洗練された赤レンガの西洋建築で有名な帝都新聞社は、大手の会社が多くひしめき合う帝都弐番街の象徴と言われている。それに隣接する大衆食堂には個室が多く用意されており、普段から記者達の談話や取材に利用されている。冴島はここの一室を会合の場に指定した。
 鶯色の暖簾が掛けられた四人席に腰を掛け、十河を待つ。壁の向こうからは町の喧噪が聞こえて来る。溌溂とした声で自分と同じ年頃の女給が水を持ってくるので、渋谷は顔を見られないように壁に身を寄せて視線を落とした。図体のでかい冴島が身を乗り出して渋谷を隠し、重要な会議なので余り近付かぬようにと言うと女給は慣れた様子で頷いた。
 ニコは品書きを眺め、女給を手招きすると、
「定食、コロッケ多め」
 帽子の下から微笑を投げられて女給の顔も綻ぶ。
「コラ、何を好き勝手にしている。俺は払わんぞ」
「手塚に付けておけ。腹が減っていては戦が出来ぬ」
 渋谷と冴島の腹が同時に鳴り、ニコは女給に「同じものを二つ追加」と言って彼女に品書きを返した。女給の気配が消えるのを確認して冴島は渋谷の手首から手錠を外した。
 暫くして出来立ての定食が運ばれて来た。小盛の白飯に、味噌汁、大根の漬物、焼き魚にコロッケが三つと言った内容だ。優雅な所作で箸を傾けるニコの眼前で冴島と渋谷は勢いよく食事を貪った。質素な監獄食と比較すると日常の空気も相俟って猶更美味に感じる。渋谷は夢中になってこれらを噛み締めた。冴島の喰いっぷりもさることながら、華奢なニコが冴島と同じ量を平らげたのにも驚いた。
 女給が皿を下げて食後の珈琲を持参した時、それに続けて待ち人がやって来た。
 男は暖簾をあげてひょっこりと顔を出すと剽軽な表情で軽く手を挙げた。
「世間を騒がせる少年死刑囚、怪奇探偵連盟の秘蔵っ子、うだつのあがらねぇ憲兵。この道でメシを食ってもう長いが、こんな頓珍漢な面子を見るのは初めてだ」
 ニコは鳥打帽子を外して軽く礼を返した。
 男はまじまじとその髪色や眼を好奇心の赴くままに眺めながら、懐から名刺の束を取り出して一枚をニコに渡した。
 帝都新聞記者、十河修。数日風呂に入って居ないのか寝癖がついた髪には脂と埃が浮かび、無精髭も手入れをする心算が無いのかすっかり伸びきっている。浮浪者のようにも見えるが素性は確からしい。
 十河は限界まで膨らんだ鞄を足元に放り投げ、ニコの隣に腰を下ろした。足元の鞄の口を開いて中身を探る。取り出したのは手垢に塗れて草臥れた書類の束だ。彼は卓上に束を置いて中から一部を取り出した。
 ニコがそれを手に取ろうとして十河の手に阻まれた。
「お前さんはこいつを何に使う心算だ」
 髪の隙間から見える眼が青を睨み付ける。冴島から多少の事情は聞いているがこの十河と言う記者は帝都新聞社の中でも特に怪奇や化け物と言った不明瞭な話が苦手らしい。昔馴染の冴島に頼まれたとは言え、情報の提供を請け負うには相応の覚悟が必要だったのだろう。
「僕の仕事は怪奇を祓う事。だが彼らを真に祓うには穢れの正体を突き止めなければならない。我々は火では無く火種を処さなければならないのだ」
「あんた達の言う怪奇だとか穢れだとか、そりゃ一体何なんだい」
 記者魂に火が付いたのか十河は生き生きとした表情でニコに尋ねた。
「世界は正と負で成り立っている。人の心も同様で、その均衡が崩れると、人は無意識のうちに片方を補って平になろうとする。だが、その均衡が崩れたままでは……特に負の方に傾いていると人は病んでしまう。穢れはここから生まれる」
 記者の顔の生気が揺らぐ。
「現世にて死を迎えた魂は黄泉の國へ行き、そこで現世から持ち込んだあらゆる物を落とす。怪奇はこの時の歪より生まれる。ひとたび黄泉の國へ行った穢れた魂が、人ならざるモノに姿を変え、穢れた縁の糸を辿って現世へと蘇った存在――それが怪奇だ」
 三人の男がそれぞれ頓珍漢な唸り声をあげる。
 ニコは構わず先を続けた。
「我々は、怪奇をこの現世に縛り付ける穢れの楔を祓い、黄泉への道を開いて彼らを在るべき場所へと送り出す。怪奇は穢れの他の一切を黄泉の國で落としている為、己の名も現世の記憶も失っている。そんな彼らに穢れを通して己の正体を悟らせ、正しく黄泉の國へと還すのが怪奇探偵の仕事だ」
「黄泉の國ってのは……」
「十河君、済まないが今は時間が惜しい。諸々の回答を含めて謝礼は必ず」
 十河は貴重な情報提供者だ。ニコが彼に向けて深々と頭を下げるので、渋谷もそれに倣って頭を下げた。孤立した冴島が視線を泳がせている。
 暫く三人の様子を見詰めていた十河は、やがて豪快に一笑して膝を叩いた。
「そこの憲兵に感謝しておけよ」
 そう言って手元の資料を放流した。
 この記者がどのような思いで協力を決意したか、その全てを察する事は出来ないが、一先ず此方の決意と誠意は伝わったようだ。今は此方の行動に理解を示してくれる人間が一人でも居てくれる事が嬉しい。
 手に取った資料を眺める。五名の教官に関する個人情報だ。
 どれもが豪華な経歴を持ち、中には貴族会に属する者も居た。素行や素性に怪しい点は無し。人格や教師としての評価にも不審な所は無い。特に目立った共通点があるとすれば五人共軍学校の同窓生であり私生活でも親交がある事くらいだろうか。確かに渋谷の記憶の中でも五名の教官達は普段から過去を語り合うなど親しげであった。
 彼らの家族達は事件後すぐに被害者の会を立ち上げた。渋谷処刑への署名運動をはじめ、法廷に乱入した怪奇探偵や怪奇探偵連盟への糾弾、審議を延期した裁判所に対する抗議などの活動を積極的に行っているのだと言う。新聞の切り抜きには『遺族の悲痛な叫び』と大きな見出しと共に被害者遺族の主張が綴られていた。これらの記事の取材や執筆を行ったのは十河らしい。
 自分に対する数多の非難が目に入り、渋谷は思わず目を逸らしてしまった。
「2日の朝、貴殿も憲兵殿と共に学校へ駆けつけたとの話だが」
 ニコに聞かれて冴島と十河は視線を交わした。
 当日、十河は家の近くにある馴染の食堂で朝食を採っていた。そこから会社へ出勤する予定だったのだが、軍学校の方が騒がしいと耳にして進路を変えた。校門前から中を覗いて見ると学生運動が警官に鎮圧された後だと分かり、関係者に話でも聞けないかと校門前でうろついている所へ冴島がやって来た。他愛も無い話をしていると其処へ今にも腰を抜かしそうな教官が助けを求めて来た。冴島からこの場に留まるようにと指示を受けたので以後の事は分からない。ただ、冴島達よりも先に別の教官が警官を連れて東棟の校舎へ入って行くのを見た覚えがある。
 冴島が十河に続いて証言する。現場に到着した時、もう一人の教官と彼が呼んだ警官が渋谷を取り押さえていた。廊下の片隅では二人の学生が怯えていて、片方の学生の衣服に血が付着している事に気が付いて冴島は一先ず居合わせた教官に学生達の保護を任せた。そして再度渋谷を確保して応援に駆け付けた警官達へその身柄を渡した。
 警察署から更なる増援がやって来て校門前は混乱していた。外套を頭から被って連行されて行く渋谷を十河は校門の脇から目撃しているが、彼の足取りは覚束なく今にも倒れてしまいそうだったと言う。
「俺もその辺の記憶が曖昧で……」
 と渋谷が付け加える。確保された際に全身を強く打ったからか身体の彼方此方が痛み、特に後頭部に激痛を感じて意識が朦朧としていた。その間の記憶も靄が掛かったように断片的で不安定だ。
「もう一人の俺が何か知っているかも」
「それは無い。次に彼が目覚めたのは独房だ」
 渋谷とニコのやり取りを眺めていた十河が目を輝かせて渋谷の顔を覗き込む。
「多重人格ねぇ。今そいつとは話が出来ないのか?」
 期待の眼差しを向ける十河に渋谷は目を伏せて首を振った。自分の意志で彼と自由に交代出来るなら今すぐにでもこの身体を彼に渡してやりたい。彼は今こうしている間も自分と同じ世界を一緒になって見ているのだろうか?
