――史人。史人、さあ起きてくれ。
 彼方から呼び声がする。自分の声によく似た誰かの声だ。それに引き寄せられるように、冷たい闇の水底に沈んでいた意識が緩やかに上昇して行く。
 暖かな光を求めて両手を伸ばしていたが、自我が覚醒するにつれて、背徳感のような後ろめたい気分が生じて来た。
 駄目だ。俺はまた間違いを犯そうとしている。
 手を引っ込め、光から顔を逸らす。すると身体は心に呼応するように再び闇へ沈んで行った。
 そうだ、これで良い。
 このまま闇に呑まれて消えてしまえばいい。
 遠退く光を見届けようと僅かに眼を開け、

 誰かに手首を掴まれ、渋谷は勢いよく飛び起きた。
 途端に激痛が全身を駆け巡り、視界が揺らいで掠れた嗚咽を漏らす。身体が鉛のように重く、炙られているかのように熱い。意識と感覚が覚醒するにつれて鈍痛が増して行き、耐え切れずに再びベッドに身を沈めた。
 花の香りを乗せた暖かな風が頬を撫でる。瞼に降り注ぐ光から顔を背けつつ恐る恐る目を開けると、次第に目が慣れて周りの模様が見えて来た。
 大きな窓から朝の新鮮な風が滑り込み、花瓶に活けられた菖蒲の花と花柄のカーテンを揺らしている。白い漆喰の壁に板張りの床といった十畳ほどの洋室で、自分は窓際にある一人用のベッドに横たわっていた。そこから室内へ視線を這わせると、暖炉と机、木製の衣装箪笥などの家具が見えた。天井には百合の花を模った陶器のランプがぶら下がっている。
 何処からかジリジリと電話の音が聞こえて来た。
 ベッドから這い出て床に足を立てるなり、体中から力が抜けて前のめりに倒れ込んだ。骨が軋むような痛みが走り身体が悲鳴をあげる。
 衣服が真新しい物に新調されている上、頭や手足に包帯が巻かれている。試しに左の前腕の包帯を捲って見ると皮膚が紫に変色していた。特に痛むのは背中で、目視する術は無いが指でなぞるだけでもその深みが伝わって来る。おそらくこれが最大の傷だろう。怪奇鎌鼬から受けた傷が未だ完治していないにも関わらず、同じ場所に獣の爪痕のような傷が深く刻まれていて、その真新しい方の傷は細い糸で丁寧に縫合されていた。
(あれからどうなったのだろう。俺は確か……)
 身を八つ裂きにされそうになった感覚を思い出し、頭を振った。兎にも角にも足は付いているし、ここが黄泉の國だとも思えない。
 カチ、カチ、と、机上で枕時計が時を刻んでいる。その音に呼吸を合わせ、がたがたと震える両足に力を入れて立ち上がる。浮世の物とは異なる澄み切った風が背中を押してくれた。
 苦痛に意識を攫われてしまわないように真っ直ぐ前を見据え、体力が手足の指先から滴り落ちて行くような脱力感と格闘しながら、電話の音を頼りに邸を模索する。
 旧志方邸孤児院と趣が似ている広大な洋館だった。今歩いている二階だけでもかなりの数の部屋がある。威厳に満ちた立派な邸宅だがどうやら奉公人の類は雇っていないらしい。裸足で床板を踏み締める度に白い粉塵が足裏に付着し、背後に自分の足跡が出来上がる。階段の踊り場の窓から望む庭園には玄関から門扉まで続く煉瓦の小径が辛うじて見えるが、その周辺は手入れを怠っているようで枝木やら雑草やらが雑然としており、庭園と言うよりも寧ろ獣道に近い状態だった。
 丘陵に存在しているのだろうか、普段より空が近いように感じる。日当たりの良い場所で敷地全体が豊かな自然に護られており、見渡す限りに於いては邸の他に建物などの人工物は見当たらない。人の姿は見えないものの、木々が青々と茂り、鳥達が楽しそうに歌い、遠くからチョロチョロとせせらぎが聞こえて来る。
 塵界の穢れが染みついた渋谷にとって、神秘の生命が息吹くこの世界は何処か怖ろしく、そして無性に惹かれる物があった。
 一階に降り立ち、玄関ホールから廊下を見渡す。長い廊下の途中にある花瓶台の上に真新しい卓上式の電話を見付けた。個人の邸宅に電話を引いているとは、さてどのような貴族が出て来るのだろうかと息を潜めて待ってみる。が、家人がやって来る気配は無い。
 早く出ろとけたたましく声を張り上げる電話を前に気を揉んでいると、その背後にある部屋で物音がした。
 両開きの扉を開けて恐々中を覗き込む。天井の高い、一際広い客間である。暖炉の上の壁面には青い金平糖のような物体を描いた抽象的な油絵が飾られている。ソファや丸いテーブルの上には無数の本が高く積み上げられ、その周辺に原稿用紙やら文房具やらが散乱していた。
 誰かが締まりのない声と共に腕を突き上げ、その衝動で本の峰が崩れた。
「やれやれ、朝っぱらから喧しい」
 本を乱暴に掻き分けて這い出て来たその姿に渋谷は瞠目した。
(ニコ!)
 未だ夢の中を彷徨っている心地だった。
 声も、青い髪も、瞳も、忘れる筈が無い。草臥れた紺色の甚平姿はいつか共に行動していた時と比べると随分と間が抜けているように見えるが、鋭い眼光は相変わらず健在である。
 扉の前に突っ立っている渋谷を押し退け、ニコは欠伸をしながら電話を取った。交換手から通話相手の番号を告げられ、もう一度欠伸をして代わるように言う。
 もしもここがニコの邸なのだとしたら、縁と言う物を痛感せずには居られない。何と言う巡り合わせなのだろう。絶望の大海を流れ流れて、その果てに彼の元へ漂着するとは。合わせる顔が無いと思う反面、心の片隅では再会を願っていた。
 今すぐにでもあの小さな肩を掴んで事情を聞き出したいが、渋谷はその衝動を耐え、固唾を飲んで彼の動向を見守った。
「お早う、朝っぱらから暇だね君も。……何? ああ、そうか、今日が期限だったか……、一日くらい何とかならないのかね、今日はこれからご婦人がたと約束が……」
 噛み潰しきれずに間延びした声を廊下に響かせる。窓辺で羽を休めていた雀が驚いて飛び去った。
「……それは君の仕事だろう。タイプライターなんて僕のような素寒貧には無縁の代物だよ。経費で落としてくれるなら……、分かった分かった、はいはい、今日中に行くよ。嘘じゃないさ、ああ、天神地祇に誓って。ああ、うん、ではお休み」
 間髪入れずに受話器を置き、状況が呑み込めずにいる渋谷の眼前を通り過ぎてソファへと戻って行く。毛布を頭まで被って微睡みに落ちる姿を前に、渋谷は足に根が張ってしまったかのように棒立ちになっていた。
 少し待っていれば家族の一人くらい現れるのでは無いかと息を潜めていたが、聞こえて来るのは自然と動物の声ばかりで、突然何処かで低い唸り声がしたので犬でも飼っているのかと思いきや、それは自分自身の腹の音だった。
 すると毛布の下からぬうっと手が伸びて隣室を指差した。
 君、と声を掛けても亀のように引っ込んでしまう。渋谷は諦めて隣室を覗いた。
 これまた広々とした応接間で、更にその隣には食堂がある。この三つの部屋は全て観音開きの扉で連結されていた。広間や食堂にある椅子の数を見ても大勢の人間が住んでいて然るべきだと思うのだが、どうにも人間の息吹が感じられない。庭に面した窓や食堂の暖炉にも虫達が居城を成し、鏡台やランプといった調度品の数々が本来の艶を失っている。
 細長いテーブルの片隅に大皿があり、その上に槲の葉に包まれた白い柏餅が五つ鎮座していた。水が入ったギヤマングラスが隣に添えられている。
 干上がった喉に唾が滑り落ちてピリッと痛んだ。
 いつか路辺で目撃した饅頭を思い出す。これを手にした途端に誰かに殴られるのでは――そんな恐怖に駆られて周囲を見回すが、優しい空間は只々微笑を浮かべて仔犬を見守っている。
 食料を前に腹の虫が盛大に嘶いた。
 譬え袋叩きにされても構わない。渋谷は葉ごと餅を鷲掴みにして、五つ全てを次々に口へ放り込んだ。咳き込みながら夢中で頬張り、甘く濃密な小豆餡と苦い槲の両方を堪能する。一つ一つが喉を通る度に自分が生きているという実感が湧いて来て、最後に冷たい水でそれらを押し流すと漸く夢見心地から醒めた。
 思い出したように痛覚の波が押し寄せて来た。背中をはじめ肉体の節々が不調を訴え、それらを処理していた脳も逆上せてしまう。ぼやける視界を定め、足を引きずりながら大広間へと引き返して餅の親玉のような物体を揺さぶった。
「ニコ、起きてくれ。わけを教えてくれないか」
 ニコは甲羅の中から何かを乞うように掌を差し出して来た。
 返答に詰まっていると、ようやっとニコが頭を出した。同時に彼の腹の音が鳴る。詰責の目を向けられ、渋谷は赤面して頭を下げた。
 委縮する渋谷をそのまま呑み込んでしまうような大欠伸をして、ニコは勢いを付けて身を起こした。
