶店の珈琲一杯の値段もそれなりだ。女学校はこの一角に存在している。
 市電の駅から海が見える坂道を柴区方面へ上って行くと、背丈の高い鋳物の門扉に護られた、開豁な庭と赤煉瓦が美しい擬洋風建築の校舎が見えて来る。貴族令嬢学校と称されるだけあって設備や警備には多額の費用を投入しているらしく、遊歩道を挟んだ隣の敷地には、花園と、一部の特待生のみが暮らしていると言う豪奢な造りの学生寮がある。
 校門の真正面に見える二階建ての広壮な洋館が新校舎、そこから校庭を挟んだ場所にある四階建ての木造校舎が旧校舎で、後者は大工達が解体作業に勤しんでいた。
 小と大、二つの影が高級地の風を切る。
 肩の上で大人用の杖を弄びながら道を闊歩しているのは、鳥打帽子を目深に被った素性の良さそうな少年。三歩下がってその後を追うのは全身黒の弊衣破帽。珍妙な二人組は真っ直ぐ女学校の入口へと向かっている。
 校門前で談笑していた二人の女学生が珍客に気付いて言葉を止めた。
 少年が杖を下ろし、帽子を取って髪を夕陽に晒す。
「御機嫌よう、お嬢様がた」
 その容姿を見た瞬間の少女達の反応は真逆だった。
 八重子は照れ臭そうに微笑み、絹のような長髪を垂らしながら深々と頭を下げた。
 あれからニコは東条邸を訪ね、八重子の自室に怪奇を寄せ付けないよう結界を張った。式神の加護もあって今の所は平穏無事な夜を過ごせているようで、怪奇現象が発生したという報も聞かない。びゐどろ邸来訪時から打って変わった健康的な頬をしている。
「眠気がすっかり無くなったの。本番も好調子で挑めそうよ」
「それは何よりだ。式神は連れているね」
 八重子は嬉しそうに頷き、制服の懐から長財布を取り出し、皺にならないようにと丁重に挟んでおいた式神をニコに見せた。授業中、稽古中、入浴、就寝、いつでも手の届く範囲に置いていた。
 ニコはそれを受け取って具合を確認した。
 命令を吹き込まれた式神はきちんと役目を果たしているようだ。
 頭部の印、そして――。
 探偵の眉間に皺が刻まれる。
 式神の胴体は所有者に穢れを寄せ付けないようにと記した『まじない』の字で埋め尽くされている。文字が織り成す堅固なる檻の中に、異変が一つ。
 その一文字だけがまるで爪弾きにされたかのように紙面の片隅に転がっていた。
(現れたか)
 式神の状態から探偵の脳内で推理が構築されて行く。
 正の乱れは負の干渉を訴えている。怪奇が八重子の近くまで迫って来ていた証拠だ。現段階に於いては結界と式神を破るだけの力や人を直接殺めるような気配は見られない。だが着々と力を蓄えている。先日の怪奇鎌鼬が穢れを啜って肥大化したように、早々に手を打っておかなければ今後の保証は出来ない。
 此方に檻があるとは言え、穢れた存在が付近を徘徊していると判明した以上はあまり呑気にしては居られない。式神も、結界も、全ては降伏と同じ一時凌ぎの手段に過ぎないのだ。
 ふッと息を吹き掛けて字を元の列に戻してやる。
 すると、八重子の背後に潜んで二人の遣り取りを眺めていた少女が、
「ねえ、どういう事。取材じゃなかったの」
 友人の腕に指を喰い込ませて叱責するような声色で言った。
 ややつり目の如何にも気の強そうな容貌だ。小柄なので長身の八重子を見上げる形になっているが、態度は女優を畏縮させる迫力を帯びている。
「此方は探偵さんよ。その……怪奇専門の」
「怪奇探偵!」
 人気の無い閑静な道路に金切り声が響き渡る。これ以上の筋肉は動かないような歪んだ顔で、少女はニコ――の数歩後ろに控えている男を睨みつけた。
 温い皐月の風が漂う中、古びた帝國大学の学生服を纏い、更にその上に黒いマントを羽織っている。学帽の広い鍔が影となっていて顔はよく見えない。ここが富裕層の街でなければ頻繁に見かける、特に十代の若者達の間で流行っているらしい恰好だが、それにしてもこの麗らかな日和の中で寸分も素肌を見せようとしない様は少しばかり異様である。
 女の領域に年頃の男が侵入している光景が許せない。
「帰って! 守衛を呼ぶわよ!」
 牙を剥き出して威嚇されてもバンカラ男は微動だにせず沈黙を守っている。
 それが癪に障ったのか、少女はニコを押し退けて男のマントを掴み上げた。
「それは僕の助手だよ、宗像芳美さん」
 悠揚な声は制帽の下からではなく背後から聞こえて来た。
 目を見開いて戸惑いがちに振り向く芳美に、少年探偵は帽子を胸に当てて紳士的な辞儀をする。杖の柄を前へ差し出すと助手が素早く動いた。