 ニコは卓上に積まれた資料に視線を這わせ、その中から一つ取り出したものを手前に広げた。
 鬼頭教官に関係する情報だ。
「爺さんの悪霊が悪さでもしたかい」
 十河がニコと渋谷を見比べて含み笑いをする。
 渋谷が言葉に詰まる。鬼頭の事件は今回の事件と密接に関わっていると言う推理の下で動いているが、あの怪奇を生み出したのが鬼頭なのかと言われると素直に頷く事が出来ない。
「鬼火を覚えているか。タタリ場に囚われた死者の霊魂だ」
 ニコに視線を送られて巨体が小さく揺れる。絶叫しながら部屋を飛び交う血まみれの男の生首が脳裏に甦り、冴島はぶるぶると震えあがった。
 十河が懐から手帳とペンを取り出して興味深そうにその名前を記す。
「覚えてはいるが、顔までは」
「数は」
 話が分からない渋谷は黙って二人のやり取りを見守っていた。
 冴島は腕を組んで背凭れに身を預け、顔を皺だらけにして唸っている。一瞬渋谷に視線を送るが、相手があの時に居た者とは別人だと悟って再度思案に戻った。
 ニコは冴島が答えを出すまで待ち続けた。
「五つ、いや違う、六つ……、そうだ、六つだった……ような」
 脳内で再現された映像から辛うじて読み取った数だ。然し当時は相当混乱していたので定かでは無い。弱々しい声を絞り出すと冴島は片方の瞼を上げて恐る恐るニコの顔を見た。
 ニコは頷いて右の手の平を翳し、その前に左の人差し指を立てた。
「そう、彷徨う鬼火は六つ」
 その内の五つは今回死亡した教官達の物だという。すると残り一つは誰か。
 男達の視線がニコの人差し指に集中する。
「それが鬼頭教官だと言うのか?」
 ニコはその指を机の資料に向けた。真実を明らかにするのが探偵の仕事だ。鎌鼬は如何にして生まれたか、事故死した鬼頭が今回の事件に如何に関与しているのか、全てを解き明かした時に探偵は初めて怪奇を祓う力を得るのだと言う。曰く『火種を消す力』だ。鬼頭の死の真実を紐解かずして今回の事件は解決出来ないと言い切る。
 鎌鼬や鬼火を見ていない渋谷にはその姿の想像が出来ない。然し、自分にも探偵としての力を得る資格があるならば、或いは今もこの現場を見ているかもしれないもう一人の自分に託す事が出来るなら、自分が今やるべきなのは少しでもこの少年探偵の力になる事だと思った。もし鬼頭の魂が穢れに囚われて鬼火と化してしまっているなら彼は何かを自分達に訴えている。自分がそれを聞いてやりたい。
 改めてニコが資料を手に取り、渋谷と冴島が身を乗り出して覗き込む。
 鬼頭恒雄、本年一月七日未明没、享年六十二歳。元帝國陸軍憲兵少佐。十三年前に退役した後、帝國軍学校陸軍科に武官教官として就任する。東北出身、生涯独身。被災者や戦争孤児支援団体に対し定期的に支援・寄金を行い、自身は質素な生活を好み軍学校の寮で暮らしていた。交友関係は幅広く著名な後輩と教え子を持つ。
 彼が関与した騒乱や事件の一覧表の隣に、手書きで人名が記されていた。
 ――白樺清貴。
 渋谷は口に出して奇妙な感覚を覚えた。初めて見る人間の名前なのに心に引っ掛かる物がある。二度、三度、彼の名を呟く。その度に心が騒めく。静かに高鳴って行く鼓動を抑えようと胸を掴むと不意に隣の冴島から肘で小突かれた。
 苛ついた様子の冴島を見て十河が笑った。
「軍学校の学生なのに知らないのか? 今やこの國を代表する若い将校さ。現役時代の鬼頭と師弟関係にあって、彼の退役後も度々連絡を取り合っていたらしい」
 らしい、と話が曖昧なのは、単純に新聞記者として白樺に関する情報が中々得られないからだ。経歴は有名だが交友関係は特に謎に包まれており、伝聞が主な情報源で、その中には憲兵の冴島の目撃情報も含まれている。どうやら冴島は白樺将校に大層思い入れがあるらしい。
 鬼頭の件は事故死として処理され、帝都新聞社も訃報として小さく掲載するに留まった。軍部の多くの関係者が葬式への参列を希望したが、退役して十年以上になる事や震災等で落ち着かない世情をふまえた家族の意向により、東北の故郷にてひっそりと家族葬を行ったようだ。
 別の件で取材をする事になった軍人に十河はそれとなく鬼頭について尋ねてみた事がある。生前彼の思想を異端視する者は少なくは無かったものの、純粋に鬼頭の死を悼む者が殆どだったと言う。名誉ある死こそ軍人の或るべき姿であるという思想が深く根付く中で鬼頭は戦場に於いて退避する事の重要さを特に説いていた事もあり、生前に立てられた武勲は数多く在るものの立身出世とは縁の無い人物だった。
 教官に就任していた事実を知らない者が多く、どうやら鬼頭は退役後の事情はあまり周囲に漏らす事が無かったらしい。その中で白樺との接点は貴重である。以前より白樺に取材を申し込みたいと思っていた十河はこの件を切っ掛けに彼と接触を図ろうとしたが、鬼頭死亡より少し前から海外へ遠征に出掛けていると知って諦めた。情報によると白樺の帰国は四月の下旬頃との事である。
「未だ彼の死を御存知で無い可能性もあるのか」
 気の毒そうに冴島が呟いた。
 教師としての鬼頭しか知らない渋谷にはまるで別人の話を聞いている気分だった。己の経験と十河の話から只一つはっきりと思うのは、軍人であろうと教官であろうと鬼頭は殺されるほどの恨みを買うような人間では無いと言う事だ。地位や女性にも然程の興味が無いらしく震災や紛争被害者への後援会に積極的に参加して居たような人物像を見ると、少なくとも彼自身が誰かに殺意を向けられるような悪行を働いたとは思えない。五名の教官が鬼頭を殺害したという話が本当なら其処に何の因縁があったのだろう。
 次の頁を捲ると、鬼頭の死の詳細が記されていた。
 鬼頭の検視は行われなかった。一月七日というのは彼の死体が発見された日である。その前日の夜、当直として巡回に出掛ける所を学生寮の寮長が見掛けているが、彼はいつまで経っても戻らなかったと言う。そして一月七日の朝方、鬼頭は数名の教官達により医務室倉庫にて事切れた所を発見された。
 発見者の教官達の名には見覚えがある。死亡した五名の教官だ。
 渋谷は初めて知る情報に驚いてニコを見た。ニコも渋谷と視線を合わせて小さく頷く。
「矢張り……彼らは繋がっていた」
 五名の教官は鬼頭教官の死と無関係では無かった。然し、この発見者という立場に過ぎない彼らが何故学生達の間で『殺人者』だと囁かれていたのだろう。火の無い所に煙は立たないと言うが未だ自分達の知り得ぬ糸が隠されて居るのだろうか。
 鬼頭が亡くなる少し前に例の負傷事件が起こり、地下一階にある全ての教室が立入禁止として施錠されていた。渋谷の証言によると、職員室付近にも簡易的な設備が揃う医務室があるので普段から東棟地下一階に用がある者は少なく、ごく最近に立入禁止が解除されたものの、負傷事件以後は人が寄り付かなかったと言う。デモの際も教官の影が多い職員室に近付くわけにも行かず渋谷は地下を利用したが、もし封鎖されたままだったら医務室に行くと言う選択肢すら諦めていたかも知れない。
「そんな状況で何故、鬼頭は医務室に行ったのだ」
 冴島が疑問を呈する。鬼頭を発見した五名の教官も然り、鬼頭は何故施錠されていたにも関わらずわざわざ地下の倉庫に行って銃の手入れをしていたのだろう。
 これには思い当たる節があったので渋谷が答えた。
「あの医務室倉庫の備品は月に何度か点検が行われているんです。特にあの時分は物騒な事が色々とあったので、手入れだけは行う必要があったのではないかと。教室の鍵は職員室にあるし、教官ならいつでも医務室に入室出来る状態でした」
「物騒」という言葉に興味を抱いた十河が渋谷に説明を促す。
「震災があった後、学校の備品が盗難に遭ったんです。俺達寮生も疑われて部屋を捜索されました」
 医務室倉庫には薬品の他に武器も保管されているので、立入禁止の最中もこれらの手入れは教官の手により行われていたのでは無いかと渋谷は言った。
 渋谷の回答に十河は卓に肘を突いて怪訝そうにしている。
 ニコが十河の様子に気付いて眉尻をあげて彼に発言を促すと、十河は発言の代わりにニコから書類の束を取って紙を捲り、その中の一枚を放り投げた。
 帝國軍学校陸軍科養護教諭、井川仁。
 渋谷は眉を顰めた。その名前には薄っすらと見覚えがある。少し前まで東棟地下の医務室に常駐していた養護教諭の名前だ。接触する機会も然程無く気が付いた時には別の人間が職員室の隣の医務室に居座るようになったので、井川はもう退職してしまったのだろうと思っていた。
 何故この名前が、と尋ねると、十河は更に去年自分が作成したと言う新聞の一面を提示した。帝都に於ける震災の死者と行方不明者の情報を搔き集めた名簿だ。十河の指し示す所に井川の名があった。
 一度、彼の家族から警察の方へ捜索願が出されている。家族への取材により井川は震災があって暫くした九月の下旬頃に行方知れずとなっている事が判明した。当時の井川は近隣の救助活動や負傷者の治療活動に参加しており、放課後から数時間はそれらの活動に時間を割いていた。失踪当日は出勤の記録が残されていたので井川はおそらくこの活動中に何らかの二次災害に遭遇したのだろうと警察は判断した。
 捜索願は今年に入って暫くした頃に取り下げられ、井川は死亡した者と認定された。現実は厳しい。家族達も震災の影響を受け生活が困窮する中でいつまでも捜索に力を割く余裕が無いと苦渋の決断を下し、死亡認定による幾許かの補償金を受け取った後、首都圏から離れた郊外の田舎に引っ越したのだと言う。
「井川失踪と同時期に一つ事件があった。何だか分かるか?」
 渋谷が負傷事件を挙げるも、十河は首を振った。
「先程お前さんが言っていた火事場泥棒さ。あの時、多額の学校運営費が一緒に消えていたんだ」
 職員室の金庫に保管されていた國からの助成金や個人の支援金が主に消えており、不審に思った事務員が詳細を調べてみたところ、薬品や武器といった備品の紛失も芋づる式に判明した。
「俺はその井川が泥棒じゃねぇかと思って学校側に何度か取材を申し込んだんだが、全て断られた。家族も引っ越してしまうし俺も暇じゃねぇしで結局有耶無耶になっちまったよ。そうこうしている間に今度は鬼頭殿が事故死。続いて五人が殺害された。俺はこういう話は苦手なんだが、もしかすると呪いは存在するんじゃねぇかと思ったよ。あの学校は呪われてるぜ」
 呪いと聞いて冴島が上目遣いでニコを窺い見た。
「まさかこの井川とやらも鎌鼬にやられたとは言うまいな」
 ニコは手帳を開き、震災から半年で発生した事件を時系列順に箇条書きにしてみた。
 去年九月初頭、帝都大震災発生。九月下旬頃、井川氏失踪・運営費と備品の盗難。十一月初頭、負傷事件発生。本年一月初頭、鬼頭死亡。三月初頭、学生運動勃発・五名の教官死亡。
 相変わらず蛇のようなミミズのような独特な字だが辛うじて読み取れた。
「負傷事件の時点で鎌鼬に人を殺める程の力は無かった。井川氏失踪はこれよりも前の出来事だ」