「ここは我が邸第『びゐどろ邸』だ。三日前の晩に訪ねて来た友人の手土産がお前だった」
 木の葉のように散らばる本と原稿用紙を拾い集め、乱雑に纏める。そして庭園に面した窓を豪快に開放して清らかな朝風を室内に誘うと、
「本日も晴天なり」
 声高らかに言って庭先を指し示した。
 ニコの背後に立って黒鉄の門扉を見やる。石畳の階段を降りた先に小川が流れていて、それに掛かる太鼓橋の足元に転がっていた所を友人とやらが拾ったそうだ。当初は傷の他にも栄養失調と低体温症を患っていて危殆に瀕していたが、医学の知識に明るい友人の処置によりすぐさま回復の軌道に乗る事が出来た。
 丸二日も眠っていたのであれば、その間はニコやその友人が看病してくれていたのだろう。すっかり変貌してしまったにも関わらず渋谷史人だと見抜いてくれた事も嬉しい。
「……有難う」
 久し振りに零れた笑顔は何処か強張っていた。
「家族は? まさかこの広い邸に独りきりだなんて言わないよな」
「そのまさかだよ少年」
 ニコが無愛想に返答して渋谷の小脇をすり抜ける。
「お前を拾ったのは友人であって、僕自身にはお前の面倒を見てやる気など無い。友人の言伝の通りに治療は行うが、身体が回復したら出て行ってくれ。十日後に背中の抜糸をする」
 常に毅然とした物腰だが今はより一層刺々しい物言いに感じ、視線を床に落として彼の言葉を噛み締めた。そうしている間にも小さな足音は廊下へ吸い込まれて行く。
 渋谷は暫くの間、ニコの言葉に束縛されていた。
 助かった、全ての苦悶から解放された――そんな安堵に浸っていたのも束の間、急に現実へと引き戻される。命こそ助かったが状況は然程好転していない。帰る場所も金も無い、満身創痍の裸一貫だ。唯一の所持品だった心の拠り所も自らの意志で手放してしまった。
 自分は未だ濁流の中に居るのだ。
(止そう。命あっての物種だ。彼には感謝しなくては)
 廊下に出て玄関ホールを見る。
 ここを出て行ったらどうなる?
 あの世界を、どうやって生きて行けば――。
 財布を開く度に小銭が消えていった恐怖を思い出す。少なくともあと十日。この十日で一日一銭を稼いで行く術を見付けなければ今度こそ黄泉の國へ堕ちてしまう。
 期限は刻一刻と迫っている。与えられた猶予を単に食い潰しているだけでは以前の繰り返しになってしまう。一秒たりとも無駄には出来ないのに、この傷だらけの身体は意志に背いて思い通りに動いてくれない。
 絢爛豪華な紋様が刻まれた玄関扉をぼうっと眺めていると、
 カランカラン、カランカラン
 ドアベルの音が邸中に響き渡った。
 客人だ。確かこれから婦人と約束があると言っていた。
 白い長袖のシャツに亜麻色のベストとズボンといった仕事着に着替えたニコが、灰色のリボンタイを結びながら足早に降りて来た。
 そのまま真っ直ぐ玄関へ向かう彼を、
「ニコ」と、思わず呼び止めた。
 怪訝な表情で振り向くニコに、狼狽を呑み込んで次の言葉を紡ぐ。
「あ……、な、何か、俺に出来る事は……」
「休息だ」人差し指を渋谷の鼻先に向けて命令する。「自由にしてくれて結構だが、僕の邪魔だけはするな。歩行に障りがあるなら杖を使え。僕の寝室にある。飲み水は庭の井戸、剃刀と歯ブラシは二階の洗面所だ。あまり派手に動くなよ」
 歯切れの良い調子で言い終えて、ニコは両開きの扉の取手に手を掛けた。
 いけない。身体の痛みを堪えながら急いで階段を上がる。まともなのは衣服だけだ。それ以外は人前、それも女性に見せられるような状態では無い。
 踊り場を曲がった時、背後から賑やかな声が聞こえて来た。
 よく通る華やかな女性の笑い声に惹かれ、咄嗟に物陰に身を潜ませて玄関口を確認する。そして、背が高い顔立ちの良く似た二人の女性――おそらく姉妹か親子だろう――の片方が目深に被っていた舛花色のクロッシェ帽子を取って素顔を晒した瞬間、渋谷は驚愕した。
(あれは確か、女優の……東条、そうだ、東条八千代だ!)
 流行に疎い自分でもその名声を耳にしている。帝國劇場の中でも最高峰の規模を誇る劇団の看板女優で、帝國活動写真の発展に尽力しているキネマ女優としての顔も併せ持つ。過去には帝國令嬢美人写真展で堂々の一位を獲得し、顔写真が記念切手にもなった。出演作品自体は未見だが街の彼方此方で宣伝チラシを見掛ける。
「ご無沙汰ねえ、探偵さん。相変わらず埃臭い御邸だこと! あなたいつになったら使用人を雇うの?」
「さて、いつになるかな。独りが好きなものでね」
 ニコは婦人達に恭しく礼をして邸の中へ招き入れた。
 流石は帝國屈指の大女優、遠目に見ても絵画のように美しく整った顔立ちをしている。帽子と同じ色の地味なワンピースを着ているが、何かを語る度に動く真っ赤な唇、しなやかな体躯の線、膝丈のスカートから覗く白い足など、濃厚な色気は忍ぶという事を知らない。それでいて幼い少女のように無邪気に笑っているので益々年齢が分からない。
 一歩後ろに控えている少女も八千代に負けず美人である。髪を耳元で切りそろえている八千代とは異なり此方は艶やかな黒髪を腰まで伸ばしている。帝都女学校の制服を着ているので恐らく渋谷と年が近いと思われるが、姿勢が良く、何処か大人びた印象である。ニコとは初めて対面したのか、困惑しつつも頬を染めて彼を見詰めていた。
 一瞬、長髪の少女の目線が此方を向いて、渋谷は咄嗟に奥へ身を隠し、彼女達の気配が居間に消えて行くまで息を殺していた。
 謎だ。十三判事とも親交があるニコの事なので大女優と友人であっても不思議では無いが、大衆の頂点に立つ八千代と気さくに談笑している光景は新鮮だった。探偵さんと言うからには彼の素性も承知の上なのだろう。
 秘密の会合が気になって仕方が無い。然し、盗み聞きをするわけにもいかない。
 渋谷は大人しく引き下がり、忍び足で二階に這い上がり洗面所を探した。
 洗面所と手洗い場は埃塗れの廊下からは想像がつかない程、何方も床から天井の四隅まで丹念に磨かれていた。ゆったりとした二つの空間が応接間と同じように引き戸一枚で繋がっている。便器は帝國内では珍しい腰掛式の白い水洗便所であり、小窓が開放されたままで便所特有のあの刺激臭が一切無い。ここは果たして便所なのかと思える解放的な個室に溜息すら出て来る。部屋も風呂も便所も全てが共同で常に人の眼に囲まれながら過ごして来た渋谷には、あらゆる物が真新しく、そして心地良かった。
 ニコはこの邸に独りで暮らしていると言っていた。使用していない部屋はほぼ放置の状態だが、それでも子供には不相応極まりない規模の大豪邸である。邸の維持費だけでも相当な物だろう。そうすると矢張り彼の背後には黒幕やパトロンが居るようにしか思えないのだが、どのような人間が彼を操っているのか皆目見当がつかない。
 目覚めたばかりの頭に次々と謎が襲い掛かり、それに疲弊した渋谷は一旦全てを忘れる事にした。自分の現状すら考えられない中で彼の事情を彼是想像して何になるのだ。この縁も十日もすれば絶たれてしまうのに。
 洗面台の片隅に小包を見付け、中から新品の歯磨き用具と剃刀を取り出す。
 鏡に映る自分は、頬がこけ、無精髭が雑草のように生えている。自由の利かない身体と言い別人を見ているようだ。
 『彼』はいつもこんな気持ちで居るのかも知れない。
 髭を剃り、刀をそのまま鋏の代わりにして鬱蒼とした前髪を削ぎ落として行く。元の髪型と同じになるように短く切り込もうとして、止める。
 陽光に照らされた渋谷史人の素顔をじっと見つめる。そして少し考えて、いつかの雨の夜に出会った蛇飼いの男を思い出し、顔半分が隠れるように体裁を整えて行く。更に歯を隅々まで磨くと平々凡々な姿に落ち着いたが、この淀んだ瞳だけは治りそうにない。
 鏡に映る自分に触れ、鼻先を近付けてその瞳を覗き込む。
 無意識から引き揚げてくれた声と手の主が『彼』であるなら、あの手を無理にでも拒絶していたらどうなっていたのだろう。
 あのまま目を開けていなければ。黙って闇の底に沈んでいれば――。
「そうか……また間違えたんだ」
 悲しく笑うと、突然胸が締め付けられてドキッとした。それは身体中に刻まれたどの傷よりも痛く、慰めの音が無いからかいつもより激しく感じた。
 ニコは休息しろと言っていたが、今は空白が息苦しい。
 洗面台に散らばった塵を片付ける。次は塵箱を探して、その次は――、と、空白を予定で埋めていきながら、渋谷は再び神域へと一歩を踏み出した。