「僕の名はニコ。其方の八重子嬢から依頼を受け、彼女の周辺で発生している怪奇現象について捜査をしている。君にも少し話を聞きたいのだが?」
 主人から手荷物を引き取った従者がそのまま彼の三歩後ろに移動する。
 芳美は尚も怒っているような怖れているような表情でニコと助手を見比べる。俄かには信じ難い。弟と同じ年頃の、この少年が。
 脳裏に帝都新聞の一面が浮かぶ。
 青い眼。青い髪。怪奇探偵を名乗る異国の男児。
 まさか。
 御伽噺の登場人物が今まさに己の目の前に立っている。悪夢を見ているような気分に陥り、芳美は目覚めを求めて八重子に縋った。
「どうして? 探偵は駄目だって言ったじゃない!」
 身体を揺さぶられ、八重子はぎこちなく彼女と向き合った。
「黙っていて御免なさい。でもお願い、私達に協力して欲しいの」
「莫迦みたい! こんな子供に騙されるなんて」
「あら、芳美さんこそ見た目に騙されちゃ駄目よ。ぐっすり眠れるようになったのも、食事が喉を通るようになったのも、全部彼のお陰なんだから」
 当初は母親のお墨付きという程度の感覚だったが、今では彼に全面的な信頼を寄せている。邪宗に嵌った愚か者だと罵られても気にならない。睡眠と食欲は肝要なのだ。
 少女達を見守っていたニコが周辺に目線を巡らせる。
 八重子には待ち合わせの電報を送った際に宗像芳美と日下環の二人を連れて来て欲しいと頼んでおいた。怪奇嫌いが激しく、コルセットが手放せない状態の芳美を呼び出すのに八重子も色々と方便を使ったようで、芳美の非難は怪奇探偵から其方へ移っている。
 何より問題なのは、
「日下環さんは」
 それらしい人影は見当たらない。
 思い出したように八重子が頷く。
「電報は送ったのよ。折角だから早めに集まって、近くでお茶でもしましょうって」
 ニコとの待ち合わせの一時間前に近所の喫茶店に来るよう伝え、八重子と芳美は約束通りにやって来て一息吐いていたが、結局、環からは何の音沙汰も無かった。
 日下家は電話を引いていないが、環は東条邸の電話番号を知っている。電報は昨日のうちに相手方へ到着しているので、公衆電話で断りの連絡をするくらいの余裕はあった筈だ。
 八重子は芳美との争いを切り上げ、ここ暫く会っていない友人の方へと想いを馳せた。
 妙な気分だ。妹の春江とは毎日顔を合わせているのに姉の方はとんと見掛けない。多忙と疲労のあまり時間の感覚が麻痺していて記憶が判然とせず、最後に彼女と会った時の場面をどうにも思い出せない。そもそも『最後』とはいつの事だったか。
「何かあったのかしら。ねえ芳美さん」
 八重子に続いて探偵の瞳が芳美を捉える。
「知らない」目を合わせてしまった芳美が棘を吐き捨てるように言って顔を背ける。
 芳美を諫める八重子の後ろでニコは腕を組んで考え込んだ。
「君は環さんと親しい間柄だと聞いている」
「知らないと言ったのよ、聞こえなかった? それより、八重子さんの件にどうしてあの人が呼ばれなくちゃいけないの。私や春江さんならまだしもあの人は関係ないでしょう」
「どうかな。糸口はあらゆる物事の中に在る」
 感情、場所、人間関係、時間――それらの糸を手繰り寄せて出て来る物が偶然か否か。影に蠢く穢れを表舞台に引きずり出す為には些細な変化も見逃してはならない。
 八重子は芳美が環の『信者』だと表現していた。環本人の口からは芳美が『友人』だと聞かされているものの、傍で見ていると特に芳美が環に入れ込んでおり、毎日熱心に彼女を追い掛けては甲斐甲斐しく身辺の世話をしていたそうだ。足を揃えて登校し、食堂で同じ献立の給食を食べ、肩を並べて帰路に至る。同級生の誰かがまるで夫婦ねと芳美を揶揄した時には憤慨するどころか寧ろ誇らしげに微笑んでいたのだとか。
 見たところ改宗したようだが、これが仮初の物とも思えない。
 あの人。名前を口にするのも忌々しいと言いたいようだ。二人の間に何があったのかは訊ねるだけ無駄らしい。困ったように溜息を吐く八重子を一瞥し、芳美は鼻を鳴らして在らぬ方を見ている。これ以上機嫌を損ねては如何に信徒であろうと教祖を放置して先に帰ってしまいかねない。環の事情も気になるが、此処で引き出せる物は引き出しておかなければ。
「何者かに突き飛ばされたそうだね」
 言葉選びは慎重に、笑みを絶やさずに。
 その姿勢が響いたのか不貞腐れ顔に仄かな熱が戻る。