「何だ、では無関係なのだな。驚かすな修」
 冴島は胸を撫でおろし、十河は拍子抜けしたように肩を竦めていた。
「鎌鼬ってヤツは大男を犬コロにしちまうほど怖ろしい化け物なんだなァ」
「うるさい」冴島は気恥ずかしそうに卓を叩いて十河を睨みつける。「俺とて信じたくは無いがな、もう少しで連中のように心臓を抉られる所だったんだぞ」
「へェ、小便は漏らさなかったかい」
 身を乗り出して十河の頬を抓り上げる冴島を渋谷が慌てて抑える。言い争いを宥めながら渋谷は彼らの関係を少し羨ましく思った。冴島よりも若干年上の十河が自分よりも大柄な冴島を揶揄う姿はまるで彼の兄のようである。
 賑やかな喧嘩の傍で、ニコは目を細めて井川の情報を指でなぞり上げていた。
「医務室常駐の養護教諭……ここでも医務室……」
 冷静な少年の声に争っていた男達が我に返って居住まいを正した。
 あの震災では多くの犠牲者が出た。行方不明者の捜索は打ち切られてしまったが今でも何処かで死体が発見されている。余裕の有る者は独自に捜索を続けているようだが、一般的には自分達の目の前の生活に追われて諦めてしまった者が多い。誰が何処で朽ち果てていてもおかしくない時代だ。
 だが『医務室』という一つの共通点が探偵の意識を引き寄せる。
 手帳を開いて何やら字を綴るニコを眺めていた渋谷は、ふと脳裏に浮かんだ疑問を口にした。
「金が出て来た噂なら聞いたけど、実際には消えていたんだな」
 正面のニコが手を止めて顔を上げる。
「震災後に学校の何処かで埋蔵金や人骨が発掘された、なんて噂話があったんだ」
「それは何処で聞いた」
 まさか追究されるとは思わず、渋谷は目を泳がせて答えを探した。
「俺は寮の先輩から聞いた。けど小林と松山も知っていたし、学生なら大体知っている世間話だよ。実際には金も人骨も何も無かったから本当に只の噂だけど」
「小林ってェと、小林政太か」
 と、十河が小林の名前を言う。
 驚いて頷く渋谷に十河は新聞の切り抜きの山から『遺族の悲痛な叫び』を取り出して見せた。彼が指さす文字を見て渋谷は更に瞠目する。
 ――これらの活動には貴族会に所属する小林議員も参加。
 小林の父親の名前がある。両親が偉い立場の人間だとは聞いていたが貴族会出身の國会議員だとは初耳だ。小林の父親が遺族達を支えて署名や抗議活動に精を出している事にも驚くが、友人の小林が自分の立場を黙っていた事に動揺を覚えている。帝國政府は怪奇探偵連盟に対して『悪質な宗教団体』と表立って批判している。議員の息子としてどんな思いをしながら自分と付き合って居たのだろう。
「そう言えば、お前を学生運動に引き込んだのもその悪友だったな」
 ニコに聞かれ、渋谷は目を伏せて頷いた。
 喫茶店で小林と松山の三人で肩を寄せ合っていた時に初めて鬼頭の死に纏わる噂の詳細を聞かされた。五名は以前から黒い噂があり、鬼頭は彼らの秘密を把握していたが為に口封じに殺された。鬼頭の死後、遺族が彼の遺品を引き取るより前に悪事の証拠は犯人達の手により隠滅されてしまった――。
「もしその噂が本当なら、鬼頭殿はその教官達から医務室に呼び出しを食らったんじゃねぇのかい。そもそも弾が入った状態で銃の手入れをしていたって言うのもおかしな話だ。発砲された形跡は残っているから銃が使われたのは確かだが、それを使ったのが死者本人とは限らないぜ」
 十河に指摘され、成程と渋谷は頷いた。五名の教官が夜半の医務室に鬼頭を呼び出し、銃の暴発に見せかけて彼の心臓に発砲して殺害した。
 然しニコは首を振った。
「犯行時刻が夜だろうと朝だろうと、発砲したなら誰かが音を聞いていてもおかしくは無い。もし計画的な犯行であるなら僕ならもっと静かな武器を選ぶがね。それ以前に、誰が何処に居るか分からない学校を殺人の場所に選ぶのも些か博打では無いかな?」
 鬼頭は銃の暴発により死亡し、教官達は偶然彼の死体を発見してしまった。これが世間の見解だ。事故死として大した調査もされず処理されて全てが曖昧になってしまった事が悔やまれる。
 渋谷には鬼頭が深夜の医務室倉庫で銃の手入れをしていたとはどうしても考えられない。確かに備品の手入れは教官達が義務として行っていたようだが、わざわざ夜半の見回り中に、それも銃弾を込めたまま手入れをしていたという点が鬼頭らしくない。自殺を装った他殺だと言われた方が納得出来る。一方でニコの推理にも反論が出来ない。もし五名が本当に殺害を企てていたなら学校と言う人目がある場所を選ぶのは危険だ。この帝國には人目の無い場所など幾らでもある。二ヶ月も前の出来事なので渋谷の記憶も曖昧だが、不自然な銃声を聞いたという話は無い。夜半であれば校門の守衛か寮長、或いは遅くまで起きていた寮生の誰かが聞いている筈だ。一月六日夜半から七日早朝にかけて軍学校付近で発砲事件が起きたという記録も残っていない。
「他にも大きな音があれば発砲音はごまかせるんじゃないか? 一限目に銃の演習授業があったとか」
 当時の時間割を確認してみなければ確信は持てないが、銃声があがっても不思議では無い時間は少なからず存在する。
 情報の山に視線を這わせていたニコが、フム、と渋谷の言葉に意識を留めた。
「木を隠すなら森か。そうであれば発砲は一月七日の朝になるな」
 そう仮定するなら鬼頭は夜半の見回りに出掛けた後、何らかの理由で翌朝死亡するその時まで身動きを封じられた状態だったと考えられる。監禁されたか、気を失って居たのか。
 釈然としない。殺害場所に医務室を選んだ理由も凶器に銃を選択した理由も見えてこない。
 冴島が髪を乱雑に掻いた。
「分からん。発砲音を誤魔化すだの何だのと……考え過ぎでは無いのか? どうせ発砲音に誰も気付かなかっただけだろう。そもそも鬼頭殺害説の出所も所詮は学生の噂話だ。事故死した鬼頭を教官達が偶然発見したという筋書きの方が余程信憑性が高いと俺は思うのだが」
「せめて誰かの証言か、何か証拠があればなァ」
 五名の教官との間に何らかの因縁があるとは言え、鬼頭が事故死か他殺かは未だ結論が出せない。捜査に割く時間が足りない以上はある程度の目星を付ける必要があるが、手掛かりが少ない現状ではどうしても空論が多くなってしまう。然し、小林も言っていたが鬼頭が亡くなって数か月が経過した今、明確な証拠が残されている可能性はとても低い。
 ニコは上着の胸ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認する。未だ昼前だ。座席の脇に置いて居た外套を掴んで立ち上がる。
「行くぞ。次は学校だ」
 証言も重要な証拠だ。今回の事件に関する証言も得られるかもしれない。
「待ちな」と十河がニコを呼び止める。「鬼頭殿が今回の事件に関係しているって前提から見直すべきなんじゃねぇのか。その、鬼火とやらの数はそんなに重要なのかい」
「勿論。怪奇の数だけ人の穢れがあるのだから」
「偶然が重なっただけで全てがまるで無関係だって可能性もあるだろう」
「度重なる偶然を必然と呼ぶ。手繰り寄せるべき縁を見誤らなければ、いずれ全てが一本の糸として繋がるだろう」
 ニコは十河に微笑を投げる。
「貴殿にもどうかご協力願いたい。鬼頭と井川氏に関する情報が欲しい」
「井川?」渋谷と冴島と十河が同時に首を傾げる。
「井川とやらはこの事件と関係が無いと言ったではないか」
 黒帽に髪を押し込んで出発の準備を始めるニコに倣い、冴島は水を飲み干して軍服の襟元を正した。十河もまた卓上に散らばる情報を鞄の中に仕舞い始めた。
 慌てて立ち上がる渋谷にニコは正面から手帳を押し付けた。
 開かれたページには事件が時系列順に書かれている。
 出発の準備を済ませたニコが渋谷の言葉を待っている。渋谷は汚い字を凝視して彼の言わんとする事を探った。そしてある事に気が付いた。
「負傷事件は鎌鼬が起こしたんだから、あの時点で鎌鼬は既に存在していたんだ。鎌鼬が生まれるに至った何かがこれより前に医務室で起きたんだ」
 負傷事件より後に死亡した鬼頭は鎌鼬では無い。そして負傷事件の前には『九月下旬頃、井川氏失踪・運営費と備品の盗難』の字がある。
 まさか、と渋谷はニコを見る。
「根本となる鎌鼬と、鬼火が六つと、タタリ場と化した医務室。全てが医務室に集中しているのは其処に縁があるからだ。鎌鼬は医務室に因縁を持つ何者かの穢れから生まれたのだ」
 勿論別人の可能性もあるが、ニコには井川が医務室の関係者である事が引っかかっている。
「井川氏は既に絶命している。そして彼の死にも五名の教官が関与している」
 もう一人の渋谷が負傷事件にて鎌鼬と交戦した際、件の教官の一人は渋谷にも見えない幻覚を目撃し、更に怪奇の存在を知って異様に恐れていた。鎌鼬の正体に心当たりがあるようだった。
 続きを口にしようとしてニコはそれを喉に留めた。
 ニコの出口を塞ぐ形で座っていた十河は鞄を抱えて立ち上がると、髪を掻き上げて笑顔を見せた。
「後で電話する」
 怪奇に対して懐疑的と聞いていたがそれよりも彼の好奇心と記者魂が勝ったようだ。
 無邪気な笑顔で暖簾の向こうへ消えて行く十河を見送り、渋谷は冴島に向けて両手首を差し出した。冴島が渋谷の顔と手首を見比べる。そしてその手に渋谷の肩掛けを押し付けると「遅れるなよ」とぶっきらぼうに言って狭苦しい個室を後にした。
 渋谷は渡された肩掛けをぼんやり眺めていたが、ぎこちない手つきでそれを首に巻いた。
 時刻はもうじき正午を迎えようとしている。

– – – – –

 軍学校は昼の休憩時間を迎えていた。すっかり日常に戻った大勢の学生や教官が世間話をしながら歩いている。中には身体の何処かに包帯を巻いている者もちらほら居た。殺人事件の発生と渋谷の逮捕により、学生運動自体は有耶無耶な形で決着がついたようだ。
 無罪を勝ち取った日にはまたあの日常に戻る事が出来るのだろうか。
 ふざけ合いながら食堂に向かう同級生の横顔を遠目に眺めていた渋谷は、己の内に湧き上がる寂しさに押し潰されそうになって顔を逸らした。口元を覆うように肩掛けを巻き直して校門の脇に身を潜める。
 冴島が守衛と話を付けている。冴島の指示通り東棟の地下は封鎖され、階段の踊り場に二人の警官が警備に就いているのだと言う。校門の守衛の話によると立ち入った人間は今のところ誰もいないらしい。
 ふとニコの方を見ると、彼は徐に懐からインクを取り出して蓋を開けていた。透明な瓶に溜まる黒い液体を指先で掬い取る。その行動が何を意味しているのかは分からないが、彼が今から探偵の技を使うのだろうと察する事は出来た。
「幼いのに凄いんだな」
 怪奇探偵連盟の秘蔵っ子とやらが手を停めて渋谷を見る。
「俺も、せめて人格を自由に切り替えられたら良いんだが」
 伏し目がちにそう言うと、俯いた先に小さな手の平が差し出された。