「怪奇現象」
 ニコに問い返され、八千代の娘、東条八重子は困惑を残しつつ静かに語り出した。
 彼女は帝都女学校に通いながら母親と同じ演劇の道に入った、今年十八歳を迎える新米の女優である。八千代が所属する劇団『帝都キネマ倶楽部』が新たに立ち上げた小劇団『茜座』の入団試験を受け、見事合格を果たしたのが本年二月下旬の事で、茜座の一員として活動し始めて暫く経った四月上旬の頃から彼女の身辺で様々な異変が生じるようになった。
 一つ、視線を感じる。二つ、奇妙な物音がする。
 女優になる前から似たような事案は度々あった。見知らぬ男に待ち伏せされた経験は一度や二度では無く、尋常小学校の頃から東条家の使用人が彼女の送迎を行っているが、自宅を探ろうと追跡して来る者、手紙を渡して来ようとする者が後を絶たない。よって不躾な視線や自分を追尾する足音など今に始まった事では無いのだが、今、体感している視線や物音は、どうにも人間の物とは思えない要素を孕んでいる。
 例えば自宅の風呂場や手洗い場など、到底部外者が入って来る事が無いような閉ざされた空間であっても透明な誰かに睨まれているような感覚がする。
 特に物音が不気味で、
「二階の自室で読書をしていたら、上から、何か妙な……」
 ドン、ドンッ!
「そう、丁度こんな音が……、えっ?」
 八重子が天井を見上げて母の手を握る。
 八千代も不安そうな表情で娘の手を握り返し、天井を睨みつけた。
「あら。なあに、今の」
 身を寄せ合う母娘を前に少年探偵は呑気に緑茶を啜っている。
「捨て犬だよ。怪我をしているくせにやんちゃな奴でね」
「ほ、本当に?」震える声で八重子が訊ねる。
「此処は僕の庭だよ。安心したまえ」
 音は数回で治まり、再び静穏が戻った。
 八重子はさり気なく母から身を離した。しっかりとした面持ちは崩さないが恐怖を無理矢理押し込んでいるように見える。連日の怪異で疲弊している事は確かだ。
 ニコは眉間に皺を寄せる若き女優に微笑を投げ、小皿に用意した色取り取りの金平糖を勧めた。砂糖菓子を頬張って緊張が解れたのか、強張っていた少女の表情が和らぎ漸く笑みを零す。この邸で初めて見せる素朴な笑顔だった。
 少し打ち解けた所で八重子が話を再開した。
 東条邸は二階建てで、屋根裏部屋の類や人が入る隙間は無い。然し、彼女が独りでいる時に限って、鼠とも思えない、まるで誰かが暴れているような音が降って来るのだ。その怪異は自室に限らず舞台の更衣室などでも発生している。そして少しでも近辺に他者の気配があると息を潜めてしまうので、家族や使用人達は未だ現場に遭遇していない。彼らはせめて八重子が独りにならないようにと気を遣ってくれたが、それもまた息が詰まってしまう。
 茜座に入団してからは何処に居ても好奇の目に晒される毎日で、東条邸の自室だけが唯一の聖域だったが、それすらも怪奇現象に踏み躙られてしまった。孤独で居られる時間の喪失が八重子にとって最大の苦痛だった。
 大手貿易商社長の父と大女優の母は何方も多忙で家を空けている事が多く、兄と姉が代わりに八重子の世話を引き受けてくれているが彼らにも生活がある。使用人の時間を独占してしまうのも気が引けてしまう。そういった周囲の心労を増やしたくない一心で、八重子は何処に居ても常に仮面を被って過ごすようになった。
 その努力も虚しく、被害はとうとう他人にまで及んでしまった。
「二週間ほど前、舞台で演技の確認をしていた時でした。天井に吊るされていた電球が破裂して……幸い私は無傷だったんですが、すぐ傍に居た子が怪我を」
 負傷した娘は八重子と同時期に入団した三つ年下の女優で、名前を日下春江と言う。
 八重子と春江が舞台上に姿を現した直後の出来事だった。何の前触れも無く、本舞台の真上に吊るされていた六つの照明器具が次々に砕け散り、硝子の飛沫が少女達に降り注いだ。八重子はそれを間一髪で避けられたが春江は全身に浴びてしまい、更に驚きのあまり派手に転倒してしまった所為で、命たる顔は無事だったが腕や足に小さな傷を負ってしまった。痕に残るような物では無いものの完治するまでにはそれなりの時間を要する。新人女優達の御披露目会も兼ねた初舞台を近日に控えている一座にとって大きな打撃となった。
 照明器具については電球を交換するだけで事なきを得たが、破損した原因については誰もが首を捻っている。劇場は震災後に改築されたばかりで、設備に於いては団員達が毎日欠かさず点検を行い、扱いに関しても細心の注意を払っている。つまるところ例えば誰かが狙撃でもしない限りは安全な状況だった。
「警察には相談を?」
「いいえ。実は座長から口止めされているんです。舞台にケチを付けたくないって」
 茜座の座長は元々帝都キネマ倶楽部で監督助手をしていた若者で、特に今回の御披露目会は八千代を含める劇団の面々から大いに期待されている。これで茜座の名を周知させ、ゆくゆくは帝國演劇界を牽引する存在に育て上げようと言う計画だ。帝都新聞社の協力の下に初舞台の宣伝を大々的に行い、その甲斐あって前評判は上々、他の同業者達も二人の新人に熱い眼差しを送ってきている。座長だけではなく大勢の人間にとって特別な舞台になる事には間違い無く、それだけ執着も強烈だ。今回の事故には誰もが肝を冷やしたものの、心配の対象は人では無く舞台である。
 座長は関係者全員に箝口令を敷いた。春江も周囲の空気を読んで気丈に振る舞っている。視線や物音については変質者が女優達を狙っている事も考え得るので、送迎の他、稽古中にも常に第三者が目を光らせるようになった。それが彼らなりの精一杯の対策だった。
 約束を律義に守って誰にも打ち明けなかった八重子だったが、数日後に考えが一変した。
 学校から第二の被害者が出てしまったのだ。
 それは人影が疎らな放課後、八重子の眼前で発生した。
 階段を降りていた最中、隣を歩いていた友人が突然何かに弾かれたように前のめりに倒れ、そのまま踊り場に吸い込まれて行った。
「通りかかった子に助けを求めて、急いで彼女を医務室に運びました」
 ――誰かに突き飛ばされたの!
 周囲には誰も居なかった筈だが、友人は鬼気迫る顔でそう訴えた。治療に協力してくれた学生の肩を掴んで「あんたがやったんでしょう」と叫ぶ姿に偽りは感じられなかった。彼女は腰を強打し、今でもコルセットを着用して生活を送っている。激しい運動を禁じられており勉学にも支障をきたしている状態だ。
 見えざる何かがその背を押したのだ。
 八重子は心底震え上がった。
 学校、劇場、家。まるで無関係のように見える三つの事件だが、それらを結んで居るのは自分のように思えて仕方が無い。穢れた足音はじわりじわりと距離を縮めて来ている。それに追い付かれた時、親しい人間か、或いは己自身が命を落としてしまうのでは無いか。寝ても覚めてもそんな恐怖が頭に纏わり付くようになった。
 俯く八重子を横目で見ながら八千代が溜息を吐いた。
「あたし、ここ数日は泊まり込みで仕事をしていたの。新作のフィルムが検閲に引っ掛かってしまって、その対応に追われていて」
 ――お母さん、助けて! 怪奇に殺されてしまう!
 その第一声に只ならぬ気配を察した八千代は列車に飛び乗って帰宅した。
 そして事情を聞くなり茜座に公演の中止を要請したが、大女優の言葉であっても真剣に向き合う者は居らず、逆に、命令に反した八重子が非難されるようになった。更には帝都キネマ倶楽部の団長までもが駆け付けて、警察に相談しようと気炎を揚げる八千代をマアマアと諫めながら、これ以上騒ぎ立てるようなら八重子の退団処分も考慮すると脅迫めいた言葉を吐く。孤立して行く母を見かねた八重子に乞われて八千代は渋々矛先を収めた。怪奇の仕業である可能性を示唆した所で彼らの反応などたかが知れている。
 八重子とて座長達と同じように――いや、他の誰よりも初舞台に想いを馳せている。怪奇に屈せば女優の路も閉ざされてしまうと言う気概で挑んでいる。母親と比べて臆病だと、春江より幼稚だと囁かれている中、せめて己の弱さを演技には映すまいと努力を重ねて来たが、仮面に入った罅は日々日々深くなっている。
 本番は一週間後だ。それまでに、この仮面が割れるか、犠牲者が出るか。
「皆、分かってないのよ。何かがあってからでは遅いのにね」
 金平糖をぼんやりと見詰める娘の肩を八千代が力強く抱き寄せる。怪奇の脅威は彼女も身を以て知っている。二度と聞くまいと思っていたその名を耳にしてからと言うものの、未だ癒えない記憶の古傷が開き、娘と同様に眠れぬ日々を送っている。
 黙々と手帳に万年筆を走らせていたニコが手を休めた。
「君の言う通りだ」
 道具をテーブルの上に置き、代わりに懐から扇子を取り出す。要に括りつけられている鈴がチリンと鳴いて、八重子がハッと目を見開いた。
「だが一つ覚えておいて欲しい。もし八重子さんを苦しめている者が怪奇なのであれば、それもまた『何か』から生まれたのだ」
「『何か』……」
 掠れた声で八重子が呟く。
 ニコは視線をそのまま横にずらした。
「席を外してくれ」
 八千代は不安そうにニコと八重子を見比べていたが、ニコの意図を察して立ち上がった。深々と頭を下げる女傑からは娘に対する純粋な愛情が滲み出ていた。
 二人きりになり、八重子は再び強張った表情で腿の上の拳に目を落とした。
 沈黙が流れる。ざわざわと荒れ始める心を鎮めながら只管探偵の言葉を待つ。いつまで経っても反応が無いので恐る恐る正面を窺い、青い瞳と衝突して慌てて俯いてしまう。未だかつて味わった事が無い緊張感に眩暈すらしていた。
 ニコは扇子を手にしながらじっと彼女を見守っていた。
 その背後には不浄の息吹が見える。彼女自身が言う通り矢張り何らかの怪奇事件に巻き込まれている線が濃厚だ。だが、何かが引っ掛かる。
「母はこれまで過去に遭った怪奇事件について何も語ってくれなかったのですが、先日、この世に強い執着を残す『穢れた死』から怪奇が生まれるのだと教えてくれました。貴方の言う『何か』とはその事でしょう?」
 八重子は上目遣いでニコを見た。その目には迷いと未知に対する虞が宿っている。
「でも、私の周りで訃報なんて聞きませんし……」
 ニコはソファに深く沈めていた腰を浮かせて懐疑の視線を真摯に受け止めた。
「先入観に囚われてはいけない。現時点で言えるのは、怪奇の根源たる何者かが何かを訴えている、ただそれだけだ」
 人の死の穢れより怪奇が生まれ、それは現世に於ける縁で結ばれたモノに執着する。その対象は場所であったり人であったり事柄であったりと様々だ。『何か』を探るに当たって重要となるのがこの縁である。怪奇が八重子の近辺に度々出現するのであれば、其処に如何なる糸が隠されているのかが鍵となる。
 楔を打たれたのは八重子自身か、それとも。
「近頃、君にとって何か印象に残る出来事は無かったかね」
 沈黙の思考が続き、十分が経過した。
 振り子時計の鐘の音が隣室から響いて来て、八重子は瞑想に一区切りを付け、金平糖を食むニコにまごつきながら答えを口にした。
「母には話していないんですが、こんな話、探偵さんが信じて下さるかどうか」
 心に引っ掛かっていた物の正体が判明した。彼女は自分を案じてくれる母親にすら打ち明けられない、何か大きな秘密を抱えているのだ。
 探偵の嘲笑を怖れて言い淀む彼女にニコが柔らかく微笑んで先を促す。それでも彼女は自信が持てずに暫く目を泳がせていたが、やがて意を決したように話し始めた。
「私、この間まで怪奇と文通をしていたんです」