「背中を一突き。でも怪奇なんかじゃないわ、醜女の恨みを買っただけ」
 醜女、と二人が顔を見合わせた。
 芳美の顔がみるみる愉悦で満たされて行く。
「私達の他にはあの娘しか居なかったし、動機だって有るもの。誰だってやっている事なのに私だけを狙ったのは、八重子さんに取り入る為」
「……冴島さんの事?」
 少し迷った末に心当たりを挙げた八重子に、芳美は意地の悪い笑みを返した。
 怨恨から芳美を突き飛ばした冴島小町はその状況を最大限に利用した。何食わぬ顔で現場に駆け付け、芳美を手厚く介抱し、更には弱っている八重子を優しく慰めた。信頼を得て芳美の立場を乗っ取る腹積もりだったのだ。
「彼女はそんな人じゃない」と八重子が否定するも、声に動揺の色が滲んだ。
 当時、偶然その場付近に居たと言う蔵書室の番人。あの穏やかな少女が復讐に狂っている姿を想像出来ない。疑いを持つ傍らで、それこそ外見に騙されてしまっているのでは無いかとも思う。小町の為人については無知に近い。状況だけに焦点を当ててみると、当時、混乱はしていたものの矢張り自分達の他には誰も居なかったと記憶している。それでも小町は芳美の転落から十秒も経たないうちにやって来たのだから彼女だけは例外だと言える。
 小町が周りから普段どのような扱いを受けているのかは芳美の態度から大凡の察しがつく。二人の間に因果関係があるなら、放課後のあの時間帯、本来ならば旧校舎に籠もっている筈の小町が、新校舎の、それも芳美達の間近に居たのも不自然な状況に見えて来る。
 一瞬の躊躇を見抜いた芳美がすかさず畳み掛ける。
「この一件の犯人はあの貧乏娘。舞台の電球が割れたのは偶然。視線と物音は勘違い。八重子さん、本番が近いから神経症になっているのよ。気の迷いが高じてこんな胡散臭い子供を連れて来るだなんて。良いお医者様を紹介してあげるってあれほど言ったのに」
 流石の八重子もムッと顔を顰めた。
 芳美自身は物音や視線などの怪奇現象には遭遇していない。と言うよりも、普段の物音と怪奇現象の区別が付かないのだ。彼女の住処は繁華街の一角にあるアパートメントの一室で、両親の他、女子師範学校に通う姉と尋常小学校に通う弟と同居しており、誰かの視線など至る所で感じている。すぐ上の階には育ち盛りの二人の男児を持つ家庭が暮らしているので、物音が降って来た所でそれが異質とは思わない。
 常に人に囲まれているという点に於いては似通っているが、八重子が感じる苦痛は芳美にとって勘違いの範疇である。故に理解には至らない。
 負けじ魂を揮おうとする八重子をニコが軽く挙手して制する。
 芳美の推理が外れている事は言うまでもない。然し、犯人が小町だと頑なに言い張っている点については入念な追究が必要だ。
「背中を一突き。すると手の平の感触があったわけだ」
「背後に誰かが居たのは間違い無いわ」
 胸を張って答える芳美の前で、少年が揶揄うように人差し指を左右に揺らした。
「気配と感触は似ているようで違う。君を押した手は果たして本当に人の物だったのかな」
 途端に目を吊り上げる少女に、ニコは手を降ろして言葉を続ける。
「失礼。だが君の証言は重要だ。仮に小町さんが犯人なのだとすれば、今からでも警察に通報をしなければ。罪を犯したのだからね。其処まで明確に犯人が分かっていながら野放しの状態とは危険極まりない」
「私が嘘を吐いているとでも言いたいの」
「質問の回答を」
「あの娘がやったに決まっているでしょう、だってそうとしか考えられないじゃない! 私、あの時だってちゃんと主張したのよ、でも八重子さんは聞いてくれなかった」
 恨みがましく睨まれ、八重子は反射的に謝っていた。確かに芳美は初めから小町に食って掛かっていた。然し、怪奇が犯人だという思い込みと小町から滲み出る善良な人柄から、芳美の主張を頭ごなしに突っ撥ねてしまった。看病を受けて意見を変えてくれたと思い込んでいた八重子には後ろめたい実情だった。
 息を荒げる芳美に対し、ニコは徹頭徹尾、冷静な物腰である。背後で黙々と手帳にペンを走らせている従者に何事かを囁き、今にも掴み掛ってきそうな芳美に「結構」と礼をした。
「小町さんにも話を聞いてみなければ」
 二人の応酬を見ていた八重子が慌てて割って入る。
「本気で彼女を警察に? でも怪奇は」
 そう言い掛けてハッと口を噤む。