 ニコは渋谷の左手を取って強引に引っ張ると、その手の平を指でなぞった。ぞくりと背筋が震える。指に付着していた黒いインクが手の平を二つに分断するような直線を描いていた。彼がふっと息を吹くとインクは一瞬で乾燥して肉に定着した。
 そして彼は懐の手帳から一枚の小さな紙を取り出した。円に台形が繋がっている形の紙だ。円は頭部、台形は胴体を模しているように見える。子供がよく遊ぶ紙人形に似ている。
「式神だ。まじないを仕掛けてある」
 式神の頭部にインクを一滴零してその上から息を吹くと、黒い粒が小さな文字となって紙面に散った。水面を泳ぐ小魚のように浮遊していた文字はやがて胴体に集合して文章を作った。漢文だろうか。文章の意味は分からないがニコの言う『まじない』である事が分かった。頭部の円には渋谷の手の平に記された線と同じものが描かれている。
「医務室には昨日結界を張っておいた。鎌鼬が再度現れても、あれがある限り医務室の外には出られない。だが誰かが医務室に侵入する可能性もある」
「警備があるから大丈夫だろう。それにこんな状況で医務室に行く人間なんて居やしないさ」
「どうだろうな」
 ニコがその頭部を指で突くと、式神は命を得たようにむくりと立ち上がった。
「本当に……不思議だな……。魔法みたいだ……」
 渋谷の意識は式神の挙動に釘付けになっている。
 直立する式神の胴体を指で挟み、ニコは校舎に向けて風を切るように腕を振る。ひゅうっと音がした。瞬きをした次の瞬間にはもう式神はニコの指から消え失せていた。
「初めて銃を見た時、僕も同じ事を思った」
 ニコは手拭いで指を拭き、インクの瓶を懐に収めて立ち上がった。
「お前は銃を扱えるのか?」
 渋谷も立ち上がってその質問に頷く。実技の成績は、教官の色眼鏡を除けばそれなりに良かった筈だ。
「僕は使えない。仕組みは分かるが的に当たらない」
「数をこなせば上達するさ」
「それと同じ事だ」ニコは渋谷を見上げて口角を上げた。「お前だってカラクリを知ったら、式神など時代遅れだと言うようになるかも知れないぞ」
 渋谷は立ち止まってその言葉の意味を考えた。
 もう一人の自分の存在を知ってから、今の自分にもっと力があればと常に考えていた。もし人格を切り替えられるなら早々に彼に全てを任せてしまった方が良いのだとは思うが、出来るなら自分も彼と同じように何かの役に立ちたい。授業で銃の扱いを知ったように今は探偵の何たるかを知りたい。式神とは何なのだろう。ニコはあれにどんな『まじない』を掛けたのだろう。この手に記された直線の紋様の役割は。人の心は如何にして穢れとなるのか。自分もカラクリを知ったらニコや『彼』のように――。
 壁の向こうから学生の声が聞こえて渋谷の思考は停止した。
 もし日常に戻ったら今自分の内に生じた疑問は二度と解明されないような気がした。怪奇探偵に対する評価は今回の件で身を以て知った。軍学校にいる限りは怪奇も探偵も忘れなければならない。
 己の求める日常とは一体何なのだろう。
 歩き出そうとして、チリンと鈴の音が聞こえて再び立ち止まる。その音に呼ばれたような気がした。ズボンのポケットを探って御守りを取り出すと、小袋がするりと地面に落ちた。
 手塚が手土産にくれた金平糖だ。二粒ほど残っているが食べる気になれず、御守りと一緒にポケットに戻そうとすると、ニコの視線に気付いた。前を歩いていた筈の少年の眼がじっと小袋を見詰めている。それがどうにも硝子窓越しの菓子に釘付けになっている年相応の子供に見えてしまい、渋谷はくすりと微笑んで彼の手を引いた。少し驚くニコの小さな手に小袋の中身が二つ転がり落ちる。
 ニコは渋谷と金平糖を見比べていたが、渋谷に促されて一つを食んだ。
「手塚か。あの男らしい小洒落た手土産だな」
「へぇ、よく分かったな。君は彼と友達なのかい?」
 ニコは顔を顰めつつ金平糖を口の中で転がしている。
「手の平で転がすような真似をして来る人間を友人と呼ぶなら、奴は大親友だな。そもそもは奴がお前の裁判の傍聴に来いと電報を寄越して来たのが始まりだ」
 えっと目を見開く渋谷の前でポリポリと気分の良い音がする。
「心臓を抉るような猟奇殺人と聞いて、一つ心当たりがあった」
「心当たり?」
「結果としてそれは外れだった。然し手塚も法廷の異変を察して妙に思った筈だ。その辺の思惑の全ては分かりかねるが、要するに奴は審議を延期する為に僕を利用したのだよ。僕は爆弾だったわけだ」
 手の平で転がしていた二つ目の金平糖を呑み込んで一気に噛み砕く。
「彼は君が乱入して来ると見越して居たって言うのか?」
「勘違いするな。僕が敢えて奴の猿芝居に乗ってやったのだ。そう、敢えて仕方無く。あの澄まし顔に騙されるなよ、石頭で頑固で乱暴者の莫迦だから」
 大人を相手に言い過ぎだと叱ろうとして、ニコが踵を返すので渋々話を切り上げた。この不思議な少年が判事とどのような間柄なのかは結局よく分からないままとなったが、互いに信頼し合っているからこそ利用出来るのだろうし、金平糖を見て送り主が判る程には理解が深いのだろうと思うと少し羨ましい気分になった。
 前方を歩いていたニコが立ち止まるので渋谷も続けて止まった。
 首に手拭いを掛けた中年の男が箒で木の葉を集めている。この学校の用務員だ。よく見掛ける顔なので渋谷は慌てて帽子の鍔を深く下げて俯いた。
「――もし。失敬」
 ニコが声を掛けると用務員は顔を上げて手拭いで額を拭った。そしてニコに目を留めるなり気の良い笑顔を浮かべて、小柄な頭を帽子越しに撫でた。
 ニコは自分が憲兵の連れだと言い、
「焼却炉で起こったボヤについて何か御存知だろうか」
 用務員は顔を曇らせた。覚えがあるようだ。
「どっちの」
「どっちの」ニコが聞き返す。「僕は今年の初めの事を言っているんだが、他にも?」
「ああ。どこぞの誰かが勝手に炉を使いやがったのさ」
 学校の敷地内にある焼却炉は食堂裏と東棟校舎の裏手に隣接されている物の二つのみだと言う。学校中の塵をその日のうちに麻袋に入れて炉の隣の塵置き場に纏めておき、基本的には月に二度、行事等の関係で塵が多く排出されるとその都度稼働させている。
 去年の秋頃は震災の影響で毎日のように炉を動かしていた。主に平日の学生の姿が少ない早朝か夕方に使用していたのだが、ある秋の休日の夜半――確か九月の終わり頃の出来事だ、自分の知らない所で勝手に炉が動かされていたのだと言う。陽が沈んだ後で自分を含め大体の人間は帰宅していた。ボヤに気付いて消火を行ったのは偶然居残りをしていた教官で、煙に気付いて様子を見にやって来た寮長には火遊びの好きな学生が悪戯でもしたのだろうと説明して早々に帰ってしまった。翌朝寮長から又聞きして炉の周辺を確認した所、確かにボヤの痕跡と炉が何度か動かされた跡がある。礼を兼ねて消火した教官と話をしてみたが犯人については心当たりが無いと言っていた。
「その消火した教官と言うのは?」
 九月の終わり頃と言えば井川が失踪した時期と重なる。是非ともその教官に話を聞いてみたいと思ったが、用務員は首を振った。
「今回の事件で死んじまったよ」
 死んだ教官と言えば、と用務員は更に続けた。一月初旬に発生したボヤに関する話だ。
 その日の夕方、予想以上の塵が出たので炉を稼働させようと校舎裏に向かうと、慌てて炉の前から逃げ出す三人の男達が目に入った。ちらりと此方を振り向いた顔には見覚えがあった。何事かと男達の背中を見送っていると、その手前で開いたままの投入口から火の粉がチラチラと舞い上がっているのが見えた。炉の周辺に散乱した塵に火が燃え移っている。慌てて炉を停止して傍の蛇口を回して火消をして、炭と塵を一緒に纏めて炉の中へ放り込んで事無きを得た。放り込む途中で気が付いたが散乱していた塵は自分が既に炉の中に入れていた物だった。逃げたうちの一人は九月のボヤを消火してくれた教官だったので猶更驚いたと言う。そしてその一人を含めた三人は皆、揃って死んでしまった。
「焼却炉に何が捨てられていたのか覚えていますか」
 思わず渋谷が割って入る。用務員は不審な出で立ちに驚いて一歩退いた。そして何処かで見た覚えがあると言いたげに渋谷の目元を覗き込んで来るので、渋谷は咄嗟に顔を逸らしてニコの後ろに控えた。
 ニコは喉を鳴らして再び用務員の注意を引いた。
「この件を誰かに話した覚えは」
「本人達に言ったよ、用があるなら俺に声を掛けてくれって。でも人違いだってさ」
 はっきりと顔を目撃したので間違いは無いと用務員が断言する。然し教官達は揃って頑なに否定するのである程度の所で追及を諦めてしまった。
 それ以外は特に他言した覚えは無いと言うので、恐らく学生達はこの瞬間を目撃して『ボヤの犯人は教官達だ』と思ったのだろう。
 焼却炉の中身については消火に集中して焦燥していた事もあり判然としないが、紙の類が多かったと言う。
「あれは手紙だよ。切り刻まれていたが、封筒が混じっていたんだ」
 ニコと渋谷は顔を見合わせた。
 わざわざ三人が揃って用務員の目を盗んで焼却炉を使ったのだとしたら、矢張りその手紙の類は何らかの重要な証拠なのだろう。更に焼却炉での行いを素直に謝るのではなく否定の姿勢を貫くとなれば益々怪しい。鬼頭殺害は断定出来ないが少なくとも鬼頭の死に関係している事には間違いない。
 用務員の証言を手帳に記しているニコの後ろで、渋谷が腕を組んで物思いに耽っている。その姿に心当たりが在るのか用務員が目を細めて渋谷ににじり寄った。
 丁度そこへ、守衛と話をつけた冴島が此方を手招きして来たので、ニコと渋谷は用務員に深々と頭を下げると足早にその場を離れた。

 扉を開けると濃厚な藺草の匂いが溢れ出て来た。
 学生寮へ行きたいと言い出したのはニコである。学生や教師の目がある昼休みが終わる迄はこの人目の無い場所で時間を潰す。ただ潰すのではなく関係者の証言の収集が目的である。用件を聞いた寮長は今は使われていない三階最奥にある鬼頭の部屋に一行を案内し、冴島と共に目的の人物を探しに行ってしまった。ニコが指名したのは渋谷制圧の際に居合わせた、警官、教官二名、学生二名である。警察署に問い合わせたところ件の警官は不在との事なので、一先ずは教官二名と学生二名を呼ぶように頼んだ。
 渋谷は靴を脱いで畳を踏みしめた。
 八畳一間の部屋は閑散としている。故人の所持品は勿論、棚の中にも食器一つ残されていない。壁に立て掛けられている座卓が部屋の中央に鎮座していた頃を思い出す。初めて柿を見せられた時はどう食べたら良いか分からず、豪快に丸ごと齧り付く鬼頭を真似たものだ。
 閉ざされた窓掛けを左右に開いて陽光を取り込む。帽子を脱いだニコが窓辺にやって来て窓の外を眺めるので、ニコの脇から渋谷も同じように外の景色を見渡した。
 広い校庭と東棟の校舎の角が見えた。
「ここからだと丸見えだな」