 その不思議な遣り取りは、八重子が茜座の入団試験を目指して日々演技の練習に励んでいた昨年師走の頃に始まった。
 震災の影響により校舎の彼方此方が破損し、目と鼻の先の敷地に新校舎を建築する事になり、登校から下校まで工事の音が校庭に響いていた。屈強な大工達が自由に立ち入りしており、友人達は音が耳障りだの男達が下品だのと文句を垂れていたが、八重子は、茜座の入団試験と同じ時分に校舎が完成するという話を聞いてからそれに妙な親近感を抱いていた。
 この時期、放課後になるといつも旧校舎の一室を借りて特訓を行っていた。
 普段は大勢の友人達に囲まれて過ごす事が多く、中でも、自分と同じように茜座を目指している友人とは演劇を語り合うなど切磋琢磨していたが、試験が近付くにつれて彼女達と距離を置く時間が増えて来た。賑やかな中に居るとどうしても集中力が削がれてしまう。お節介な誰かが追い掛けて来る事もあったが、その都度素直に事情を説明して断っていた。
 この、太陽が沈むまでの刹那の孤独が、八重子にとって何よりも大事な物となっていた。昔の寺子屋に増築を重ねて作られたおんぼろの校舎を堪らなく愛していた。
 その日も八重子は孤独の教室に到着するなり、トントンカンカンという心地良い音楽を聞きながら日記を付け始めた。
 日記は健康状態や練習の記録も兼ねており、誰にでも――特に母には見られても良いように話題を選別している。実際、その情報を基に大女優による演技指導が行われている。これは母には見せられない、少しでもそう思った頁は密かに破り捨てていた。
 この日も一枚を千切った。
 完璧な日記を仕上げると、次に、蔵書室から拝借した洋書を読み始めた。
 偶然表紙を見掛けてから気になっていた海外の歌劇の専門書で、これが非常に興味をそそられる内容だった。八重子は音楽も時間も忘れて只管その世界に没頭した。

「オペラに興味があるのか。確かにあれは良い物だ」
 誰でも好きな物を語る時の顔は柔らかくなる。ニコに指摘され、八重子は照れ臭そうに下を向いた。
「いえ、私は」何かを言いたそうにして矢張り引っ込めてしまう。「兎に角、その日には読み切れず、続きは別の日に改める事にしました」