 既に探偵の耳は旋律に潜む不協和音を拾い上げている。扇子を口元に当てて不敵に微笑む彼の横顔に、八重子は己の不安を恥じ入って押し黙った。大女優を虜にした妖しい眼差しに娘もまた魅了されている傍で、信者が憮然とした様子で肩を竦めている。
 従者が身を屈める。ニコは扇子を広げ、それを衝立にして内緒話をし始めた。
 校内は守衛と大工を除くと無人ではあるが、教職員や一部の学生は事前に許可を得てさえいれば自由に登校が出来るので、状況はいつでも変化する。此処での用事は早急に済ませてしまいたい。
 現場の捜査を大本命として、次は――。
 探偵達の意識が古城へと注がれる。
 木材は再利用の為に良い値段で取引されるらしく、削り取られた資源が山のように積み上げられている。大工達の手は未だ蔵書室には至っていないようだ。
 教室や廊下の形骸が剥き出しになっている器に果たして何が残っているのか。
 何より気掛かりな事がある。
「『旧校舎の亡霊』」
 ニコの呟きに少女達の顔色が変わった。
 八重子が手紙を交わしていたと言う不透明な存在。その正体が怪奇なのか否かの問題はさておき、旧校舎と冠しているからにはその場と何らかの関りがあると思われる。
「そいつが犯人だなんて戯言を吐くんじゃないでしょうね」
「何れ分かる」
 険しい表情のまま言葉に詰まる芳美を背に、探偵は仕事に身を乗り出す。
 八重子が事前に整えていた手筈に従い、助手を一人その場に残し、旧校舎の目と鼻の先にある関係者専用の裏門から敷地内に潜入する。芳美は八重子の方針を拒絶していたが、その決意が固いと悟ると今度は一行を監視するかのようにくっ付いて来た。
 八重子は芳美を『友人』と称しているが傍から見ると正しく信者そのもの――要するに日下環と同じ道を歩んでいるのだ。孤独の時間が皆無だと八重子自身が証言していた通り、同級生に囲まれている時も、登下校も、昼食も、果ては手洗い場まで、目の届く所に信徒は必ず存在している。皮肉にもその状況が八重子の安全に寄与していたのか学校では怪奇現象に遭遇する事が無く、代わりと言わんばかりに階段の一件が発生した。
 被害者当人は、ニコが先程言っていた通り、今すぐにでも警察を呼んで真犯人を逮捕するべきだと訴えている。そしてこの場に於いても自分に背を向けている主人に気を揉み、突如現れて彼女の心を掻っ攫った探偵に憎悪を滲ませた。
 ニコの瞳に揺らぎは無い。こういった扱いを受けるのも最早慣例だ。
 八重子の案内の下、新校舎一階の玄関ホールまでやって来る。
 静寂に真新しい建材の香りが漂う。傷一つ無い純白の塗り壁と紺鼠色の床板を斜陽が赤く染め上げる。八重子の話によると、薄暗く通気性も粗悪だった旧校舎の反省点を活かして、新校舎は窓と照明を多く設置し、空間がより広く見えるように天井をうんと高くしたそうだ。
 連絡用の掲示板には、新聞の広告や街角で見かける物と同じ、一枚の大きなチラシが画鋲で貼付されている。二人の少女の似顔絵に『禍福』の字。茜座の新人女優達による初舞台の演目である。美人画で有名な画家が描いた絵は女優達の特徴をよく捉えており、元々の愛らしさも相俟って人目を惹く仕上がりとなっている。その当人がごく身近で生活をしているのだから同級生も教員も鼻高々だろう。孤独な時間が得られないのも仕方が無いのかも知れない。
 件の階段は掲示板が掛けられた壁の奥、玄関口の丁度真正面にある。
 ニコは扇子を片手に踊り場まで上り、ぐるりと周辺を見渡した。
 壁面には幾何学模様の小さなステンドグラス。道は左右に分岐し、そこから更にかね折れの形となって上層へ続いている。二階の廊下の窓から差し込む光が一帯を照らしていた。
 二階まで登りきると、ニコは窓を背に階段をざっと見下ろした。
 熱い陽射しが項を焼いている。
「何か見える?」
 踊り場から八重子が目を細めながら恐る恐る此方を仰いでいた。
 穢れは見えない。穢れどころか塵一つ転がっていない。
 軍学校の怪奇事件で医務室がタタリ場になっていたように、場所に何らかの因縁がある可能性も考慮していたが、どうやらその線は薄いらしい。
 二階廊下も一階同様に見晴らしが良く、視界を遮るような大きな障害物も無い。つまり廊下には人一人が隠れられるような物陰が見当たらない。
 一つ考えられるとすれば階段付近にある教室の扉の影だ。二人が階段を降りる頃を見計らってそこから飛び出し、事を済ませてから同じ場所に身を隠し、何食わぬ顔で現場に駆け付ける――度胸と計画性があれば数秒で足りる。