 ニコが東棟校舎の壁に隣接する大きな炉を指さす。校庭からは建物の死角にあって見えないが、鬼頭の部屋からは焼却炉がよく見える。先程の用務員が落ち葉を集めた麻袋を炉の傍らに置いていた。
 渋谷は窓を背に部屋を見渡した。春を迎えようとしている陽射しが身体をじんわりと温めてくれる。渋谷は肩掛けを緩めて口元を出し、部屋の匂いを胸一杯に吸い込んだ。まだ微かに故人の香りがするようにすら思えて胸が締め付けられる。
 ニコが此方を見詰めて来るので、渋谷は歪みそうになる顔で必死に笑った。
 寮長が偏屈者で、就寝や起床の時間が遅いだの掃除が下手糞だのと少しでもへそを曲げると、その怒りを買った寮生の食事が一食分消える。子供じみた嫌がらせによく鬼頭教官が注意をしてくれていた。頑固者の寮長が態度を改める事は無く、鬼頭はこっそり自室に腹を空かせた学生を招いては柿を振舞っていたそうだ。渋谷もその世話になった覚えがある。
 襖を開くと、上下二段の収納の下段に小さな箪笥があった。箪笥の足は釘で確りと固定されている。一番下の引き出しを開いてみるが思っていた通り何も無い。
「箪笥の一番下。ここにいつも柿があったんだ」
 一つ消えるごとに一つ補充される。魔法だと思った。
 微笑んで渋谷の思い出話を聞いていたニコだったが、ふと、その口元から感情が消えた。
 引き出しを仕舞おうとする渋谷の手を掴み、空洞の箪笥の中身を食い入るように見詰める。渋谷はその真剣な眼差しと微かに埃が浮かぶ板を見比べて首を傾げた。
「お前にも見える筈だ。集中しろ」
 言われた通りに渋谷は目を凝らした。そして彼の意図に気付いて瞠目した。陽光が作り出す陰影だと勘違いしていた。穢れだ。微かな穢れが箪笥から滲み出ている。
 穢れに気付いて驚く渋谷にニコは頷くと、箪笥の奥行の寸法を確認した。
「外観と比べて引き出しの奥行が若干浅い。恐らく空洞がある」
 穢れは其処から発生している。
 ニコから視線を向けられた渋谷は唾を飲んだ。引き出しに手を掛けて全てを引っ張り出してみようとすると、何かが突っ掛かっているのか際の所でびくとも動かなくなってしまった。
 渋谷は肩掛けを拳に巻くと、引き出しの奥を殴りつけた。二度、三度叩きつけた所で板が外れた。板をニコに任せ、手を伸ばして奥を探る。微かに指先に触れる物があるので引っ張り出すとそれは紙屑だった。封筒が丸まっている。
 封筒の口を開いて傾けると、錆び付いた鉄の鍵が転がり落ちた。微かな穢れを纏うそれを手に取ろうとしてニコに阻まれる。ニコは上着の胸ポケットから白い綿手袋を取り出して右手に装着し、鍵を拾い上げた。先端部分には錆びとは異なる黒々とした何かが付着していた。
 血だ。乾燥して黒くなった血だ。
 これは一体、とニコに訊ねようとして、床が軋む音が聞こえて弾かれたように顔を上げた。
 部屋の扉を開けたまま立ち竦んでいるのは渋谷と同じ寮生だ。学生は奇異な髪色をした少年を凝視していたが、その隣に見覚えのある同級生を見付けて目を丸くした。
「渋谷! お前どうしてここに」
 殺人犯がいる。誰かに報せようとしたのか急いでその場から離れようとする寮生を渋谷が呼び止める。一瞬怯んだ彼に今度はニコが語り掛けた。
「僕は憲兵の小間使いで、現在被告人を伴って実況見分をしている。憲兵本人もじきに戻って来る。君にも少し話を聞きたいのだが」
 確りとした口調で言われ寮生は益々困惑した。小柄な少年に突然そのように言われて混乱してしまうのも無理は無い。怯えた瞳がニコの全身を眺めまわす。誰もが一目見れば心臓が止まりそうになるような美貌の少年に彼もまた息を呑んだ。
 寮生は廊下と二人を見比べた。
 殺人犯が学校内にいると知れ渡ったら十中八九騒動になって捜査に支障が出る。見世物になるのは困る。
「頼む。ほんの少しで良い、話を聞かせてくれ」
 渋谷は同級生に向けて膝を突き、額を畳に押し付けた。
 廊下の角の向こうから学生の笑い声が聞こえて来る。寮生は暫くの間葛藤していたが、やがて意を決したように部屋の中に入って扉を閉めた。彼は渋谷と同学年の寮生で学生運動にも参加していた。特に親しい間柄では無いがたまに挨拶する程度には顔を合わせている。一緒にこの部屋で柿を食べた事もある。
 渋谷は安堵の溜息を吐いて身を起こした。
「あれ以来お前の話で持ち切りだ。怪奇探偵が発狂して教官を虐殺したって」
 寮生は少し渋谷と距離を取り、畳の上に腰を落とした。その瞳には未だ懐疑と恐怖が揺らいでいる。
 ニコは手にしていた鍵を手袋と一緒に胸ポケットに入れ、渋谷は板と箪笥を元に戻して襖を閉じた。そして二人は隣り合うように正座して寮生を見据えた。
「一体誰がそんな話を」
「小林と松山だよ。あいつら現場に居合わせているから」
 殺人の現場を見てしまったのだから相当の衝撃だったのだろう。然し友のその行動に渋谷は落胆を覚えた。小林と松山は特にお喋りなのだから仕方が無いとは言え裏切られた気分だ。
 その寮生が学生運動にも参加していたと聞いたニコは、
「何故君達は鬼頭教官の殺害説を信じたのだ。その噂の発信者は誰だ?」
 そう訊ねた。途端に寮生の目が不自然に泳いだ。
 口ごもってしまった寮生から視線を外し、ニコは渋谷を見た。
「十河の資料を見た限りだと五名の教官は世間的にはごく普通の評価だった。然しお前の友人――小林は前々から黒い噂があった連中だと言った。ボヤの件も、譬え用務員とのやり取りを目撃したとしてもそれから証拠隠滅云々に繋げるには矢張りそれなりの根拠があった筈だ」
 火の無い所に煙は立たない。然し煙を目撃した人間が居なければ噂とはならない。
「鬼頭教官は『前々から黒い噂のある』教官達に殺害された、ならばその『黒い噂』は鬼頭の生前より存在した事になる。世間が知り得ない『黒い噂』をその何者かは知っていた。そしてその人物が学生達に今回のデモの発端となる『鬼頭殺害説』を広めたのだ。噂の発信者は限りなく事件に近い場所に居る」
 渋谷はその『黒い噂』の仔細を知らない。
「その黒い噂って、井川教官の事か?」
「或いは盗難事件か」
 井川の名を出した途端に寮生の顔色が変わった。
 彼は頻りに背後の扉を気にしていた。内密の話をしようとしていると察したニコが座したまま後退し、渋谷も同じように窓際に身を寄せると、寮生は覚悟を決めたように二人の方へ向き直った。
 『黒い噂』はニコの言う通り鬼頭死亡より前から学生達の間で囁かれていた。
 備品と学校運営費の消失は震災以後に発覚したものの、実はそれ以前より度々発生していた。サーベル刀や銃といった武器から、新品の清掃用具や医療器具、食堂の食材などが被害に遭った。おそらくこの時から学校運営費などの金銭も紛失していたのだろう。学校内部に犯人が居るのでは無いかと囁かれ、渋谷もこの寮生も自室を捜索されたが何も見つからなかった。
 震災発生後、養護教諭の井川が失踪し、同時に規模の大きい盗難事件が発覚した。
 学生達は失踪と盗難が重なった事から井川が盗難事件の犯人だと思っていたが、彼は学校運営費が管理されている職員室の金庫の暗証番号を知らない。何処かで番号を入手したとすれば手引きをした人間が居ると思われた。
「それが、五名の教官だと」
 ああ、と寮生が頷く。噂を聞いた一部の学生は五名の教官と井川が窃盗団だと思っていた。
「鬼頭教官はその頃から誰かと頻繁に連絡を取り合っていて、夜半に学校を抜け出す事もあった。警察や軍の方面に顔が広いって聞いていたから、連日の事件を誰かに相談して居たんじゃ無いかと思っていたよ。調査が入って連中が逮捕される日も近いんだろうなって」
 鬼頭の面会人については一人心当たりが在るが、渋谷は黙って彼の話を聞いた。
「然し鬼頭教官はお亡くなりに……。その後の小火を起こしたのは噂の教官達で、目撃者が居るのに否認している。その話を聞いて、矢張り鬼頭教官は噂通りに口を封じられてしまったんだなと思ったよ」
 寮生はふと眉根を寄せて渋谷を見た。
「これが今回の件と何の関係が? 殺人犯はお前なんだろう?」
 渋谷は口を噤んだ。どう答えたら良いか分からない。犯人は俺では無いと主張した処で説得力は無い。
「君は何故この渋谷が殺人犯だと?」
 ニコの問いに、何を今更と驚いたように寮生は肩を竦めた。
「こいつは怪奇探偵だから」
「怪奇探偵だから?」
「化け物を操って人を殺す。違うのか?」
「君は医務室付近で起きた負傷事件を知っているか」
 勿論だと寮生は頷き、袖を捲って左の二の腕を晒した。瘡蓋はほぼ消えているが鋭利な傷が刻まれていたらしい赤い痕跡がある。彼が数名の被害者のうちの一人だと渋谷は初めて知った。
「それを解決したのは他ならぬ怪奇探偵だ。それが何故、化け物を操って人を殺すという話になるのか。世間がそう言うからか、或いは誰かが流した噂を妄信しているのか?」
 ニコの言葉に耳を傾けながら寮生は渋谷を見詰めていた。
 渋谷が医務室に出現した怪奇を祓ったとは聞いていた。それ以来怪奇探偵と呼ばれるようになり多方面から差別され孤立していた事も知っている。自分もまた渋谷に対して苦手意識を抱き、以前から然程の親交は無かったが成る丈関りを持たないように忌避していた。然し、事件を解決したと言うのなら被害者として感謝するべき相手では無いのか。
 寮生は憑き物が取れたような、それでいて尚複雑そうに顔を歪めた。
「然し小林はお前が殺人犯だと。審議が延期になったと聞いて学校内で署名を集めていたぞ」
 渋谷の死刑を希望する署名活動で、彼も署名したのだと言う。鈍器で頭を殴られたような気分になり渋谷は俯いた。心の何処かで願望があった。虫の良い考えだが、小林と松山だけは最後まで渋谷史人の無罪を信じて、特に小林は父親の意志に逆らってでも味方で居てくれていると思っていた。
 叱られた子供のように項垂れる渋谷を見た寮生は後ろめたい気分になったのか、
「悪いと思っている。けれど皆も署名したし……仕方が無かったんだよ」
 膝上の拳に目を落とす渋谷に彼も同じように項垂れて懺悔した。善悪の判断を周りの空気に委ねていた自分に一抹の恥を覚えていた。
 渋谷は俯いたまま首を振った。この状況で無罪を信じてくれなど自分には言えない。
「ときに、君は鬼頭教官を随分と慕って居たのだな」
 突然少年に言われ、寮生は驚いたように目を瞠った。
 ニコは首を傾げて寮生の顔色を窺っている。
「彼の死の謎を究明する為のデモだったか。それに参加した以上は無傷で居られるほど甘くは無い。負わねばならない傷よりも大事な信念があったのだろう」
「そりゃあその……誰もが慕っていたさ」と言う寮生の目は明らかに泳いでいた。
 周りに流される儘に参加していた渋谷はニコの言葉に首肯出来ない。あのデモに、純粋に鬼頭を慕っていた人間や確固たる信念を抱いていた学生がどれほど居たのだろう。特に松山のように南棟で暴れていた人間は日頃の鬱憤晴らしが主な目的だった。
 この寮生や小林はどうだろう?