 書物の貸出を行う場合には貸出カードに署名する決まりとなっている。どうせこんな古臭い本は今までもこれからも誰も借りないだろうと思って勝手に私物の栞を噛ませておいたが、予想通りカードは空白のままだった。
 八重子はそれを家に持ち帰って思う存分玩味する事にした。
 自室に籠もり、いざ、と本を開いた時、栞と共に一枚の紙片が滑り落ちた。
 先日破り捨てた日記の一頁だった。そう言えば塵箱に処分した記憶が無い。どうやら栞と一緒に挟んでしまっていたらしい。
 改めてそれを処分しようとして、手が止まり、紙面を走る自分の字を追い掛けてみる。
 一行目、二行目、三行目……。十行目までやって来て息を呑んだ。
 覚えの無い数行が追加されている。自分の物とは異なる美しく整った字で綴られており、その末尾は奇妙な言葉で締め括られていた。

 ――旧校舎の亡霊より。

「君はその頁に何を?」
「その……個人的な悩み事です」
 彼女には母親に知られたくない悩みがあり、それを吐露した頁を破り捨てた筈が、本に挟んだまま返却してしまった。『旧校舎の亡霊』がその悩みに返事を書いたのだ。
 誰かに悩みを知られてしまったのは一つ懸念だったが、それはすぐに払拭された。
 亡霊は八重子の苦悩に対して、心が安らぐようなときめくような、この胸に渦巻く霧を晴らす手掛かりを与えてくれた。亡霊の名を見て初めは良くない物を想像してしまったがその言葉からは悪意など微塵も感じられない。
 八重子はこの亡霊に俄然興味が湧き、まるで物語の主人公になったような気分で謝礼と返事を書き、前回と同じように栞と共に本に挟んで返却した。
 これが発端だった。本を郵便箱の代わりにして手紙を投函し、数日おくとそれに返事が追加されているという流れで、初めの一度を含めて五度の遣り取りが交わされた。
「悩み事は最初の分だけで、それ以降は他愛も無い世間話をしていました。それが、私が六通目の手紙を出してから便りが途絶えてしまったんです」
 年が明けて愈々入団試験が目前に迫っていた頃、彼或いは彼女との関係は唐突に終わりを迎えた。八重子自身が多忙を極めていたのでそれに気付くまで時間が掛かった。
 本その物が成仏したかの如く消失していたのだ。確かに旧校舎の蔵書室に返却したのだが、図書委員の一人と協力して隈なく探しても見付からなかった。
「怪奇と文通だなんて、信じて頂けないかもしれません。証拠が何も残っていないから証明の仕様がありません。ですが本当にあった出来事なんです」
 八重子は怪奇の正体が『旧校舎の亡霊』だと主張している。何処かで不興を買ったが故に今回の事件に繋がってしまったのだと。
 ニコは眉間に皺を寄せて考え込んだ。確かに一考の余地がある。
「その亡霊とやらが怪奇だとは断定出来ない。ただ、もしそうだと仮定するなら、怪奇と文通をしていた、つまり知らず知らずのうちに交霊を行っていたと捉えるか、その文通相手の穢れが怪奇となってしまったと捉えるか。君は前者だと言いたいようだが?」
 『亡霊』の名を見て筆名では無く怪奇だと思った事に何か理由はあるのだろうか。
 矢張り八重子は前者だと思い込んでいたようで、ニコが提示した二つの案に一驚を喫していた。そして記憶の海を泳いでいるうちに自分がその案に至った経緯を思い出した。

 そろそろ頃合いだろうと五通目の返事を確認しに蔵書室へ行った時の事である。
 時期で言うと二月の中旬で、茜座の入団試験より前に新校舎が完成し、生活の基盤が其方に移り、旧校舎の方は取り壊しが決定していた。
 役目を終えた校舎には備品を移動する為に誰かが時たまやって来るだけで、ほぼ無人に近い状態だった。蔵書室に於いても元々少なかった利用者が完全に消え失せ、いつも応対してくれる学生が部屋の片隅で図書委員としての仕事を黙々とこなしていた。
 棚の蔵書が虫食いのように欠けている中、件の本は依然その場に佇んでいた。
 郵便受けを覗き込んだ時、
「やあ、久し振り」
 自分の肩を優しく叩いて来る者が居た。
 相手を見るなり八重子の顔に花が咲いた。
「環さん」

「たまえさん」
 ニコはすかさずその名前を手帳に記した。
「私の同級生で、例の――日下春江さんの姉です。彼女も女優志望で、私と一緒に茜座を受けました」
「彼女は落ちた」
「ええ、まあ……。でも彼女、私と違ってとても前向きなんですよ。最近は彼女も忙しいようで話す機会が無いのだけど、前はよく一緒にお喋りをしたり観劇に行ったりしていました」
 特に茜座の入団試験に落選してからは更に火が付いたらしく、八重子も彼女の意志を汲んで一定の距離を取るようになった。八重子の方も放課後や休日は殆ど茜座に詰めているので、能々考えてみると最近はまともに互いの顔を合わせていない。
 あの時も今と良く似た状況だった。

 明朗快活な笑顔が妙に懐かしい。八重子は嬉しくなり、饒舌に近況や世間話などに花を咲かせた。その中で、彼女になら、と、『旧校舎の亡霊』について語った。
 莫迦にされても良かった。だが環は目を輝かせて耳を傾けていた。
「それってあれよ、怪奇って奴だよ」
 彼女はいつも奇抜な事を言う。八重子は吹き出してしまった。
「妖怪の類にこんな情緒のある文章が書けるのかしら」
 取り敢えず本を借りに行こうと図書委員の元へ行くと、その人物は開け放った窓に向かって猫のように大きく伸びをしていた。二つのおさげが風に靡いている。この蔵書室での事務的な遣り取りしか接点が無い彼女が初めて見せる仕草に思わず笑みが零れた。
 笑い声に気付いて頬を染める彼女に本を差し出す。隣の学級の学生だと言う情報だけは辛うじて覚えているが、その他の素性は分からない。淑やかで真面目そうな文学少女だ。放課後になるといつも夕陽の片隅で黙々と損傷した本の手当をしている。
 貸出カードに八重子の名前を書く彼女に、
「あんた、『旧校舎の亡霊』の正体を知っているんじゃない?」
 環が親しそうに身を乗り出して話し掛ける。
 おさげの学生はおっとりとした表情で首を傾げた。
「存じ上げませんわ。どうかなさったの」
 今まで何度も顔を合わせていながら初めて会話らしい会話をしたような気がする。隣に居る環に同調し、つい、亡霊の話を多弁に披露してしまった。
 本に挟まっていた手紙を広げて一瞥する。予想通り、返事らしい文字が見えた。
「ほら、またあった。これって噂の怪奇かしらね」
 それでね、と続きを言おうとして、
「ねえ、まだなの?」
 後ろを振り向くと同級生の宗像芳美が仏頂面で立っていた。環の熱心な信者で、いつも彼女の後ろを付き人のようにくっ付いて回っている。今日も一緒に帰る約束をしているようだ。
 何事かと此方を窺う芳美を見て、八重子は立ち所に本の中に手紙を仕舞った。これを切っ掛けに交友関係が広がるのでは無いかと期待していたが、それは後日に回した方が良さそうだ。
 話を切り上げ、環と芳美を追って蔵書室を出る。家の使用人が校門で待っているのでそこまで三人一緒に行く事にした。
「環さん、彼女と仲が良いのね」
「ううん、名前すら知らないよ」
 環のこう言った人懐っこく情の深い所を尊敬する時が多々ある。女学校に入学した頃、緊張していた自分に真っ先に話し掛けてくれたのも彼女だった。
 芳美が莫迦にしたように鼻を鳴らした。
「貧乏者の寮生よ。朝も昼も放課後も、暇さえあれば蔵書室に引き篭もって内職しているの。貧乏臭いし不細工だし、あんまり近寄らない方が良いんじゃない」
「悪口は止して」と、すぐに環が譴責に入る。「でも不思議だねえ、そんな彼女が知らないとなると、亡霊は本当に怪奇なのかも知れないねえ」
 話の要領を得ない芳美はその単語を聞いた瞬間に顔を顰めた。それと対照的に、浪漫だねえ、と環は歯を見せてけらけらと笑っていた。環の感情が八重子の顔に伝染する。
 この時の八重子は未だ母の経験について無知であった。通念上では忌避されている存在だが、神や妖も禍を齎す者と福を為す者と千種万様なのだから、心根の優しい怪奇だって居るのかも知れないと思った。常識的に考えると学生か教師の仕業なのだろう。だが相手の顔が見えないのであればいっそ神秘と交流していると考えた方が環の言う通り浪漫がある。
 校門までやって来て、二人と別れる。夕陽のような煌く笑顔の友人がいつかの日常と同じように大きく手を振っていた。
「さようなら、また明日ねえ」
「ええ、また明日」
 街中に沈んで行く二つの影法師を見送り、視界に入った旧校舎に目線を移す。実家の次に見慣れた建造物はすっかり生気を失い、まるで静かに死を待つ老人のようである。それが完全に朽ちた時に『亡霊』も消えてしまうような気がして、一刻も早く返事を確認したい衝動に駆られて八重子は急いで帰路へと就いた。