 だが、矢張り腑に落ちない。
 天辺から三段ほど下へ移動する。小さな影が八重子の顔に被さった。
「此処は音がよく響く」
 例えば彼女達が履いているブーツ。仮に忍び足になるよう注意を払っていたとしても、人一人を突き飛ばして急いで逃げたのだからそれなりの靴音が発生して然るべきだ。
「どうだった?」
 八重子が、一階から動こうとしない芳美に問い掛け、その反応を見るなり肩を竦める。
 話に夢中だった二人は自分達に迫り来る足音を聞いていない。
 あれは丁度今頃の時刻の出来事だった。
 野暮用があり、次々に帰宅する同級生達を見送って自分達は最後に教室を後にした。すっかり人気が失せて辺りが静まり返っていたのをよく覚えている。廊下に響き渡る声を咎める教師も見えず、平穏な空間が余計に舌を潤した。
 そして、今、ニコが立っている段に差し掛かった頃に事は起きた。
 芳美の笑い声がぷつりと途切れ、次いでヒッと掠れた悲鳴が聞こえた。何事かと訊ねる間も無く肉体の跳ねる音と叫喚が八重子の耳を殴りつけた。
 もし天辺から落ちていたら。或いは打ち所が悪かったら。腰を中心に肩や膝を強打したものの、致命傷も無く頭と首が無傷で居られたのは不幸中の幸いだろう。
「ああ、でも、あの時は足音が聞こえた」
 蚊の鳴くような声で悶絶する芳美を抱き起した時、コトコトとブーツの音が近付いて来て、人影が太陽を遮った。数冊の書物を胸に抱いた小町だった。
 混乱する二人を落ち着かせながら迅速な行動を取ってくれたものの、現場を発見した際の彼女の顔は八重子と同じように蒼白だった。あれが演技なのだとしたら大した女優である。
 八重子の話を聞きながらニコが踊り場まで降りる。カツカツと革靴の音が反響した。
「私達の他に誰かが居たのだとしたら、それこそあの娘が目撃している筈。でも他には誰も居なかったとあいつ自身が発言しているのよ」
 青の眼が上層から下層へと滑る。
 暗がりに潜む芳美が可笑しそうに嗤っていた。
「神様のように万能な怪奇ならそれも可能なのかしら」
「あれは人だよ、お嬢さん」
 嘲りへの反応は至極淡泊だった。
 ニコは懐から鎖に繋いだ小型の虫眼鏡を取り出し、壁から床まで目を這わせた。新築で、学生達が普段から丹念に掃除をしているからか、傷一つ無く綺麗な物である。
 埃すら見落とさない彼の姿勢が芳美の怒りに触れた。
 如何なる言葉を掛けてもまるで響かず、此方など眼中に無いかのように淡々としている少年の態度が忌々しくて仕方が無かった。
 一階まで降りて来たニコに、
「往生際の悪い子供ね! 冴島小町が犯人だとさっさと認めなさいよ!」
 八重子が押し留める間も与えず、激しい言葉を浴びせる。
 一瞥もくれず壁を叩いたり床を撫でたりと捜査に勤しむ少年に愈々堪忍袋の緒が切れ、噛み付く勢いで彼の肩に手を掛けた、その刹那――。
 空洞に一つチリンと鈴の音が響き渡った。
 天井にこだまする音が風に混ざって消えるまで、しんと冷たい沈黙が続く。
 芳美も、階段を降りている最中の八重子も、目を丸くして余韻に浸っていた。
「一瞬の決断が人の運命を狂わせる」
 肩を掴む少女の手の甲には扇子の天。固い感触が芳美を震撼させた。
「今の我々に必要なのは思索だ。この一件は謎が多い。君は背を押した当人を直接目撃したわけでは無いし、僕は小町さんの顔すら知らない。八重子さんが聞き入れなかったと言うだけで警察への通報を止めた君の思惑にも少しばかり思う所がある」
「何ですって」
 激昂も長くは続かない。止めに入った八重子に手を剥がされ、彼女の力強い眼差しを受けて二の句が継げられなくなってしまう。
 八重子の心は既に決まっている。
 ニコは踊り場のステンドグラスを見上げた。
 物音も無く、姿も見えず。疑惑は一人の少女に集中している。彼女を警察に突き出すか。この一件を他の怪奇現象と切り離して考えるべきか。何を信じ、何を疑うのか。
 一つ言えるのは、手札が揃っていない状態で結論を出すと碌な事にならない。
 一瞬とやらは生殺与奪の権を握っている。滑落は一瞬。苦悶は永劫である。
 たった一つの堰を切るだけで水は津波となって全てを破壊する。その流れに殺された者、呑まれて自ら命を絶った者をごまんと見て来た。死の縁より漂流して来たあの少年も、夜毎、一瞬一瞬を夢に見ては悶え苦しんでいる。
 悲しみの副産物をこれ以上増やしてはならない。
(彼女は一体何を見た)
 探偵は淡々と獣道をゆく。