 ニコは前のめりになって寮生に顔を近付けた。
「デモの目的は他に在るのでは無いのかね」
 寮生の呼吸が止まり、一滴の汗が首筋を伝って流れ落ちた。
 窓から差し込む陽光の逆光で肌が仄暗く見える中、青い眼が寮生の眼の澱みを暴く。寮生は暫く青の魔力に囚われて居たが、やがてその追究から逃れるように瞼を閉じた。発言を躊躇っている。一歩を踏み出す勇気が無いようだ。
 鬼頭の死の謎を究明する為。雰囲気に流されて。日頃の鬱憤を解消する為。参加した人間の数だけ意志はあるのだろう。然しそれでは団結力は生まれない。あのデモには確かに一つの目的があった。目的を達成する為に志を同じくする者達が集まったのだ。
「教官達は何故医務室に移動していたのか。それは学生達の真意に怖れたからだ。学生達はあのデモの日、教官達が発覚を怖れる真実に近付いていたのだ」
「だからそれは鬼頭教官殺害の真相で」
 余裕を無くした寮生の声をニコが間髪入れずに遮る。
「その真相を追究されたところで所詮は学生の妄想とあしらえば良いのに、教官達は医務室に行くと言う行動を起こした。医務室に行かざるを得ない理由が其処にあったのだ」
 彼らはボヤについて用務員に詰め寄られても関与を否定し切った。学生に対しても同じように出来なかったのは言い逃れが出来ない何かを、或いは恐怖が打ち勝つだけの何かを突き付けられたからだ。
 寮生は己の思考を操れずに只管視線を忙しなく動かしていた。
 彼は何かを知っている。ここで逃げられてはもう二度と学生の証言を得られる機会が無い――そう思った渋谷は膝に乗せていた拳を広げて畳に添えた。
 腰を折り曲げ、額を固い床に擦り付ける。
「本当の事を教えてくれ。鬼頭教官をあの場から解放したいんだ」
 鬼頭は未だ鎌鼬が潜むタタリ場に囚われたままだ。
 寮生は瞠目して渋谷の後頭部を見下ろしていた。鬼頭教官。あの場から解放する。彼が何を言っているのか理解が及ばない。だが、いつも小林や松山の陰でへらへら笑っていた彼の瞳には今、滾るような強烈な意志が宿っている。
「お前、本当に彼らを殺したのか」
 寮生の質問に渋谷は顔を上げてはっきりと横に首を振った。額が擦り切れて赤くなっている。
 暫くの沈黙が流れた。寮生は言葉を声に出そうとしては口を噤み、そんな事を何度も繰り返す自分に嫌気が差したのかやがて意を決して口を開いた。
「震災があった頃――」
 学校の何処かで埋蔵金が発掘されたという噂が流れた。詳しく聞いてみると埋蔵金の正体は例の教官達が横領したという金で、井川教官はその一部を奪って逃げたと言う話だった。数十人で山分けしてもかなりの額になると聞いた学生達は血眼になって彼方此方を探したが、結局金は見付からなかった。そして今年の初めに発生したある事故を切っ掛けに一旦宝探しは中止となった。
「鬼頭の死か」
 寮生は頷いて傷に目を落とす。
「そうだ。鬼頭教官が口封じに殺され、埋蔵金は本当に学校の何処かに在るんだって認識が強まった」
 どういう経緯で埋蔵金が発掘されたのかは分からないが、これだけ探しても見つからないのは教官達がまた何処かに隠してしまったからだと言う話になった。然し、上級生は授業をボイコットしてまで彼らの足取りを監視しているにも関わらず、中々尻尾を見せない。業を煮やした学生達は今回のデモで宝の在処を炙り出そうと計画した。失踪した井川教官の名を持ち出してほんの少しハッタリを仕掛けたら少なからずボロを出すのでは無いかと睨んだ。
「つまり皆はその埋蔵金が目当てだったのか? 俺だけが何も知らなかった……?」
 本当に何も知らない様子の渋谷に寮生は驚いていた。
 鬼頭教官の死の謎を解き明かすという目的は建前で、渋谷の知らない所でもう一つの計画が進行していた。埋蔵金の噂は耳にしていたがまさか今回のデモの発端になって居たとは。何も知らされず蚊帳の外だった渋谷はあまりの己の無知ぶりに頭痛を覚えた。
 渋谷は俯いて頭を小さく振った。知らされて居なかったのではない、知ろうとしなかったのだ。例えば小林や松山以外の参加者ともっと深く交流していたら得られていた情報だったかも知れない。自分は彼らの仲間ですら無かった。仲間になろうともしなかった。
「計画の発案者は小林だ」
 その名前は渋谷を更なる絶望へと叩き落す。
「結局、埋蔵金の有無も曖昧なままデモは終わった。奴らが抱える大金を横取りしたくてデモを起こした、なんて言ったら俺達も殺人に関与していると疑われるんじゃないかと言う話になって、皆で埋蔵金の件を伏せる事にしたんだ」
 鬼頭の死の謎を究明する為のデモという触れ込みなら世間的にも若干の同情心を得られると思った。渋谷の逮捕によりデモに対する罰則は有耶無耶になったものの、学校から実家の方へ注意が確りと行っていた。次があれば退学処分だと宣言されて彼は改めて己のしでかした稚拙な所業を後悔し、同時に教官想いの学生と言う評価を得られて安堵したと言う。夢から醒めてみれば、実在するかも明白では無い幻の金に何故あんなにも目が眩んでいたのかと莫迦々々しくなってしまった。
 寮生の証言はこれで終わった。真実を曝け出した興奮と恐怖で肩が微かに震えていた。
 渋谷もまた全身が小刻みに震えていた。
 ――そんな物の為にデモを起こしたのか?
 幻の大金に目が眩んだ学生が徒党を組んで騒動を起こした。
 心底下らない理由だと思った。然し渋谷には彼らを咎める資格が無い。瑣末な欲望を満たす為に流されるままに運動に身を投じた自分が一番の愚か者だ。
 「有難う」と渋谷は震える寮生に深々と頭を下げた。
 寮生はそんな渋谷を憐憫の眼差しで見詰めていた。明日、死刑が決まればもう二度と会わない相手だ。残り少ない蝋を糧に生きる灯火を見ているような思いだ。掛ける言葉を探っていると、不意に、トントンと戸を叩く音が静寂に響いた。
 いつの間にか開かれた扉に冴島が寄り掛かっていた。
 大柄な憲兵に隠れるように男が二人控えている。その二人に気付いた寮生は顔を青くした。事件現場に居合わせた教官二名だ。今の話を何処から聞いていたのかは定かでは無いが、二人共、信じられないと言いたげな表情で寮生の顔を食い入るように見詰めている。
 口髭を生やした教官が息を大きく吸って何かを言おうとするのをニコが挙手をして止めた。
「彼は真実を語ってくれた。どうかご容赦願いたい」
 教官達の視線が今度は謎の少年の方へ釘付けになる。その間に寮生は慌てて靴を履き、鼠のように器用に男達の間をすり抜けて行ってしまった。
デモの発案者が小林なら、教官達に纏わる『黒い噂』を流したのも彼である可能性が高い。
(どうして俺には真意を教えてくれなかったんだ)
 埋蔵金など興味が無い。ただ、デモの本来の目的を――彼らの志を自分に打ち明けてくれなかった事実が悲しかった。最初から仲間にする心算など無いのに彼らは何故自分を引き入れたのだろう?