 ニコは彼女の物語を綴りながら成程と呟いた。
 ごく些細な糸口だが、そこから怪奇現象へと発展した為に「もしや」と疑念が生まれ、盲信に至ったのだ。秘匿するべき交流を自ら他者に晒してしまった所為で怪奇を怒らせてしまったのではと八重子は推測している。独占欲と執着心の強い怪奇が、自分を裏切った事への恨みにより、彼女とその近しい人間に危害を加えて居るのだと。
「階段から転落したのは環さんなのでは」
 ニコの推理に八重子は驚いた様子で頭を横に振った。
「いいえ。でも惜しいわ、正解は芳美さんよ。どうしてそんな事を?」
 怪奇の執着対象が彼女――つまり『人物』だと想定するのであれば、八重子と春江の何方とも縁を持つ環にも何らかの被害が及んでいるのではと思ったのだが、意外な名前が出て来た。勿論、偶然とは思えない。ニコはその名前を日下環の隣に追加した。
 八重子はこの一件から宗像芳美と親交を持つようになった。以前までは同級生と言う繋がりのみだったが、今では環に対する態度と同じように接してくれている。芳美が転落した日も、劇場付近に自宅が在ると言う彼女と途中まで同行する予定だった。
「そう言えば、あの時一緒に芳美さんの介抱をしてくれたのもあの子でした」
「あの子?」
 八重子はニコから万年筆を取って登場人物をもう一つ追加した。
 ――冴島小町。

 あんたが犯人だと掴み掛かられてもかの蔵書室の番人は嫌な顔一つせずに治療を為した。どうやら図書だけでなく人の治療も得意としているらしい。更には、学校の備品では限度があるので医者の手配までやってくれた。初めは興奮して声を荒げていた芳美も、彼女――小町の献身的な態度に、不承不承ながら押し黙るようになった。
「お気持ちは分かります。他に誰も居なかったんですものね」
 小町の言葉を聞くなり、「嘘吐き」と、腰に負担を掛けないようベッドに横たわっていた芳美が身を起こそうとする。八重子と小町が慌ててそれを抑止した。
 芳美は確かに背後に人の気配がしたと言い張る。小町は小町で、廊下を歩いていた時に二人の悲鳴を聞き、階段を降りて行く八重子と思われる人影を追い掛け、惨状を目撃した。つまりその場から逃げ出した人間は皆無だった。
 春江に続いて芳美まで。偏頭痛に襲われてふらつく八重子を小町が支える。
 小町の肩に縋り付きながら、そのまま二人に己の身辺で頻発している怪奇現象と春江の事故について語った。家族にも打ち明けていない全貌を心の命じる儘に曝け出した。
 流石の芳美も興奮が冷め、それが過ぎて顔を真っ青にしていた。
「それはつまり、怪奇……なのでしょうか?」
 天井を見上げながら小町が呟く。八重子が真っ先に思い出したのはあの文通相手である。
 芳美は引き攣った顔で嘲笑した。
「怪奇なんて御伽噺よ!」
「軍学校であった怪奇事件、御二人もご存知でしょう?」
 帝都でそれを知らない人間は居ない。誰もが新聞だろうと噂話であろうと一度は何処かで耳にしている、帝國中を震撼させた大事件だ。一時期は帝都新聞を中心に何処の新聞にも『怪奇事件』の字が印刷されていた。環から怪奇の名を聞いたのは事件が起こる前だった。あの時はそれについて漠然とした印象しか無かったが、今は違う。
 懸命に恐怖を堪える八重子の手を小町が優しく握り締める。
「怪奇の仕業だと決め付けるのも良くありませんが、このまま放置しておくわけにも参りませんわ。一度、探偵さんに相談なさってみては? 私、心当たりが在りますの」
 探偵。芳美が忌々しそうに拒絶反応を示す。
「た、探偵だなんて。駄目よ、そんなの」
 世間的には芳美の反応が真っ当なのだろう。八重子としても、藁にも縋りたい気持ちではあるが怪奇探偵と言われると若干の抵抗がある。軍学校殺人事件の真犯人として起訴された怪奇探偵も、連盟が彼を庇護して無罪になるよう裁判所に圧力を掛けたと言う噂を聞く。彼らに関する情報を持っていない以上は信用に足る存在なのか判断が出来ない。
 然し、小町の意見は正しい。誰が何と言おうとこの状況で無視の態度を貫くのは愚かだ。探偵でも警察でも良い、今誰かに相談しなければ怪奇は今度こそ誰かの命を奪うに違いない。
 数日考え込んだ末に、八重子は恐怖から後押しを受けて、電話を手に取った。

 ガタン、ドン、ドンッ。
 ビクッと身体を痙攣させて証言を止める。
「御免なさい、無駄話をしてしまって」
 八千代も今頃欠伸を噛み潰している頃だろう。申し訳なさそうに頭を下げる八重子に、いや、とニコは手を挙げる。彼女を取り巻く人間関係も大切な手掛かりだ。特に日下春江と宗像芳美は怪奇と縁を持っている可能性が高い。日下環も四人目の被害者になってしまわないよう留意しておく必要がある。
 兎に角、これ以上は空論が多くなりそうだ。後は足を使わなければ。
 パンッ、と、扇子を開けて八重子の意識を誘い、首を竦めて委縮する彼女に向けて扇面の上に乗っている物を差し出す。
 式神だ。その頭部を指で突くと、指令を受けた式神が起き上がって八重子の前に仁王立ちした。まあ、と八重子は口元に手を当ててその魔法を鑑賞していた。
「肌身離さず持って居たまえ。穢れを遠ざけるように『まじない』を仕掛けてある。後は、君の自室にも結界を張っておきたい」
「まじない? 結界?」
「部屋の隅に塩を盛るだけだ。素人がやっても多少の効力は在るがね。どうする?」
 安全圏だけでも早急に確保しておくべきだ。
 現場の捜査をするには女学校と劇場に立ち入ると言う難関を突破せねばならないが、これには八重子の協力が不可欠となる。ニコは特に目立つ。加えて、式神を負傷者二名にも渡しておきたい。怪奇が再度彼女達を狙って現れる可能性は十分に在る。
 八重子は人の形をした式神を受け取り、頭部の印と胴体の文字を物珍しそうに確認している。そしてそれを大事に両手で持ちながら強く頷いた。
「探偵さんにお任せします。どうか……宜しくお願いします」
 先程まで燻っていた探偵に対する偏見は完全に払拭されたようだ。
 長い髪を垂らして深く辞儀をする彼女の前で、ニコは扇子を閉じて妖艶に笑った。
「承知した」
 怪奇は此方を待ってはくれない。悠長にはして居られないが、茜座の面々は探偵の介入を断じて許しはしないだろう。先ずは東条邸が最優先として、教室と劇場の調査は人気の無い休日になりそうだ。手引きは八重子が引き受けてくれた。
 邸をうろついていた八千代を呼び寄せ、捜査の段取りを伝える。怪奇の知識を有する八千代が味方であるのは八重子にとって最大の幸運だろう。当人は仕事の為に再び現場に戻らなければならないようだが、家族や使用人に成る丈八重子から目を離さないように言うと約束してくれた。
 秘密の会合の終わりを告げるように応接間の扉を一斉に開け放つ。
 邸宅から少し離れた場所に車を待たせてあるらしく、八重子はその足で女学校へ登校すると言う。八千代は明日の朝まで此方に居るそうなので、本日夕刻には東条邸に寄る事を伝えた。
 別れを済ませて玄関の扉を開けた時、八千代が思い出したように振り向いた。
「あなたにしては随分と可愛らしい犬を拾ったのね」
 ニコは階段の方を横目で見やって苦笑した。
「正直に言うと持て余しているのだよ」
「いつも相手にしている変なのよりはマシでしょ。優しくしておやんなさい」
 あれは『変なの』の極致だがね、という言葉を呑み込み、婦人達に挨拶をする。
 玄関の扉に寄り掛かり、小さくなって行く二人の背中を眺めながら物思いに耽っていると、『変なの』の足音が耳を擽った。ニコは肩を竦めて庭園に背を向けた。