 

 突如、強烈な倦怠感に全身を支配され、渋谷は無理矢理唇を噛んでそれを耐えた。周囲には誰も居ないと知りつつ、草臥れたマントの襟を立たせて己の顔を隠す。
 手持無沙汰が辛い。ニコから譲り受けた手帳を取り出し、幾度となく目を通した事件のあらましを頭の中で読み上げる。
 女学校裏口。八重子の手により開け放たれたままの門扉に肩を預け、じんじんと発熱する背中の傷を冷やす。居心地はあまり宜しくない。休日で人気が無く街路樹が表通りの光を阻んでいてくれているものの、もし誰かに見付かったら――今度は何の称号を得るだろう。
 針の筵に座しているような心状で読書に耽っていると、眠気の漣が押し寄せて黒い線を蹴散らして行った。
 噛み潰した欠伸の代わりに涙が滲む。
 ――此処で待っていろ。
 犬でもこなせる指令を受けたものの、犬ほど素直では居られない。
 邸で彼の帰りを待っている時と違い、外界に独り取り残されると途端に心細くなる。其処に空白が生じるなり、待っていたと言わんばかりに陰が踏み込んで来るのだ。
 「もう」なのか「まだ」なのか、あれから四日が経過した。
 家計が切迫している中、ニコは生活必需品やら食料やらを渋谷の方へ優先的に回してくれた。主人が忙しなくしている傍らでやる事と言えば、食事を取る、邸やその近辺を散策する、井戸の水の汲み方や風呂を焚く術を学ぶ――特記にも値しない日常生活である。そういった健全な食事と治療を兼ねた訓練の甲斐あって、抜糸を控えている背中の大傷を除くと健康と呼べる程度には回復した。背中についても衝撃を与えないよう配慮していれば然程の支障にはならない。学生の頃と比べるとどうしても体力と筋力が低下してしまっているが、それらを取り戻すのも時間の問題だろう。
 杖が不要になる頃合いを見計らってニコは渋谷を日の下へと引っ張り出した。激しい運動はしないと言う条件で、びゐどろ邸がある最北の山から市街地に降り立ち、路面電車に揺られ、喧騒の波を渡り、ここまでやって来た。
 久し振りに見る外の世界は猛毒以外の何物でも無かった。
 視界に人の姿が入るだけで身体が強張ってしまうので、この場にやって来るまでにも相当の労力を費やした。新聞を読み耽る男、百貨店帰りの親子、街頭に立つ商売人、その何処から石が飛んで来るか。冷たい手錠よりも日常に潜む牙が恐ろしい。
 渋谷史人の名は表舞台から綺麗に消え失せ、帝都新聞の紙面に踊る字も怪奇とは無縁の物ばかりとなっている。然し、何を切っ掛けに狂気が再燃するか。こんな爆弾を抱えながら闊歩しているのだから小さな主君は相変わらず恐れと言う物を知らない。
 「臆するな」とはニコの言葉である。盗みの一件については連夜に渡り東山近辺の派出所の幾つかと連絡を取り合っているようで、指示を出すまで動くなと言い付けられた。特別な思惑があるらしいが、没交渉な彼は真意を語ろうとはしない。言葉足らずが生んだ空白が従者の良からぬ感情を余計に刺激した。
 渋谷はあらゆる陰に耐えながら命令を守っていた。
 びゐどろ邸の厄介になると決心した以上は、行き着く先が涅槃であろうと黄泉であろうと主人に追従する。抜糸が済むまでか或いは警察に引き渡されるまでか、先の事は分からないが、兎に角、あの地獄には二度と戻りたくない。その一点のみを支えに、獣道を突き進む小さな背中を必死に追い掛けている。
 緩やかな風が目を擽った。
 手帳がするりと零れ落ち、地面を弾く音で我に返る。
 頁には独特な形の線が縦横無礙に散らばっている。
 これらの解読にもすっかり慣れてしまった。
 例えば冒頭にあるのは『東条八重子』――今回の依頼人の名だ。
 大女優の娘と聞いて大体の予想はしていたが、街中に出てから彼女に対する世間の反応を改めて思い知った。チラシに限らず、市電の車中、街角、至る所で新人女優達の噂を耳にする。
 八重子の評判もさることながら、これから彼女と共に茜座の看板を背負って行く十五歳の新人女優の話題も尽きない。帝都俳優養成塾で演劇を専門的に学んでいた中流階級の家庭の娘が、ほぼ無名の状態から大抜擢されたのだ。如何にも庶民の関心を惹きそうな背景だ。
 ニコの情報によると、養成塾とやらは東条八千代が代表を務める演劇の専門学校で、八重子も一時期、尋常小学校に通う傍らそこに塾生として在籍していた経験があるらしい。母親の縁故を利用して端役をこなした事も多々あったそうだが、そこで女優としての芽が出る事は叶わず、八千代に命じられるまま帝都女学校へ進学した。挫折を味わってからも諦めずに勉強をし続け、積極的に観劇に行ったり裏方の手伝いを申し出たりと小さな努力を積み重ね、それが今回の逆転劇へと繋がったのだと言う。娘の入団は母親の贔屓だと苦言を呈する者も居る一方で、八千代の性格と八重子自身の苦労を知る者は漸く当人の花が開いたのだと喜んでいる。
 ニコは八重子から招待を受け、初日の公演、それも帝都キネマ倶楽部の代表として出席する八千代の隣という特等席を得られた。助手が居ると聞いた八重子が気を利かせてもう一席用意しようかと申し出てくれたが、これは渋谷自身がニコの口を通して丁重に断った。一応は警察に目を付けられている身だ、立場は弁えなければならない。無論、主人が所望するのであれば付いて行くのも吝かではないが、今の所その要望は無い。
 帝國劇場の入場料は大人一人で六圓。けして安くはない。少なくとも渋谷にとって観劇とは贅沢な娯楽である。学校に居た頃も、小林を筆頭に庶民よりも裕福な連中から話を聞く事が多かった。折角の機会を無下にするのも勿体無い……と思ったのも束の間、煌びやかな衣服に身を包んだ人間達が大挙して押し掛けている画を想像して吐き気を催した。
 帝都最高峰の舞台、うら若き女優、何もかもが眩しい。
 才と努力を以て栄光を掴み取った自分と同じ年頃の少女達を見ていると、少し前の日常を思い出す。
 小林や松山、孤児院の子供達。流れから外れて独り取り残された自分とは違い、彼ら彼女らはきっと今日も彼らの時間を生きているのだろう。
 停滞しているのは己只一人。まるで屍のように――。
 誰かに拳で頭を殴られたような気がした。
 ビクッと身体が痙攣し、舌を鳴らして妄執に終止符を打つ。
 意識が朦朧とするとすぐに良からぬ考えが暴れ出す。子供のように悪夢を恐れてまともな睡眠を取っていなかった代償だ。ニコには迷惑を掛けまいと何気ない素振りを徹底していたが、寝付きも寝起きも悪く、昼間は常に睡眠の誘惑と闘っている。
 乾いた眼球に布団を被せて、床に居座る雑念を追い出そうと試みる。睡魔と焦燥が縄のように絡まって首を締め上げている。片方だけでも消さなければ。
(……そう言えば)
 身体は正直だ。気力という理性を失えば本能に従うように出来ている。
 渋谷は腕を組んだまま門に寄り掛かった。
 眠りの海に漕ぎ出す中、ぼんやりとした地平線に思い描くのは、雨に濡れた一人の少女。
(彼女も此処の生徒……だったか……)