 共に勉学や青春に汗を流した日々が幻のようにぼやけて見えた。
「集中しろ。時間を無駄にするな」
 ニコの言葉に我に返る。
 冴島がニコと渋谷の間を跨ぎ、座卓を部屋の中央に用意した。茶も柿も無い殺風景な台だ。二名の教官がニコと渋谷を頭の上から足の爪先まで凝視しながら着席するのを確認し、冴島は廊下を一瞥して扉を閉めた。冴島の話によると、小林と松山にも呼び出しを掛けたが待てど暮らせど姿を見せなかったらしい。
 狭い部屋に五名の男達が円卓を囲む形となった。
 ニコは自分が冴島の小間使いだと紹介した上で、「話を始める前に」と断って疑問を呈した。
「先程の彼の言葉に心当たりは?」
 もごもごと口を動かして埒が明かないのでニコは早々に切り上げた。
「では、渋谷発見時の様子について再度証言をお願いしたい」
 二人は戸惑いながら視線を交わしていたが、冴島に促されて渋々証言を始めた。
 大まかな内容は裁判所に提出した証言書と同じである。デモで負傷した小林と松山を連れて医務室に向かった所、武器を所持した渋谷を発見したのでどうにか取り押さえた。
 証言はそれで終わってしまった。
 用はそれだけかと聞いて早々に退散しようとする教官達をニコが呼び止める。
「後から駆け付けた冴島殿の話によると、渋谷を押さえていたのは警官と貴殿らの何方かだった。混乱の中で判然とせぬだろうが、どうにか思い出して頂きたい」
 ニコの言葉に、教官達は何かに気が付いたように冴島を見た。俺は何も嘘など言っておらんぞと冴島が威圧の視線を返す。その迫力に二人は視線を交わし、途端にたどたどしくなりながら証言を続けた。
 教官二人は学生達に現場へ近付かないように指示して応援を呼びに行った。一人はデモの通報を受けて駆け付けた警官に、もう一人は偶然居合わせた冴島に。そして冴島よりも先に現場に駆け付けた教官と警官は協力して彼を地面に抑え付けた。以後は冴島の証言と合致する。渋谷も二人掛かりで血の中に沈められた記憶を彼らの証言と照合し、差異は無いと頷いた。
「矢張り妙だ」
 不服そうに眉を顰めるニコに教官達は顔を引き攣らせた。
「そうすると貴殿らは二度、渋谷を取り押さえた事になる。一度目は学生達と共に駆け付けた時。二度目は応援に連れて来た警官と共に。だが渋谷の記憶では一度しか取り押さえられていない。渋谷と冴島殿の記憶と合致するのはこの二度目の方だと思われるが」
 渋谷はその時の記憶を掘り起こしてみた。相変わらず朦朧とした記憶だが二度も押し倒された覚えは無い。確保後は警官に囲まれてそのまま署に連行されたので、渋谷にとって『二度目』は無かった。
「こいつの特技は記憶喪失だからな、本当は二度あったのだろう」
 冴島に鼻を鳴らされて渋谷は慌てて否定した。間違いなく一度きりだった。
「一度目があったなら、何故貴殿らはその時に渋谷から武器も奪わず拘束もせず、学生二人と共に現場に放置したのか。何故、教官が二人も揃って現場から離れたのか」
 教官二人は頻りに視線を交わし、落ち着かないように何度も足を組み直して沈黙を潰していた。
 渋谷も冴島もニコが疑わしく思っている点が何なのかを察した。渋谷の記憶違いで本当は二度取り押さえていたのだとしたら、一度目の後、教官達は現場と犯人に対して大した行動を起こしていない事になる。例えば一人が残って渋谷を監視する、或いは渋谷を身動きが取れないようにしておく、学生達に地下一階から離れるように指示する等、やるべきことは山ほどあった筈だ。
 現場を発見したからこそ応援を呼んだのだから、医務室に行っている事は確かだ。血相を変えてもつれそうになる足を動かしていた教官の姿を冴島はよく覚えている。あれが演技だとは思えない。
 ニコは懐から扇子を取り出して座卓の中央に先を向けた。
「一度目のその時、貴殿らは現場で渋谷史人を目撃しなかったのでは無かろうか?」
 張り詰めた空気にチリンと鈴が鳴る。
「是か否か。お答え頂こう」
 窓辺で戯れていた鳥が囀りながら陽光の中へ消えて行く。
 互いの息遣いが間近に聞こえる。冴島のごくりと唾を呑み込む声に教官が吃驚して身体を痙攣させた。
「憲兵殿、これは何事ですか」と一人が冴島に迫る。
「再審は明日なのに今更何をしているんです。この少年が小間使いだと言うのは本当ですか」
 詰め寄られ、冴島はちらりとニコを一瞥して口を尖らせた。逆に此方が小間使いの扱いなのだがなと不服に思ったが、ニコの正体と彼と行動している理由が知られては話がややこしくなる。冴島が不承不承ながら小さく頷くと教官達は居所が悪そうに俯いた。
 ニコは教官達から目を逸らさない。
「貴殿らは渋谷が倉庫で気絶している時に現場に来た。故に渋谷を目撃しなかった。――冴島殿。教官が助けを求めてやって来た時、一度でも『殺人犯が居る』と言っただろうか」
 冴島は腕を組んで低く唸った。視界には自分に駆け寄って来た当の教官が居る。断片的な事を叫んでいた事は覚えているが、震えてばかりで何を言っているのかさっぱり要領を得なかった。
 冴島が再び教官達を見やった時にはその瞳に疑念が渦巻いていた。彼らは何かを隠している。
 すると一人が座卓を眺めながらぽつりぽつりと語り始めた。
「確かに、我々が初め医務室に行った時には渋谷の姿は見ませんでした。あの惨状が恐ろしくて中までは確認出来ず……、急いで応援を呼びました」
 裁判所に提出された証言書には書かれていなかった事実だ。
「何故そんな重要な事を黙っていたのだ」
 不機嫌になる冴島をよそに教官達は虚ろに視線を定めたまま慎重に言葉を選んでいる。
「二度目には渋谷を確り見とるんです。我々はそれを取り押さえた。少し違いはありましたが嘘は申しておりません。初め我々が現場に駆け付けた時に渋谷は咄嗟に倉庫に身を隠し、然し矢張り逃げられぬと思って出て来たのでしょう」
 倉庫で気絶したという証言も所詮殺人犯の戯言。嘘など幾らでも吐けると言うのが彼らの主張だ。渋谷弐の証言を無視するなら彼らの言葉は筋が通っている。
 然しニコ達は鎌鼬の存在を知っている。
 自分ともう一人の自分の記憶の間に生じた空白の謎は未だ解き明かされていない。たとえ存在を認知していない更なるもう一人が居たとしても、僅かな空白で一体何が出来ると言うのか。
 教官達から疑惑と侮蔑の視線を受けながら渋谷は空白に何が起こったのかを想像した。居るのかも分からない第三の存在を彼是考えるよりも、今眼前に並べられた事実から何か読み取れないだろうか。
 教官二名が一度現場を離れたなら、その場には――。
 渋谷の脳裏にある言葉が蘇る。
 ――度重なる偶然を必然と呼ぶ。
「小林と松山」
 教官達が同時に目を大きく見開いた。
「あの二人はずっと現場が見える場所に居たんだから、もし俺が倉庫から出て来たらそれも目撃した筈だ。それに冴島殿の話によれば片方の学生の衣服には血痕が付着していたのだから、矢張り何かがあった筈なんだ。でも何方も明確な証言が残されていない」
 血の付いた服を着ていた学生は冴島が語る身体的特徴から小林であると判明した。然し小林を含めた四人共、『医務室に行くと武器を持った渋谷が居たので取り押さえた』という証言書を提出している。一部は事実に違い無いのだろうが、実際に渋谷を取り押さえたのは『一度目』に駆け付けた教官二名では無く、『二度目』に戻って来た教官と警官である事が冴島の証言により明白となった。彼らが裁判所に提出する情報を意図的に取捨選択したのは明らかだ。
「真実を知られて困る事でも?」
 三人の視線が教官達に集中する。
「もしや私達が殺人犯だと疑っているのか? 冗談じゃない、犯人は渋谷に決まっている!」
「そう思わせる為に一部の真実を伏せ、自分達にとって都合の良い証言を作為した」
「まさか! 偶然忘れていただけだ!」
「四つの偶然は一つの必然を語る。曰く『口裏を合わせた』……。たとえ渋谷が死刑となったとしても、証言の偽造が立証されたら貴殿らにも相応の罰を受けて貰うぞ」
 教官達は助けを求めて現場を離れた。その間、小林と松山は自由に動く事が出来た。一度目と二度目の間に生じた空白の存在を知られて本当に困るのは――。
渋谷は溜息を吐いた。少し前の自分なら見当も付かなかっただろう。今、脳裏には二人の人物が浮かんでいる。友人としての彼らしか知らないが故に心が中々受け入れてくれない。
 沈黙の我慢比べが続く。室内は異様な熱を帯びて渋谷は息苦しさを感じていた。この根競べに負けてはいけない。彼らがひた隠す真実を吐き出させるまでは瞬き一つしてはならない。
 教官の一人が部屋の扉を気にし始めたので、冴島が腰を上げて廊下を確認した。既に午後の授業が始まっているので寮内には人の気配が無い。冴島が扉を背に座り込んで胡坐をかき、吐かねばここから出さぬぞと二人を威圧する。大柄な憲兵の圧力は多少なりとも二人の決意の後押しをしたようだ。
 実は、と片方が口火を切った。もう片方が慌てて制止するも一度堰を切った物は止められない。自分より身分が上の教え子から受けた脅迫を苦々しく思っていたと吐露する。
「小林の御父上殿からは毎年学校の方へ多額の寄付金を頂いて居るのですが、その息子から、俺に従わなければ支援を打ち切るように親父に言うぞ、貴様らも帝都に居られなくしてやるぞと言われ……。どうせ渋谷が殺人犯なのは揺るぎ無いと思い、言われる儘に致しました」
「真実を語ってくれるならば諸君の安全は保障しよう」
 教官達はニコと冴島を訝しげに見比べた。
 すると俯いて沈黙を貫いていた渋谷が、先程寮生に対して行ったように再度深々と頭を下げた。お願いします、と消え入りそうな声を出す教え子に教官達は眉尻を下げた。互いに知らない仲では無い。成績について口論をした際に言い負かされて悔しそうに唇を噛んでいた姿を思い出す。
 冴島がわざとらしく咳き込み、それに後押しされて教官達の証言が始まった。
 デモが鎮圧された後。校庭をうろついていた小林と南棟前で倒れていた松山と合流した時、松山が歩き辛いと言うので二人は彼の移動を手伝った。小林はその際、三人よりも一足先に医務室に向かった。四人が医務室に行った事は事実として間違いないが、ここでも証言と事実に差異がある。三人は小林の後を少し遅れて追う形となっていた。
 松山は足を挫いており大柄な体躯なので二人が肩を貸して歩いていた。東棟地下へ続く階段を降りている時に廊下の電灯が消えている事に気が付き、代わりに最奥の医務室から明かりが漏れているのが見えた。医務室の光を頼りに歩を進めていると医務室の中から小林が飛び出して来て、三人を見るなり腰を抜かして何事か喚いている。頼まれる儘に医務室を覗いて見ると――。
「あのような惨たらしい光景、芝居でも見た事がありません。兎に角、全身が刻まれていて……。血糊で顔まではよく見えなかったのですが、服装から我が校の教官だと分かりました」
 恐る恐る現場に足を踏み入れようとすると小林に押し留められた。
 ――またあの化け物が出たんです。怪奇です!
「怪奇?」
 ――中で五人も死んでいるんです。俺も怪我を。早く応援を呼んで下さい!