 気配がして、顔を顰めながら目を開く。視界の中央に陶器の白百合が映り、そこから横に頭を傾けると、不服そうに眉を寄せたニコが見えた。
 渋谷は卑屈な作り笑いで応えた。
 日常への復帰訓練も兼ねて、自分がかつて着ていた衣服を雑巾の代わりにして部屋の掃除をしていたのだが、このざまだ。杖を突いて歩いても足がもつれ、時々前触れも無く力が抜けて倒れ込んでしまう。その度に背中の大傷が軋む。
 ニコは足元に転がっていた杖を拾い上げて渋谷の鼻先を突いた。
 室内は適当に見渡しただけでも小綺麗になっている。その代わりと言わんばかりに、暖炉に張っていた蜘蛛の巣と敷物に積もっていた埃が少年の衣服や髪に移動していた。
 実に不可解だ。『あの時』と言い、彼は時々、その臆病且つ従順な性格に反して此方が想定して居ないような突拍子も無い真似をする。
 狙いは何だ。傷だらけの身体に鞭を打ってまで無駄な事をする目的は。
 探偵の中で推理が構築され、一つの解を導き出した。睡眠を削って慣れない介護を行った者に対する挑発的且つ無礼な行動にニコは益々仏頂面になった。
「入院を長引かせようという魂胆なら手伝ってやる」
 忌々しそうに言って容赦なく武器を振り翳す。渋谷は慌てて攻撃を受け止めようとしたが、感覚が鈍麻している所為で腕が上手く動かない。
 覚悟を決めてぐっと目を瞑ったが衝撃はやって来なかった。
 一拍置いて、静寂に小さな溜息が落ちる。
 怯えながら再度彼の方を見ると、青い瞳が、黒く汚れた傷だらけの雑巾を正視していた。
 慈愛と憐憫が混在した物憂げな表情に渋谷は暫く釘付けになっていたが、彼の注意が逸れているうちに急いで身を起こしてその場に正座した。
「じっとしていても身体が鈍るだけだし、少しでも君の役に立てたらと思ったんだ」
 気まずい空気を破ろうと明るい調子で言う。
 が、此方に戻って来た双眸は冷たかった。
「休息しろと言った筈だ。お前の行動は寧ろ僕の邪魔となっている。もう少し『彼』のように利発になってくれると大いに助かるのだがね」
 ニコとしては自分へ反抗した罰として軽く嫌味を言った心算だった。
 渋谷の笑顔が硬直した。