 チリン

 懐かしい音に誘われ、渋谷の意識が燦然と覚醒した。
 耳元で誰かが囁くような、遠くから呼んでいるような。遠いようで近く、近いようで遠い。
 主人の御帰還かと、門扉から身を乗り出して景色の中に青を探してみるも、其処には燃える赤が広がるばかりである。
(夢か)
 落胆を味わい、再び木陰に身を潜めようと踵を返した時だった。
 視界の隅で何かが光った。
 それは旧校舎と呼ばれる木造校舎の足元に転がっていた。
 学帽の鍔を上げ、目を細めて凝視する。記憶が定かであればニコ達を送り出した時にはあのような物は落ちていなかった。
 それにあの小さな煌きには覚えがあった。
 瞬きをしているうちに眼球が潤いを取り戻す。瞼を開閉する度に金色の光が明滅した。
 好奇心に背中を押され、主人の手荷物を門に立て掛け、誘われるままに校庭を横切る。
 御守りだ。それも世界で唯一つの。
 手を伸ばして煤けた御守りに触れる。見間違える筈が無い。彼方此方が解れた巾着も、くすんだ彩も、長年の汗を啜った独特な臭いも――。
 違う。
 持ち主自身が首を傾げる。仄かな温もりを宿したそれからは、今までに嗅いだことの無い、香水とも花とも石鹸とも言えない不思議な甘い匂いがした。
 鼻先を近付け、彼の体臭を深く吸い込む。
 ぞわっ、と全身の毛という毛が立った。
 それは瞬く間の出来事だった。
 あの時と同じ、いや、それ以上の洪水が睡魔諸共全てを蹴散らして行く。
 肌がひやりと冷たくなったかと思いきや今度は空と同じように火照り上がった。
 己の内に目覚めた醜い欲望を知った少年は唯々呆然としている。もう一度嗅いでみたいという衝動と、これ以上踏み込んではならないという理性が争いを始めた。
 そして勝負の末に後者が勝った。
 自分に近付いて来る気配が今すぐ我を取り戻せと命じている。
 砂地を踏みしめる微かな足音と自分に注がれている視線に気付き、御守りから目を離し、ゆっくりと地面を伝って夕陽がある方角を見やった。

 赤い世界に孤独な影法師。
 一人の女学生がその場に佇んでいた。

「き、君は」
 八重子らと同じ制服。前髪は眉の上で綺麗に切り揃え、長い髪を後ろで大きな団子の形に纏め上げている。肌は色白だがけして病的では無く、寧ろ健康的で張りがある。帯の前で両の掌を重ね、ほんのりと赤い唇を固く結び、目を細めて不審者を睨み付ける。芳美のような吊り目とは対極のおっとりとした垂れ目でありながら、円らな瞳には鋭利な針が宿っていた。
 何よりも渋谷の心を捉えたのは、
「君は、あの時の」
 腰を上げて自分より頭一つ低い相手を見下ろす。少女は微動だにしない。それを良い事に、光沢のある細い髪や長い睫毛の一本一本を食い入るように見る。
 いつか帝都の最果てで出会ったあの少女だ。
 雨の夜と言う物事を記憶するにはあまり芳しくない状況の中でも、彼女の姿は渋谷の脳裏に鮮烈に焼き付いていた。おさげにしていた髪、血と雨と涙にまみれていた頬、乱れた制服、恐怖で震える瞳――今、目の前に居る彼女はそれらの情報とは何もかもが異なるが、その容貌は彼女に相違なかった。
「どなた」
 更には聞き覚えのある声。渋谷は衝動的に彼女の手を掴んでいた。
 優しい体温、柔らかい感触。手の平から脳天まで電流が走った。
「ぶ……無事で良かった! あの後、家まで辿り着けたものかとずっと気掛かりだったんだ。怪我の具合は? 顔を酷く殴られていたようだが、もう痛まないか?」
 青痣どころかくすみ一つ無い美しい肌だ。
 更に近付こうとする渋谷を少女は激しく突き飛ばした。
 その双眸はニコ以上に冷淡で、そして強い憎悪が宿っていた。零れ落ちた御守りをさっと奪い取り、怯んだ渋谷の胸倉を一突きして距離を取る。
 彼女の行動が渋谷の中で決定打となった。
 御守りを託した人間はこの世で唯一人だ。
 例えば目の前の少女があの日の彼女から御守りを預かっているだけなのでは、とも考えてみたが、直感がそれを否定する。彼女だ。双子でも他人の空似でも無い、彼女なのだ。これで別人なのだとしたら狐か狸に化かされているに違いない。
 縁とは残酷だ。簡単に切れてしまいそうな細い糸でも、ふとした時に神や物怪が悪戯したかのように絡み合う。運命と呼ぶには壮大で、偶然で済ますには陳腐。然しその何方も正しい。
 少女は目を絞るように細めて渋谷の顔を見詰め、そして忌々しそうに外方を向いた。視線の先には不用心に開放されたままの門扉。何かを察したのかハッと息を呑む。
 御守りを懐に仕舞いそのまま逃げ出そうとする彼女の腕に、渋谷が喰い付く。
「待て! 俺を覚えて居ないのか? 東山の近くで会っただろう」
 御守りよりも気になるのは彼女だ。
「人違いです。東山なんて行った事がありません」
 相手は此方をちらりとも振り向かず、強引に突破しようとする。渋谷は彼女の手首を掴みながら、その背中と、自分達の脇に聳える校舎を見比べた。
 最上階の一室だけ窓が開いている。
 御守りはあそこから落ちて来たのだ。
 何という事だ。彼女はまさか。
「小町さん」
 少女の歩みが止まる。
「君、冴島小町さん……なのか」
 蔵書室の番人は寮生で、暇さえあれば蔵書室に籠って仕事をしているとの情報だ。休日、制服姿、旧校舎、目の前の彼女はそれら全ての条件を満たしている。
 手から伝わって来る動揺が答えだった。
 あの夜に出会った少女が、疑惑の渦中にいる人物。
 渋谷は神秘に畏怖していた。
 縁、縁、縁。何たる悍ましき怪奇。
「話を聞かせて欲しい。本当に君が宗像芳美さんを突き飛ばしたのか? あれは『旧校舎の亡霊』の、東条さんを苦しめている怪奇の仕業じゃ無いのか?」
 焦りが頂点に達しようとしている。聞きたい事は山ほどある。
 八重子の意見にもあったように、目の前のこの少女が芳美の言うような凶行に及んだとはどうにも考えられない。もしもかつての友人のように仮面の下で狡猾に嗤っているのであれば早々に種明かしをして貰いたいところだが、出来れば素顔は見た目通りであって欲しいと言う願望がある。私はやっていません、その言葉を引き出せたなら、自分は今すぐにでもニコを追い掛けて彼女の無実を訴えるだろう。
 それに謎はもう一つ。
 渋谷は彼女を強引に自分の方へと引き寄せた。
「答えてくれ! 君とあの男の間に何が」