 数か月前に『怪奇』とやらが出現して学生を次々に切り裂いたという話は耳にしている。小林は化け物に襲われて負傷したのか肘のあたりを押さえていた。初めは幻でも見たのかと半信半疑だったが、あの血塗れの現場に立ち入るのも躊躇われ、鬼気迫る小林に圧されて言われる儘にその場を離れた。その辺にいた警官を引っ張って現場に戻って見れば、廊下の片隅で小林と松山が腰を抜かしている。
 そして渋谷発見に至る。
「取調べを受ける前に小林から話を合わせろと言われ、結果あのような証言となりました」
 真実を吐き出して心が軽くなったのか、二人は強張っていた身体を解放するように溜息を吐いた。
「怪奇とやらを目撃したのか」
「いや、直接は。ただ以前にも医務室でそれらしい物が出たと聞いているし、小林も怪我をしているようだったし、何よりあの血の海を見ては……」
「小林の怪我は。切り傷だったのか」
 ニコの質問に教官達は顔を見合わせ、そう言えばと首を振った。小林自身が腕を押さえていたので傷は直接見ていない。戻って来た際に小林の衣類に血が付いている事に改めて気が付き、職員室の隣の医務室で手当てを受けさせようとした矢先に口裏合わせの話を持ち出され、彼の傷に対する意識が薄れてしまった。教官達が離れている間に応急手当はしたと言っていたが、再度駆け付けた時の方が目立った血痕が増えていたように記憶している。
「怪奇に慄いて何も出来んとは情けない」
 冴島が鼻を鳴らして言うと、何を偉そうにとニコが可笑しそうに噴き出した。
 まさにその負い目を突かれたのだと教官達は神妙な表情で話を続けた。自分達に口裏を合わせろと言われた時、父親の名前を出されても教官達は一度断ったと言う。然し小林は引き下がらなかった。
 怪奇が出たから応援を呼べと言われ、自分達はその存在を信じて怖れ慄き、小林の言葉に従った。つまり結果的に怪奇の存在を認めてしまった事になる。軍学校の教官と言う立場でありながら怪奇の存在を認めるような事が露見すれば、怪奇探偵である渋谷とまでは行かずとも偏見的な目で見られる事になる。その上、学生達の保護を二の次にその場に放置してしまったのだから益々心証は悪くなる。そう小林に言われた。貴様らが渋谷に対して取って来た態度を今度は貴様ら自身が受けるのだぞ、怪奇に恐れるような人間が軍学校で教鞭を執っているとなればうちの親父が黙っちゃいないぞ、今に帝都から追い出されて何もかも失ってしまうぞと言われ、二人の心は小林の方へと傾いて行った。
 背中を丸めて告白する教官達を渋谷は物悲しい思いで見詰めていた。彼等からその扱いを受けてどれだけ惨めな思いをしたか。胸中で燻る感情を言葉にしようとしてニコに視線で止められた。
「渋谷を発見した時、彼はどのような様子だった」
 警官と共に彼を取り押さえた教官に訊ねる。
「咄嗟に取り押さえたから何とも」
「足元が覚束無い様子だったか」
 教官が頷く。佇んでいたと言うよりは今にも倒れそうな様子だった。呼び掛けにも応えず、背中から二人掛かりで襲い掛かっても身動きが取れないくらいには足が鈍かった。
 すると渋谷を取り押さえた教官が髪を掻き毟った。
「そう言えばあの時、何か妙に引っ掛かる事があったような……」
 誰もが見守る中、座卓に肘をついて激しく髪を掻く。
 何なのだと痺れを切らして冴島が訊ねると、代わりにニコが人差し指を上げた。
「サーベル刀の持ち方」
 教官は思い出したように目を見開き、頻りに頷いた。
 冴島と、記憶があやふやな渋谷が首を傾げる。ニコは扇子の要をサーベル刀の柄に見立てて握り直して渋谷に向けて構えた。親指は天の方へ向いている。
 続けて座卓を天で突いて扇子を縦にし、要の方へ親指が向くように握った。
 それだそれだと教官が扇子を指差した。
 渋谷は驚いて扇子を持つ手の形を確認した。刀を誰かに向けて構えると言うよりは地面に突き刺しているようだ。
「渋谷が武器を握った状態で立ち上がったのは偶然で、彼らにとっても予想外の幸運だった。誰が見ても立派な殺人鬼の出来上がりだ」
 渋谷は犯人では無いと言うニコの口ぶりに教官達が動揺する。
 医務室倉庫で渋谷弐は気絶したのでは無く、させられた。軽い脳震盪を起こして倒れ、彼らの手により医務室に移動させられた。その後目覚めた渋谷は立ち上がろうとして足がふらつき、手元にあったサーベル刀を咄嗟に掴み、それを杖にして身を起こした。
「彼らは倒れた渋谷の手元にサーベル刀を置いた。若干握らせていたかも知れないな。兎角、渋谷がそのまま倒れていても、居合わせた自分達が咄嗟に応戦して気絶させたとでも言えば良い。要は凶器と一緒に現場に在るだけで犯人は出来上がる」
 その偽装工作が出来るのは小林と松山しか居ない。特に小林は教官達よりも先に医務室に到着し、彼らが後を追って来るまでにも若干の空白を持つ。渋谷を気絶させて倉庫に隠すくらいの猶予を持つ。
 渋谷が追い払った直後の事なので小林が再び怪奇と出くわしたとは考えられない。その存在を主張したのは教官達を遠ざけて空白の時間を得る為だ。鎌鼬が切り裂いた遺体を再度サーベル刀で刻んで渋谷と刀身に血糊を付け、それらを一緒に医務室に置く事で彼が殺人鬼だと印象付けた。これにより遺体に二種類の傷が出来た。現場を踏み荒らした際に小林自身も血を浴びてしまい、教官達が一度目よりも二度目に見た時の方が出血が増えていると錯覚した。
「ふうむ。証拠は無いが筋は通っている。然し何故、餓鬼共はそんな工作を行ったのだ」
 呆気に取られてニコ達のやり取りを眺める教官達を無視し、冴島が訊ねる。
「どうせ俺に恨みでも在るんだろう」
 渋谷がぽつりと答える。全ては自分を死刑に追いやる為だ。今思えば理由はどうであれ医務室に行くように勧めて来たのも小林だった。何もかも最初から仕組まれていた事だったのだ。
 然しニコは首を振った。少なくとも教官達の死は彼らにとって予想外の出来事だった。方便に利用したものの、小林と松山は探偵でも無いのだから鎌鼬の存在やその行いについて把握していたとは思えない。そもそも教官達が医務室へ行ったのもそれを炙り出すデモがあったからこそで、デモの発案者である小林は教官達の行き先を何よりも突き止めたかった筈だ。それに渋谷が絶対に地下の医務室を利用する確証など何処にも無い。
「では全ては偶然か?」
「いいや、『全て』では無い。繋げるべき糸を見誤ってはいけない」
 縁と聞いて渋谷は井川の名を思い出し、何か情報が無いかと教官達に声を掛けた。
 ここまで喋ってしまった以上は隠し立てする物など無い。教官達は弁舌をふるった。
 陸軍科の職員に於いて井川失踪と盗難事件について知らない者は居ない。学校が外部から受け取った金銭は職員室の金庫に一時的に保管され、事務員が帳簿を付けてから帝國銀行に移動する形となっている。井川失踪後すぐに事務員が確認したところ帳簿と実際に金庫にある額が一致せず、更に備品と薬品の盗難も発覚した。その後開かれた職員会議で矢張り井川に嫌疑が掛かったが、彼の行方も分からず犯人捜しは断念されたのだと言う。
 ニコはそれらの証言の要点を手帳に何頁にも渡って記した。
 他に言い残した事は無いかとニコに問われて教官達は彼是と考えて居たが、以上ですと言って黙った。全てを語り切ったと清々しい表情をしていた。
「ご協力感謝する」ニコも反論が無いのか頭を下げた。
 冴島が立ち上がって扉を開けると、教官は足早に部屋を後にした。
 彼らとすれ違いに寮長がやって来た。
「冴島さん、あんたに電話ですよ。十河ってお人から」
 冴島は残った二人をちらりと見て、寮長と共にその場を離れた。
 授業を終えて休憩時間が訪れたのか校庭が人の往来で賑わっている。渋谷は深い溜息を吐いて足を崩した。緊張から解放された身体に一気に血が巡り、足の指先に痺れを感じる。
 この短時間で一気に浮上した友人達に対する疑惑に未だ自分の心が付いて来てくれない。寮生の話の段階では未だ彼らを信じたい気持ちが残っていたが、教官達を脅迫したと言う明確な証言をされて一縷の希望も失ってしまった。
(一番莫迦なのは俺だ)
 デモに参加するよう勧誘された時に断る事も出来た筈だ。たとえ小林達に企みがあったのだとしても、自分が犯人扱いされている現況を作り出したのは自分自身だ。もしあの時デモを断っていたら、もし他の学生達とそれなりに交流をしていたら、もし酒に酔わず医務室に行かなかったら。後悔ばかりが頭を巡る。
 項垂れた後頭部に微かな衝撃が走り、耳元でチリンと音が鳴った。
「誰もが埋蔵金に対して強い想いを抱いている。生者然り、そして死者然り」
 頭を擡げると更にチリンと音が転がり落ちる。
「教官達は会議室に入った後、何らかの恐怖を抱いて会議室から医務室へ移動した。そして小林は教官達の死体を発見した時に、この場にこそ自分達が求める物が隠されていると気付いた。埋蔵金は未だ医務室の何処かに眠ったま、彼らは只管にそれを追い求めている」
「会議室に入った後? デモ当日の早朝か」
「それより前に医務室に行く用事が出来たなら、わざわざ会議室に一旦集まる必要などない。先程の寮生は何も言っていなかったから小林と松山が独自で何かを仕掛けた筈だ」
 思わず顔を上げるとニコが扇子を手元に下ろした。
「僕の推理が正しければ、恐らく証拠は何処かに残されて――」
 ハッと青い目を大きく瞠って言葉を止める。
 ニコの視線は渋谷の手元へ向いている。戸惑って居ると彼は扇子の先で渋谷の手の甲を突いた。何事かと思いながら手を裏返すと、先程ニコが手の平に引いた『まじない』が見えた。
 渋谷は首を傾げた。その印は先程見たものと違って見える。真一文字に引いていた筈の線が菱形を作り、菱形の中央にはあの式神の頭部と同じ黒丸があった。まるで人の眼を記号化したような紋様だ。
 ニコが立ち上がった。
「矢張り現れたか。行くぞ、医務室だ」
「医務室? 現れたって一体…」
 渋谷もニコの後を追って慌てて肩掛けに頭を沈める。
 その彼の手を取ってニコは『まじない』をトントンと突いた。
「式神の報せだ。行けば分かる」
 医務室は警官が警備している筈だ。まさか彼らが立ち入ったのだろうか?
 違う。今この状況で封鎖されている医務室に用のある人間と言えばあの二人しかいない。
 いつかは対面せねばならない相手だが渋谷の心は未だ揺れていた。今為すべきなのは彼らが抱え込む真実を暴く事だ。衝突は避けられない。先程の話で小林と松山に対する意識が変わって来たものの、実際に面と向かって会話をした記憶はデモの朝が最後で、気分を悪くして嘔吐を繰り返す自分に医務室へ行くように勧めた小林は心底案じてくれているものだと思った。希望は枯渇し、一度生じてしまった蟠りは拭いきれないが、それでも自分の眼で見た彼の姿を信じたい。罪を被せて来たのも埋蔵金に執着するのもきっと彼なりに何か深い事情があるのだと言い聞かせた。
 先を歩いていたニコが不意に此方を振り向く。逃げるなよ、と瞳が静かに語る。
 胸中を見破られているようだ。どのような真実が語られようとも、怪奇を、穢れを祓う為には全てを受け入れなければならない。刻一刻と自分の命の起源は迫っている。鬼頭の為にもここで退いてはいけない。
 渋谷は恐れと迷いを飲み込み、小さく頷いた。


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