 ――ああ、ほら、やっぱりそうだ。
 ――俺はお呼びじゃ無いんだって。

 口元は笑ったままだが瞳から灯火が消え、彼だけ時間が止まってしまったかのように瞬き一つしない。不審そうに見ていたニコは一先ず矛を収めた。
「どこぞのお節介から聞いた。あれから退学処分になったそうだな」
 秒針が一つ先へ進む。
「……そう。その後、孤児院で放火があった。俺の手配書を見なかったかい」
 ニコは顔を顰めて更に詰問した。
「警察から逃げ回っていたのか? まこと愚鈍な奴よ。身に覚えが無いのであれば堂々として居れば良いだろう。或いは、孤児院の面々と一緒に西へ行っていれば、知人友人を頼っていれば、そのように飢えて苦しむ事も無かっただろうに」
 壊れた蓄音機が歪に嗤った。
 『彼』ならば通用する論だ。ニコは『俺』の愚を解していない。
「疫病神」
「何?」
「大体の人間が今の君と同じような目で俺を見る。怒ったような不機嫌そうな顔しか見せてくれない。別に今に始まった事じゃない。ずっとそうだった。俺は疫病神だから。彼らが、邪魔だ、迷惑だと言うのだから、消える。俺にはそれしか出来ない」
 いつか大久間判事に追い詰められていた時の事を思い出す。結局、どんなに心を変えようと努力してもいつも此処に戻ってしまう。
 誰かの役に立ちたい。認められたい。彼らの言葉に従えば、褒めてくれる。
 この欲求は穢れと同じく誰しも心の内に抱えている物だが、自分はこれが甚だしい。そのくせ盃を満たすだけの材料を持っていないのだから性質が悪い。
「出頭する勇気も無い。一銭を稼ぐ事も出来ない。就職しても過酷すぎて身体がもたなかった。飢えて、彷徨って、ついに盗みまでやってしまった。愚鈍だろう。ぐどんなんだ」
 盗み。予想外の発言にニコが低く唸る。身体の塩梅から彼がどのような生活を送っていたのか大体の見当は付けていたが、まさかそこまで追い詰められていたとは。
 邸に運ばれて来た時の彼は身も心も穢れに蝕まれていた。
 肉体は幾許か回復したものの、その心に根付いた穢れは一朝一夕では癒されない。一か月程度の放浪生活によって生み出された物では無い、十八年余りの歳月が積み重なって魂に定着している。強烈な孤独と飢餓がそれを更に深刻な物にしてしまったのだ。
 危うい。
 『彼』に会った時から察していたが、二つの人格はそれぞれ異なる匂いを持っている。片方は怪奇探偵の生命力とも言える退魔の力が強く、片方は穢れに弱く影響を受けやすい。宛ら陰と陽の如く分かれている。後者が『渋谷史人』の主導権を握っているのであれば、譬え前者が優秀であったとしても後者も後者なりの対策を有しておかなければ意味が無い。
 これを道端の石として通り過ぎるべきか。
 小石はへらへらと自嘲しながら独白を続ける。
「君のようになれたらどんなに幸福か。鬼頭教官や君はいつか俺にこう言ってくれた。『お前はそれで良いのだ』と。然しこんな愚劣で良いわけが無い。そうだろう?」
 暖かい方へ視線を向け、開け放たれた窓の向こうに広がる青空を見る。恩師を連れて行った時の物と同じ風が髪を揺らしている。
「分かっている、俺は間違えたんだ。せめて彼と逆であったら……いや、それでは意味が無い。俺が間違いなんだ。そう、そうだ、俺さえ消えてしまえば」
 チリン。
 懐かしい音が間近で鳴り、渋谷はきょとんとした顔で体の向きと同じ方向に視線を戻した。
 ニコは満足して渋谷の頭から扇子を離し、膝を突いて彼と同じ目線まで腰を下ろした。
 渋谷はばつが悪そうに目を泳がせていたが、顔は背けつつも目線だけをニコの方へ送った。監獄に囚われていた頃と同じ、世界に絶望している目だった。
「何を盗んだ」
 少し優しく問い掛けると、彼は俯きがちに両腕で包みの形をなぞった。
「野菜を、これくらい」
 大人に叱られている子供のようなたどたどしい声で白状し、びゐどろ邸の麓に漂着するまでの経緯を語る。東山近辺を拠点に一日一日を生き抜いていた事、雨の晩に人様の畑に手を付けてしまった事、帝都女学校の学生との出会い、そして男との乱闘を。
 穢れを纏った女学生と聞いてニコの眉が動いた。
 東山。こことは川一つで繋がっているものの位置的には大分離れている。閑静な住宅地と田園が混在する貧困者の多い地域で、線路も敷かれていない辺境だ。女学校からも車で数時間程の距離がある。渋谷がそのような場所で生活していた事も驚きだが、気になるのは、大した名所も無い帝都の片隅に女学生が居たと言う事実だ。それも雨の晩に。
 偶然と言えば偶然なのだろう。だが見捨ててはおけない。
 沈黙するニコに何かを察したのか渋谷が再び道化を演じ始めた。
「もう少し回復したら直ぐに警察に行く。盗みをしたのは事実だ。行く当ても無いし、丁度良かったんだ。これ以上君には迷惑を掛けない、約束する。だから安心してくれ」
 歯車が狂ったままだ。ニコは推理を中断して目の前の問題に向き直った。
 杖を持ち直し、頭の方で渋谷の眉間を小突く。
「それは『のろい』だ」
 渋谷の眼前に『呪』の字を杖で書く。
「『まじない』と『のろい』は表裏一体、その本質は祈りと穢れだ。お前は穢れた言霊によって己自身を縛り付けている。自らの手で断ち切らねば苦悶の沼からは永遠に抜け出せぬぞ」
 渋谷は眉を八の字に曲げた。
「な、何の話をしているんだ。大丈夫だよ、俺はもう間違えない」
「お前のまことの心は間違いの中にこそ在る。内なる声を聞きたまえ」
 ふッと渋谷の顔から感情が消えた。
 ニコは立ち上がり、放心する渋谷を過ぎって思惟に耽った。
(場合によっては奴に預けてみようかとも思ったが、この調子ではあの界隈の空気に付いて行けまい。それに此奴は『化物の尾』と関係が……)
 渋い顔をして吐息を漏らす。不本意ではあるが愈々選択肢が一つに絞られて来たようだ。捨て犬を拾って来た張本人はこの事態を予知していたのかも知れない。近頃はどうも誰かの掌で踊らされてばかりのような気がする。
 渋谷の背中に目を呉れて、衣服に隠された二つの傷のうち『あの時』に出来た物を見る。傷だらけの盾に言葉を掛けようとして口を噤んだ。
 目を細め、微笑を浮かべる。
 ――其れもまた一興よ。
「十圓あれば足りるか」
 虚無を見詰めていた眼がきょろきょろと動き、ベッドの脇から空を見上げる青い髪に引き寄せられる。片手には杖、その逆の手には雑巾があった。
 ぽた、ぽた、と、足元に泥水が滴っている。
「此度の依頼の報酬が五十圓。僕の取り分を四、お前を一として、その金で件の農家に弁償すれば良かろう。そう言ったらどうする?」
 ニコが振り向き、渋谷に挑戦的に問いかける。
 団子に結った髪の隙間から太陽が煌いて、あまりの眩しさに渋谷は目を伏せた。
 空白となった意識の中で彼の言葉が反響し、秒針が一つ時を刻むにつれて鈍麻していた神経が覚醒して来た。只でさえ傷が多い上に追い打ちを掛けた所為で酷い頭痛がする。
 一度の報酬が五十圓とは中々儲かる商売だが、それだけ危険が伴うのだから正当な額だと言える。その五分の一を働かずして受け取るなど虫が良すぎる。
 覚えている限りに於いても家主は相当激怒している。当然だ。この状況で相手方から許しを得られるとは思えない。盗みを働いた農家の場所も当時は視界が悪かったので漠然とした位置しか記憶が無く、相手方が警察に届けを出しているならまだしも家を特定するだけでも相当の時間が掛かりそうだ。
 どうせ迷惑を掛けてしまうのだから、より負担が軽い道を選ぶべきだ。警察に自首をする、十三人に聞いたら十三人が正解だと答える道を自ら選んでいる筈だ。
 なのに何故こうも苦しいのだろう。
「分からない」鉛を吐き出しているような感覚だ。「その施しを受ける資格は俺には無い」
 ニコが口を尖らせた。
「施し? フン、愚か者。自慢では無いがびゐどろ邸の家計は万年火の車だ。罰金百圓を支払ったばかりで僕自身も食事すらまともに取っていない」
 空腹が相の手を入れる。彼の貴重な食料を奪った事への罪悪感が圧し掛かった。
「そんな状況で俺が居たら、君にとって害でしか無いだろう」
 もう誰にも迷惑を掛けたくない。間違いを犯して忌み嫌われたくない。
 希望を前にしても、更なる絶望を恐れて目を逸らそうとする。ニコは杖の先を渋谷の首筋に当てて深みに陥ろうとする彼の意識を引き上げた。
「お前には選択をする自由が在る。己の意志で答えを出したまえ」
 ぼんやりと虚を見詰めている彼の足元に杖と雑巾を置く。
 そろそろもう一方の問題にも着手しなければ。依頼人との面会時間までに今朝の電話の約束を果たしに行く必要もある。脳内で帝都の地図を広げて二か所に丸印を付けていると、その双方から離れた場所に聳える東山に意識が向いた。
 探偵の勘に過ぎないが、僅かでもそれが働くのであれば調査対象だ。
 渋谷が遭遇した女学生の一件は、つまり三日前の晩の出来事だ。然し八重子の口からはそのような情報は出て来なかった。怪奇事件と無関係であっても噂話の一つくらい聞いていてもおかしくは無いのだが、果たして彼女は何も知らないのだろうか。
 彼是と考えながら部屋を出て行こうとして、足を留める。
 ズボンの裾を掴んで来る手にニコは睫毛を伏せてにやりと笑った。
 ――そうこなくては。
 枕時計の長針が一つ進む。渋谷は途端に我に返り、自分自身の行動に驚いて手を離した。一瞬の空白の中で起きた異変に困惑して、じっと己の掌を見詰めている。
 それは二つに別たれた『渋谷史人』の叫びだった。悲しい事に今の彼はその叫びの、己のまことの声を聴く力が非常に弱い。
 彼らには時間が――長い長い時間が必要だ。
 ニコは渋谷の膝元に手帳を放り投げた。
「僕はこれから野暮用で外出する。戻るまでに依頼の概容を頭に叩き込んでおけ。今より歩けるようになったらお前も僕の助手として捜査に加わって貰う」
 渋谷は怖気づいて思わず手帳を落としてしまった。
「助手だって? で、でも、俺に探偵の才なんて無いよ。警察に追われる身だし、『彼』に替わる術だって知らないし、君や連盟の足手纏いになるに決まっている」
「働かざる者食うべからず、だ」
 ニコが淡泊な返答と共に踵を返す。
 遠退いて行く背中に縋り付こうと手を伸ばしたその時、ニコがくるりと此方を振り向いて、嘲弄の笑みを浮かべながら扇子の先を渋谷の眉間に向けた。
「びゐどろ邸の主人は僕だ。此処に居る以上は主君たる僕が絶対的であり、居候のお前は僕に服従せねばならない。それが嫌なら直ぐにでも出て行くが良い」
 目を丸くする少年に高飛車に宣告する。
「ニコ、待ってくれ」
 尚も混乱する渋谷の鼻先に扇子を押し付け、
「立場を弁えろと言っている。返事は」
 主人が首を傾げ、同時に扇子の鈴が鳴った。
 唖然と口を開けて青い瞳を見上げていた渋谷は、それまで身を束縛していた何かが一気に解放されるような爽快感に包まれ、ストンと肩を落とした。
 助手という立場は心許無い。だが『従者』なら。
 彼と会話をしていると状況がいとも簡単に変化する。あまりにも目まぐるしいので置き去りにされてしまいがちだが、今は然程の抵抗感も無く、驚く程にすんなりと受け入れていた。
 使命がある。目的がある。あともう少しだけ生きて居られる。それが許されるなら――。
「……は、はい」
 手帳を拾い上げて小さく頷く。
 弱々しいが取り敢えず灯火が宿った。ニコは得意顔で扇子を懐に戻した。
「フム。柏餅のまじないが効いて来たようだな」
 これ以上の言葉は不要だ。後は時間と環境が治癒してくれる。
 隣室に引っ込み、黒い鳥打帽子と外套を適当に羽織って階段を降りる。不安そうに杖を突きながら追いかけて来た渋谷に「晩には戻る」と言うと、ニコは膨張した鞄を肩から提げて颯爽と出掛けて行った。
 台風が去った海原のように辺りが凪いでいた。
 暫く嵐の余韻に浸っていた渋谷だったが、下駄箱の上の花瓶に活けられている紫の花が目に留まり、ああ、と徐に得心した。
(そうか、今日は端午の節句か)
 柏餅のまじないが菖蒲の花弁のように開いて行く。
 あれはいつ頃の出来事だったか。大柄な憲兵の手を振り切り、彼の背を只管追い掛けて夕陽の中に飛び出した時の気分を思い出す。或いは、嫌味な判事に追い詰められた後の再起と似た感情を抱く。これで何度目だろう。
 前に進む力は未だ残されている。未来への恐怖は拭えないが、せめて五つの柏餅の分くらいは働いてみようと小さく決心し、渋谷は陽だまりの中をゆっくりと歩きながら手帳を開けた。
 そして――。


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