パンッ

 銃声に似た激しい音が黄昏に響き渡った。
 全身の熱が右の頬に集中する。
 渋谷は麻痺から目覚めても己の身に何が起こったのかまるで理解出来なかった。
 指で頬に触れ、鈍間な神経が痛みを感知する。視界から一瞬で消え失せた少女の姿を求めて眼球を傾け、そうして見付けた彼女は銃口を此方へ向けていた。
「汚らわしい」
 放たれた弾丸が容赦なく渋谷の心臓を貫く。
 対峙する少女は、冷徹な無表情とは裏腹に肩が微かに震えていた。
 あの夜と同じだ。男に襲われていた時と同じ恐怖を押し殺した眼だ。
 頭が真っ白になった。
 頬の痛み、心の痛み、そして彼女の痛み。全ての痛みが、貴様はまた間違いを犯したのだと教えてくれている。少女の影が夕焼けに呑まれて行くのを見送る他に為す術も無かった。
 前方に人影が現れる。警棒を握り締めた守衛が何かを喚きながら駆け寄って来ていた。
 男の罵声が空虚な頭に銅鑼のように鳴り響いていた。
 轟音が増して行くにつれて視界が黒い靄に包まれる。
 今捕まったら主君に迷惑が掛かる。また彼の足手纏いになってしまう。
 早く逃げろと誰かが警鐘を鳴らしているにも関わらず、いつか見た悪夢がまざまざと脳裏に甦り、一瞬にして沸騰した恐怖に身も心も支配され、指先一つ動かせなくなる。
 ――汚らわしい。
 この手に残るは甘い香りと、おどろおどろしい穢れ。
 左肩、右肩、続けて右腕、左腕に鈍い衝撃が走り、世界が回転する。いつかの憲兵を彷彿とさせる大柄な守衛に掴み掛られながらも渋谷は少女の影を探した。
 警棒を受けて崩れ落ちる少年の姿を目の当たりにした小町は、弾かれたように目を逸らし、砂を踏み荒らして亡霊の城へと駆け込んで行った。
 赫赫たる光に目を潰されそうになりながら少年は少女の影を追い、
(あれは?)
 夕暮れの隙間、『それ』は姿を現した。
 まるで整った列から小さな一粒が零れ落ちているかのような違和感。
 何の変哲も無い日常の風景に変哲が浮かび上がっていた。
 彼女が背負う『それ』を渋谷の目は確かに捉えていた。
「駄目だ、危ない」
 然しその正体を探るよりも前に、
「大人しくしろッ!」
 抉るような衝撃を背中に受け、赤い舞台の幕が閉じた。

 

 風に足を取られ、小町はその場に倒れ込んだ。
 誰も居ない無音の蔵書室。窓も仕事机もそのままの状態で、空の色も変わらない。
 全ては悪夢のような一瞬の出来事だったのだ。
 震える足を無理矢理立たせ、椅子に座り、呼吸を整える。
 手首の皮膚には自分の物では無い誰かの汗がこびり付いている。恐怖に似た得体の知れない感情に包まれ、小町は自分の手で何度もその汗を拭った。
 拭えども、拭えども、不快感は落ちない。
(『旧校舎の亡霊』が……? あの人は一体何を……)
 乱暴な手。熱い汗。忌々しい過去が蘇り、ヒッと悲鳴をあげて頭を振る。悪夢に屈してしまったようでどうにも悔しく、乱れた手つきで涙を拭う。
 深呼吸を何度も繰り返しているうちに視界も思考もぼうっとした。
 いつもの癖に従って赤い空を見やる。
 静かだ。
 大工の声も、守衛の声も、あの少年の声もしない。風の音も、鳥の声も、木々の騒めきも聞こえない。そこにあるのは不気味な無である。
 胸が熱い。懐から御守りを取り出し、それをじっと見詰める。
 何かを頻りに訴えているような異様な熱だ。
(……あの声、何処かで……)
 強引で気味の悪い黒ずくめの男だったが、小町さんと呼ぶその声は優しく、そして懐かしかった。家族以外の男に下の名前を呼ばれたのは生まれて初めてだった。

 聖域に一片の花弁が舞い込む。
 それを裂くように、

 ドンッ

 また、あの音が、

 ドンッ、ドンッ、ドンッ

 語り掛けてきた。

 

 ドンッ!

 


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